第3章──五里霧中Ⅰ
五里霧中
──「幸いここまでは順調だ。コイツを住処にしたのは正解だった。だが油断はならない。完璧に影を潜めて隠れられるわけではないし、この世界に慣れるまで今暫くかかりそうだ。焦らず慎重に事を進めなくては…」
Ⅰ
「パパ、お母さん、ただいまぁ~!」
「おかえりなさい錫」。「おっ!うちの大将がやっと帰ってきたな…」
「やっとって……たった二泊三日よパパ」せっかくの旅行も、天甦霊主と須勢理毘売から命がけの無理難題を押しつけられたせいで、楽しさは半減だった。察しの良い浩子には〝大事件が起こった〟とだけ伝えたが、まだ詳しく説明していなかった。
「お土産を買ってきたよ。えぇっと…どれだっけ…あっ、これこれ、宍道湖名物シジミの佃煮。お酒のおともにピッタリのシジミ!──商品名は〝しみじみ呑めるしみじみシジミ〟」
「うふふふ……錫らしいお土産」
「とりあえず錫ちゃんは疲れたのでちょっと休んできます…」錫はそう伝えていそいそと自分の部屋へ行った。
──「あと10分もしたら浩子はここに来るに違いないわ…」部屋に戻った錫は旅行カバンをひっくり返しながらそんな予想をしていた。
十分後──浩子こと智信枝栄はクマのクッションに座って錫の話に釘付けになっていた。
「…それは理不尽な条件ね」。「でしょ?遠回しに死んでくれと言われているみたいだよ…」
「天甦霊主様だって余程の事でもない限り命を奪いはしないでしょうけどね…」。「今回がその余程だったら…?」
「…間違いなく命を奪われるわね!」。「ほらね──今回は絶対その余程だと思う…ニャン!」堂々巡りだ。
「ん~…とにかく黒の国に行ってみないとね。今度の祝日…三日後に行きましょう!」。「了解。浩子が一緒なら心強いわ」
「ところでスン、あの子たちはどうしているかしらね?」。「いしと綿?…そうね…きっとケンカしながら狛犬隊の統率に力を注いでいるんじゃない」
「天甦霊主様も考えたわね。たしかに狛族は忠実で賢くて強い。隊を成せば白の国にとって大きな戦力となるわ。昔、拗隠の国が狛族を必要としたように…」
錫が堕羅の大門を封印した後、天甦霊主は、いしと綿を白の国に連れ戻して、狛犬たちを探し出す役目を任せた。白の国にはまだまだ多くの狛犬たちが、あちらこちらに影を潜めて隠れているからだ。
浩子が帰って静かになった部屋で、錫は珍しく眠れない夜を過ごしていた。
──「いったいこれからどうなるんだろう。いや、どうすればいいんだろう…?錫雅は……ううん…私は剣をどこに隠したの…?誰一人として、それを知る者がないなら、本当に…本当に私が死んで記憶を呼び戻すしかない?──おじいちゃん…教えて。錫はどうすればいい…?」今まで幾度も大きな渦に巻き込まれてきた錫だったが、今度ばかりは抜け出すことができない──そんな気がして勇気も元気も出てこなかった。
とうとう一睡もできず、錫は憂鬱な顔でキッチンへと足を運び、冷たい水をコップに注ぐと一気に飲み干した。まだ鈴子も起きてきていないようだ。錫はもう一度部屋に戻るとベッドに潜って丸まった。
──「こんな時、いしだったらどんな言葉で励ましてくれるかな…」錫は無性にいしに会いたくなり、声一つ立てずに涙を流すのだった。
それから暫くして錫に睡魔がやってきた。やっと眠れそうだと思ったときケータイ電話が鳴った。
「もしもし…。どなたですか?────あぁ~…いつかの…」どうやら知った相手のようだ。
「えっ!?──相談したいことが?…私にですか…!?──はい…じゃ、その時間に伺います…」電話の内容と、睡魔を邪魔されたイラ立ちとでスッキリしない錫は、眉間にシワを寄せてブツブツと呟いていた。
「いったいなんだろ…。第一私に相談なんて筋違いじゃないの…?」
Ⅱ
箕耶鎚は天性の器用さでその頭角を現し、大工職人としては棟梁からも一目置かれている若者だった。この噂は矢馬女の耳にも伝わり、箕耶鎚は特別に宮造営の列に加わることを許された。卑しい身分の箕耶鎚だったが、矢馬女から特別に箕耶鎚之工という名を授かり、二人の娘も矢馬女の側に置いてもらえることになった。その二人の娘こそ双子の姉妹──種女と葉女だった。
箕耶鎚がまだ十八歳の時──山賊に襲われた女を助けたことがあった。命を助けられた女は行く当てもなかったのか、箕耶鎚の側を離れようとせず、そのまま居着いてしまった。数ヶ月が経った頃、女の腹はだんだんと大きくなっていった。やがてお産を迎えた時、女は二人の赤子の命と引き替えに難産の末に死んだ。
父親になった箕耶鎚は、それから男手一つで二人の乳飲み子を育てた。近くに乳の出る女がいれば乳を分けてもらい、仕事があれば誰かに面倒を見てもらいながら二人を育てていった。
順調に育っていた姉妹だったが、わずか一歳の時、姉の種女は原因不明の熱病に罹り死の淵を彷徨った。何かの祟りに違いないと、化け物祓いをしてもらったが、まったく治まる気配はなかった。結局高熱は六日間続き、なんとか一命は取り留めたのだが、その代償として種女は光を失った。
それから一年、また一年と月日が流れて、二人は十三歳の娘に成長していた。箕耶鎚が宮造営の大工に抜擢されたのは、ちょうどこの頃だ。矢馬女は二人の娘たちも面倒を見てやると言って、肥女だった種女と葉女を最も格の高い御矢馬仕えに取り立ててやった。そもそも身分の卑しい箕耶鎚が、矢馬女から直々に名前を授かり、二人の娘たちまでも御矢馬仕えに上がるなど到底ありえない話だった。
矢馬女はたいそう二人を可愛がった。目の見えない種女は余計なことを見ることもなく、矢馬女の言われたとおりの事だけをこなす都合の良い存在だったし、葉女もまた、姉の種女を労りつつ、その手足となって働く忠実な娘だったことが理由だ。
二人の待遇は同じ御矢馬仕えの中でも特別扱いだった。すべての陰仕えは矢馬女の屋敷から出て暮らすことを禁じられていたにも拘わらず、二人は父親の箕耶鎚の元から通うことを許されていた。
生まれつきそうであったのか──それとも光を失ったことでその力が研ぎ澄まされたのか──それは本人さえも知り得ないことだが、種女は何かの気配を感じる能力に長けていた。生きている人の気配はいうまでもないが、そこに存在しないはずの気配までもはっきりと分かるのだ。それにもう一つ──物事を予知する力が種女には備わっていた。地震が起こることを言い当ててみたり、誰かが怪我をすることを回避させることもあった。最初は小馬鹿にしていた民たちも、あまりに的中するので信ぜざるを得なくなった。気味悪がる者もいたが、食べ物などを持参して吉凶を占ってくれと頼む者も現れだした。占いとは違って、いつ何時、何を予知するか分からないので、頼まれても視てやることはできないと説明しても諦めてもらえず、逆恨みされることもあった。けれどもその程度のいざこざはまだ可愛いものだった。やがてこの小さな火種は矢馬女の元へと飛び火し、種女たちを焼き尽くそうとする大火となる危険なものだったのだ。