第19章──剣Ⅱ
Ⅱ
村は闇に包まれた。民たちの姿は見えない。家の床下に深く穴を堀り、そこに身を潜めていたのだった。
女に化けた布羅保志之綿胡だけが、生け贄用の石台の上で縄に縛られ……そして────ガタガタと震えていた。
生ぬるい風が頬を舐めるように通りすぎる。「や、や、やっぱりよせばよかった…」後悔したが、時すでに遅しというやつだ。
暗闇から〝ばしばし〟と枝木の裂ける音が迫ってくる。生ぬるいだけだった風に生臭さが加わった。
「うぅ~…なんだぁ、この胸の悪くなるような臭いは…」やがて不気味に光る鬼灯のようなオロチの目が仄かに宙を舞いだした。
雲に隠れていた月が姿を現すと、月光の下にオロチは全身を顕わにした。「あれが奴か…。想像以上におどろおどろしい化け物だ…」オロチは綿胡の存在に気づいたが、それより先に温めていた酒と麦粕の甘い香りに誘われたようだった。
「主食は後というわけか…。こっちとしては助かった………たらふく飲んで酔っぱらってくれ…」オロチは八つの酒瓶にそれぞれ一つずつ頭を突っ込み、強い酒を旨そうに飲んだ。半分飲んだところで、今度は酒瓶の傍らに置いてあった麦粕の甘い匂いに誘われて食らいついた。酒粕とはいえ結構なアルコール度数だ。さらに酔いは回り、お腹もドッシリと重そうだ。「よし…また酒を飲みだした。その調子だ、全部飲み干せ…」綿胡は息を殺してオロチの様子を見ていた。
麦粕を酒の肴に、とうとうオロチは瓶の酒をすべて平らげてしまった。大蛇の化け物といえども、このもてなしは相当応えたらしく、ぐでんぐでんに首をくねらせている。
「今しかない!」へべれけに酔ったオロチに勝機を感じた綿胡は、縛られたふりをしていた縄をはずし、霊神から授かった剣〈日・月・光〉を出現させると、左手にしっかり握りしめ真っ向からオロチに突っ込んでいった。
けれど腐ってもオロチだ。意気込んで近づいてくる綿胡を見つけると、長い八つの首を一斉にそっちに向けた。真っ赤に光る鬼灯のような十六個の眼は、動く綿胡から逸れることはなかった。綿胡は危険を回避できるぎりぎりの距離までオロチに近づき、向かって一番左の頭を標的にした。オロチは大きな口を開けて綿胡に襲いかかってきたが、予想どおり動きは鈍かった。綿胡は難なく体をひらりと躱して首の根元に回り、そのまま〈日・月・光〉を振り下ろした。オロチの首は綿胡の胴体の何倍も太かった。それでも確かな手応えを感じた綿胡は、次の瞬間、オロチの首が宙を舞っている図を想像した。
ところが──鋼の鎧のようなオロチのウロコは、首を刎ね飛ばすどころか食い込みもしない。
──「なんだこれは…?動きが鈍くなってもこれでは歯が立たない…」綿胡は一旦後ろへ引き、オロチと充分間合いを取ると、自分が甘い考えで戦いに挑んだことを思い知った。
「ふんっ…酔ってはいても、こいつは妖蛇・八俣の大蛇だぞ。小手先だけで倒せると思ったのか?」
「うるさい…みなまで言うな……まずは相手の力量を確かめてみただけだ」
「肝は小さいくせに負けん気だけは強いな」霊神のイヤミに〝むっ〟とした綿胡だったが、内心は〝そのとおりだ〟と受け入れていた。
「頭が八つというのは、思っていたより厄介だな…。回り込みたくても、必ず頭のどれかがこっちを睨んでやがる…。動きが鈍い間になんとかしないと…」焦る綿胡は右に左に体を動かしながら、なんとか脇に回り込もうとしたが、オロチはそれを許さなかった。
──「何かよい策はないものか…………奴の気を逸らせる良い策が…」考えていた綿胡は何か閃いたのか──霊神に尋ねた。
「この剣を投げたらどうなる?」
「危険な行為だ。もし奴に奪われたらそれでお仕舞いだぞ…」
「…では紐を括り付けることはできるか?」
