第16章──大蛇《オロチ》Ⅱ
Ⅲ
旅行だと言っていた奈緒子と千夏が戻って来ることはなかった。家も引き払っていたし、誰に尋ねても足取りは掴めなかった。
とどのつまり──松本弘志は、せっかく手にした大金をまんまと騙し取られて何も無くなった──。いいや、何も無くなったと言う表現はなまぬるい。契約の時に借りた松本名義の三千万円と、それだけでは足らずヤミ金から借りていた八百万円の借金だけは残っているからだ。
「あいつらはじっくり探し出すとして、ヤミ金から借りた金をどうにかしないと、利息だけでとんでもないことになっちまう…」あれこれ考えた末、また窃盗をするしかないと目論んだ松本だった。
大仕事を一人でこなす自信のない松本は、久しぶりに広井善男に連絡を取った。当然、怒鳴られて会うことを拒まれたが、しつこく食い下がって、なんとか郊外の公園で会ってもらうところまで漕ぎ着けた。
「連絡はするなとあれほど言っておいただろ…?なんだって今頃呼び出した?」広井は公園のベンチで松本と距離をおいて座ると、松本に背を向け、スポーツ新聞を読むふりをしてそう言った。
「それは悪いと思ってる。実は兄貴ともういっぺんだけ窃盗をしたいんだ…」
「バカかお前は!自分がやらかしたことが分かってるのか?警察だって大鳥舞子を犯人と断定したわけじゃない…まだ容疑者でしかなんだぞ」
「それは分かってるが、どうしても纏まった金がいるんだ」
「金なら山分けしただろう…?お前まさか使っちまったのか?とにかく俺はゴメンだ。やるならお前一人でやれ……と言いたいが、それもやめてくれよ。お前が警察に捕まったらこっちまで終わりだから…」
「…だったらこれから警察に行って自首するぞ…」
「な……お、お前まさか……俺を脅してるのか?」
「こんなことはしたくないが、俺はどうしても金が必要なんだ。なっ、兄貴助けてくれよ…」
「…………いいやダメだ、それだけは絶対にダメだ!捕まったらすべてが終わりなんだぞ」
「………仕方ない…今日は帰る。また連絡するよ兄貴…」
二人は何ごともなかったように右と左に別れていった。広井善男の判断は間違っていなかった。けれど、そこまで慎重になれるのなら、松本とこうして会うことも断念すべきだった。
Ⅳ
「この国はどこまで続いているのだろうか…?──性分なのか、一旦引っ掛かると、そのことがどうしても気になってしまう…」
いつの時代にあっても、些細な疑問を追求したがる人間が現れるのものだ。
布羅保志之綿胡は果てない旅を続けていた。この国の最果てをその目で確かめるためだ。旅の先々で幾つもの村を見てまわった。どの村にも独特の生活形態があって、不思議とその風土に適した産物も用意されていた。綿胡は足の向くまま気の向くまま村を転々としていたのだった。
深い山に囲まれた閉鎖的な村を訪れたとき──綿胡の運命は大きく変わった。この村は特に目立った産物も特殊な技術で施された工芸品も無いつまらない村に見えた。
綿胡がひょんなことから仲良くなった長の家に世話になって二日目、家族と共に夕餉をご馳走になっていたとき──この村に隠された秘密を知った。
「ヤマノオがこっちに来ているようだ…」穀物と菜物の雑炊をすすりながら、何気なく長が言った。
「…本当だ。ケシノが子を産んだ報告に来る。男が生まれたようだ…」嬉しそうにそう言ったのは長の息子だ。
「あらあら…………大変だ…水とシメの葉を用意しておいてやらないと…」続いて息子の妻も口を開いたが、綿胡にはその意味が理解できなかった。
やがてヤマノオが長の家に訪ねてきたのは、すっかり夕餉が終わった頃だった。
「長様──女房のケシノが子を産みました……わしも父親になりました」
「それは良かったのぉ。お前が家を出た時から待っていたぞ…」
「でしょうね……ははは…」然もありなん──といった様子でヤマノオは笑っている。
「それよりあんた…途中で転んでケガしただろう?そそっかしいんだから…。みせてごらん」ヤマノオがかなり派手にすりむいたヒザを出すと、息子の妻はまず用意していた水で傷口をきれいにし、そのあとシメの葉の汁を手で絞って傷口に擦りつけてやった。どうやら化膿止めと傷を早く治す薬草のようだった。
綿胡はすべてのことに驚いた──。「どうして先のことが分かっていたのですか?」
「むふふふっ……旅の若者、驚いたようだな。お前がこの村のことを、なんの取り柄もない村だと思っていることも知っている…むふふっ。だがな…この村にも取り柄はある──けれどそれは食べ物でも作り物でもない……実は人なんじゃ。この村のほとんどの民たちは、よそ者にはない何かを持っている…。それは、わしらのように少し先のことが分かったり、生き物や草木と話をしたり、病を治したり、この世のモノではないモノが見えたりと多様じゃ」
次いで長の息子が続きを語りだした。「わしらはこの力を〝神玉〟と呼んでいる。この村の民の多くは代々何かしらの神玉を持って生まれてくるが、さらにその力を養うための修行もする。そうすることで、より強い神玉を得られるんだ」長の息子がそこまで説明すると、長は綿胡を手招きして自分の隣に座らせて言った。
「わしはお前がここに来ることも分かっていたぞ」
「まさか!?」綿胡はまたも驚いた。
「旅の若者よ…先を急がず暫くここで暮らさんか?…季節が一回りするまででいい。ここに残れ」
「どうして?…私がここで暮らす理由はなんです?」
「お前の目はわしらと同じ目だ。もしかすると、お前にはわしらと同じ神玉が備わっているかもしれん……ならばそれを養え」長の話に綿胡は二度三度驚いた。もしも自分に未知の力が備わっているとするなら、それはなんだろう──?綿胡はこの村に立ち寄ったことを偶然とは思えず、一年だけこの村に留まることを決めた。
それから綿胡の修行が始まった。彼に与えられた行はただ一つ──山の中腹にある大きな一枚岩の上にただただ座り続けることだった。
長曰く〝この村は、あらゆる方角から天地の気が集まる。そして一枚岩のあるこの場所こそ、四方から流れ着いた気がぶつかり合う最も聖なる地点なのだ〟と語った。綿胡は長の言葉を素直に受け入れ、ほとんど岩から離れることなく座り続けた。
そうして、まだ一年も経たぬある日のことだ──。その日は厳しい寒さだったが、夜になっても綿胡はそこを動こうとしなかった。あまりの寒さに誰かが心配してそっと大きな布団を掛けてくれた。
深々と夜が更けていく──。
木の葉の擦れる音が子供の笑い声に変わった。極限の寒さが、焚き火の暖かさに感じてきた。薄れていく意識が、綿胡に安らぎという錯覚を与えているようだ。
──「このまま深い深い眠りに就いてしまおう…」脈打つ数は減り……そして弱々しくなっていった。やがて綿胡の鼓動は…………止まった────。