第16章──大蛇《オロチ》Ⅲ
Ⅴ
「ご主人様、ずいぶん嬉しそうですね?」
「そうだよ、今夜は信枝に誘われてるの!」
「信枝殿にですか?でも信枝殿に誘われてそんなに浮かれるなんて…。…ま、まさかご主人様まで信枝殿を好きになったとか!?」
「ちょ…ちょっとやめてよぉ~いしってばぁ…。んなわけないでしょ…」錫はいしの鼻先を左の人差し指で軽く弾いた。
この日は十五夜──中秋の名月だ。信枝の家は武道家である父・段乃原正立のこだわりで、こうした年間行事には殊の外うるさいのだ。自宅はもちろんのこと、道場の床の間にも、三宝の上に十五個の月見だんごがピラミッド型に供えてある。いつもは道場に通う子供たちにおすそ分けするのだが、今日はその道場が休館日なので分けられない。かといって家族三人で食べるのは至難の業だ。そこで信枝はとっておきの作戦にでた。それはいちいちご近所に配って回るような面倒臭さもない…たった一本の電話で事足りる手間いらずな作戦だった。
「ご主人様はここのところ、ずっと剣のことで頭がいっぱいでしたから気分転換が必要ですけん。信枝殿に会われて少し心を癒してください」
「ちょっといし……信枝に会っても心は癒されないよ…逆にイジられるだけ。私はお腹を癒しに行くの…むふふふっ」
「えっ…お腹を癒しに?お腹が癒されたら二本目の剣を見つけられるでしょうか…?──ご主人様は折角一本目の剣を見つけ出されたのに……それなのにこのいしは…このいしは……ううっ…すみませんご主人さまぁ~…」
「ちょ…ちょっと、あんただんだん卑屈になってきてるわよ」
「うっうっ…ですが、わたくしが油断して取り憑かれたせいで…大事な剣が大事な剣が…」
「分かった、分かったって…。必ず剣は取り戻すから心配しなくていいわよ…それより今は楽しいこと考えようよ」
「そうでした…。気分転換のはずが、わたくしがいらぬことを言ったばっかりにご主人様はちっとも癒されませんね…このバカないしめがいらぬことを言ったばっかりに…ぐうううっ…」
「ちょっといしぃ~……泣くのはやめなさいよ…誰もあんたのせいだなんて思ってないって…。それに、そんなに泣いてたら、まるで私があんたをイジめてるみたいじゃない…」
「すみません…ううっ、すみません……」ずーっといしはこんな調子なのだった──。
〇
信枝の部屋の前の長い縁側に座って、錫はぼんやりと夜の空を眺めていた。
「こうしてみると、お月見っていうのも情緒があっていいもんだよねぇ…」
「あらあら……スンったらしみじみとしちゃってどうしたの?」信枝は月見だんごを三宝に乗っけたまま運んできた。ピラミッド型に供えてある月見だんごを見た錫はぺろりと舌なめずりをした。
「うわっ、うわっ…錫ちゃんはやっぱりそっちの方がいいなぁ!」
「だろうね…。あったかいお茶を入れてきてあげるからしっかり食べてって!」
「言われなくても遠慮なく頂いちゃいますよぉ~!」中秋の名月に照らされて、月見だんごを頬張りながら高級な玉露をすするのは至福のひとときだった。
「今夜は雲もないし、最高のお月見だね…。あ~…こうして美しい月を眺めていると、愛しい錫雅様を思い出しちゃうのよね…」
「プゥ──ッ!」思わずお茶を噴き出してしまった錫だった。
「…信枝ってば…もう────そんなわけの分からない幽霊のことなんて諦めちゃえば?」
「幽霊じゃありません、霊神です!あんたには理解できないだろうけど、錫雅様はこの月のように私を優しく包んで癒してくれるの………だけど…」
「だけど……?脈がないから諦めるって?」錫は身を乗り出して尋ねてみた。
「だけど………一度くらい灼熱の太陽になって私を焦がしてほしい…」
「ヒエッッッッッ…」だんごがノドに詰まって、錫は目を白黒させた。
「スン…私が天国にも地獄にも行ったことは話したよね?でね…それまでは考えてもみなかったんだけど…もしかしたら月に纏わる物語って本当かもって思ったりするようになったの。たとえば〝かぐや姫〟なんか…もとになる話があるんじゃないかって…」錫は返答に迷った。
「て、天国とか地獄とか…錫ちゃんには死んだ人が行く世界のことはよく分からないなぁ…。ましてかぐや姫なんて日本最古のSFでしょ?…錫ちゃんは信じられないなぁ……はははは…」重みのない乾いた笑いでごまかしてみたが、引きつっている顔を悟られないようにするのに必死だった。
「だよね…あんたに聞いたのが間違いだった…。だけど向こう側の世界を覗いちゃった私は、頭から否定できないのよね…。もしかしたらかぐや姫の話にはモデルがいるんじゃないかとか……月には本当にウサギがいるんじゃないかとか……そんな風にね…」
──「信枝はそんなこと考えていたのか…。だけどそんな世界に引きずり込んだのは、誰あろうこの私……なんとなく申しわけなく感じる…」
「“うさぎうさぎ なに見てはねる 十五夜お月様見てはぁ~ねる♪”──今ではこんな童謡にだって不思議な話が隠されているんじゃないかって思っちゃうんだよね。もっとも月とウサギの話って有名な仏教説話らしいけどね…」
「へ~…知らなかった。…信枝って歌が上手いなぁ!」
「そ、そっちなの…?あんたどこに感心してるのよ……ってだんごがあと一つ!」
「くはっ……食った食ったぁ!」
「天然(T)・単純(T)・臆病(O)のスン…あんたのT・T・Oはこれから天然(T)・単純(T)・大食い(O)にするわ!」
「ウマい!信枝にざぶとん一枚!」錫は明るく笑って最後の月見だんごを口の中に放り込んだ。
〇
「あんたのご主人様の胃袋は底なしだね…」
「だまれ。ご主人様は食べた物の栄養を全部頭に運ぶんだ。だから見事な閃きで次々と謎を解きなさるんだ」
「ふぅ~ん……まぁ、あたいにはどうでもいいことだけど…」
「相変わらず可愛げのない奴だ…。そんなだからいつまで経っても主人ができないのだ」
「そ、それはあんたに関係ないでしょ?あたいは好きでこうしているの…一匹狼…いや、一匹狛犬が気楽でいいの…。鬱陶しいからしゃべらないで…こっち見ないで…」
「先に話しかけてきたのはそっちだろう…。親切で忠告してやったのに…勝手にしろ…」
いしと綿は相も変わらず犬猿の仲だった──。