「紐………………お前は本当に変わった奴だな…」
「どっちなんだ?できるのか?できないのか?早く答えろ!」焦って苛つく綿胡は霊神に噛みついた。
「できないことはない…。さっきお前が使っていた縄を使え。だがそのままでは駄目だ。この剣はこっちのモノではないから、お前の霊気で縄の魂を取り出せ…物魂と呼ばれるものだ。まぁ、お前ほどの霊力があれば難しくないはずだ」
「そうか…礼を言う」綿胡はさっきまで自分を縛っていた縄を手に取ると、霊気を高めて縄から魂だけを抜き出すようイメージしてみた。
すると────果たして綿胡の手には、限られた者にしか手にすることができない、もう一本の縄がしっかりと握れたのだった。
「ふんっ…霊力だけは大したものだな。人間としては頼りないが…」
「お前はどこかの嫌味な婆さんのように、いつも一言多いな…」
綿胡は常にオロチとの間合いを計りながら、剣の柄に縄をしっかりと括り付けた。そして、カウボーイよろしく剣の付いた縄を頭の上で回し始めたのだった。オロチは縄の先でくるくる回っている剣から目を背けようとしない。
「見ろ……奴め、剣の行方が気になるようだぞ」気を良くした綿胡は、そう言いながら徐々に縄を伸ばして剣の回転を大きくしていった。
──「よし今だ!」頃合いをみて綿胡は剣を上空に向けて放った。手で放り投げるよりも、遥かに高く飛んでいく。
「なんだ!?オロチに向かって投げるんじゃないのか?…………それとも放す方向を誤ったのか?」
「うるさい黙って見てろ…」いちいち心の中に話しかけてくる霊神にイラつきながら、綿胡は剣の行方を追っているオロチの目を追った。
──「思ったとおり…奴は上空に舞い上がった剣に気を取られている。…後ろに回り込むなら今しかない」綿胡はオロチのバカデカい図体の真横をすり抜けて一気に背後へ駆けていった。そして尻尾の先を足がかりにオロチの背中に向かって登りだすと、剣を括った縄を手繰り寄せ始めたのだった。
「なるほど…この縄は剣を引き戻す使い道もあったんだな」
「力不足は頭で補う………背中に乗れば、さすがに奴も仕掛けては来れま…ぐがぁっ…」ところが──綿胡が話し終わる前に、強い力に弾かれて宙に飛ばされ、次の瞬間、引力に従って地面に叩きつけられた。
「がはっ……なにがあったんだ…?」
「尻尾だ…………。奴の尻尾を見てみろ…」霊神に言われるまま尻尾に目を遣って綿胡は驚いた。オロチは八本の尻尾をまるでゴムのように長さを自在に変えながら〝びんびん〟と振り回していた。
「背後もダメか…………いたっ…」立ち上がりかけた綿胡は、熱い痛みを覚えてへたり込んだ。
「…ダメだ…足をどうかしたらしい…」もたついているうちに、たちまちオロチの八つの顔が綿胡を囲んで上から見下ろした。
「ここまでか…」オロチは真っ赤の鬼灯のような目をさらにギラつかせながら綿胡を舐めるように見ている。
「…ん?オロチの奴、黙って私を見ているだけだ…。助けてくれるというのか…?それになんだか身体が浮いたようで心地よい…」
「何を気楽なことを!オロチは黙ってお前を見ているんじゃない…お前の霊気を吸い取っているんだ。身体が浮いてるように感じるのはそのためだ。早く逃げるんだ…このままだと魂を吸い取られるぞ」
「逃げたいが……もう動けない…力が抜けて…………眠気も襲ってきた…」
「おい…おいっ…しっかりしろ!私は、私自身をお前に預けたんだぞ…そんな簡単にクタバらんでくれ…」
「そうしたいんだが…………目の前が…だんだんと…」綿胡は自分が意識の底の闇深くに沈み込んでいくような気がした。
「以前は霊神に命を救われたが………………今度こそ…今度こそ終わりか…」
やがて、胸の鼓動が静かに止まると──────白い息を吐き出すこともなくなった。