第2章──堕羅の秘密Ⅱ
Ⅳ
「矢馬女の神にお目通りを願います。羽矢埜速彦でございます」
「なに用じゃ?」矢馬女が奥の部屋から庭先に出てくると、羽矢埜速彦は土下座のまま頭を上げることなく挨拶した。
「矢馬女様にはご機嫌麗しく存じます…」。「そんな通り一遍の挨拶などいい…。何ごとだ?」
「矢馬女様…またしても宮柱が倒れてしまいました」。「なに!?……先ほどの地のお怒りのせいか?」
「それが…どうやらあれは地のお怒りではないようです」。「地のお怒りではない?…ではなんなのだ?」
「どうやらモノノケの仕業のようでして…この地に伝わる大蛇の仕業かと…」。「モノノケ?」
「はい。ですから矢馬女様に祓って頂かねばなりません…」
「そうか…だがまずは占ってからだ。皆の者、占いの場へ向かうぞ。火を熾し供え物を用意しておくのじゃ…」
矢馬女はこの国を治める女の長だった。独特の占いで方位日柄の吉凶はもちろん、干魃になれば大雨を降らせる術を使う。民からは矢馬女の神として崇められ、誰一人逆らうことはできなかった。
「では占いを始める」亀の甲羅の形をした大きな石の下から火が焚かれている。熱した石の上に矢馬女はぱらぱらと穀物を蒔いた。忽ち穀物はパチパチと小さく弾けながら、香ばしい匂いを漂わせ始めた。これがどう占われるのか──見ている者にはまったく見当もつかない。占いの結果を知るのは矢馬女ただ一人なのだ。
「間違いない!地のお怒りの原因はモノノケの仕業じゃ!」矢馬女が大きな声で占いの結果を告げた。
──「助かった……モノノケの仕業なら責任は問われない」羽矢埜速彦は安堵した。
「このモノノケは大蛇。うむ…大蛇に違いないぞ!モノノケ祓いの儀式を七日後に執り行う…」その場を取り囲んでいた民たちにそう告げた矢馬女は、屋敷へと引き上げて行った。
矢馬女の身辺を整えるのは〝陰仕え〟という身分の卑しい女たちの仕事だった。その中でも屋敷内の掃除や、宴の踊りなどを受け持っている者たちを〝為仕え〟と呼んでいて、常時五十人は控えていた。同じ陰仕えでもかなり待遇が良いのは、矢馬女の食事、それに衣類や寝具を調える役目の〝御矢馬仕え〟で、矢馬女に直接関わることを許された存在だった。そして最も身分の低い陰仕えを〝肥女〟と呼び、言わば陰仕えに仕える陰仕えだ。肥女は、為仕えや御矢馬仕えの言われたことに従う雑用係で、命令されれば逆らうことは絶対にできない。御矢馬仕えが為仕えに頼んだことは、回り回って結局は肥女の仕事になる。つまり面倒くさいこと、汚いことはすべて肥女が受け持つことになってしまうのだ。矢馬女や陰仕えたちの糞尿を汲み取って肥料にするのも肥女の役目だった。そもそもそれが〝肥女〟と呼ばれる所以だ。奴隷同様の扱いだが、それしか知らない肥女たちにとってはなんでもないことだった。
同じ陰仕え同士と言えども、肥女は言い付けをされる時以外、為仕えに声をかけられることがないほど蔑まされていた。まして御矢馬仕えとなると尚のこと──肥女にとって御矢馬仕えは、こちらから顔を見ることも許されぬ存在だった。
双子の肥女──種女と葉女は、いつも寄り添い合って日を暮らしていた。
妹の葉女は器量も気立ても良く、その上、決して姉よりも出しゃばることをしない賢い子だった。姉の種女も双子だけあって、同じく器量も気立ても良く頭も切れる子だった。けれども種女と葉女には大きな違いが二つあった。一つは種女には肉眼では見えないモノを感じる霊力が──それも相当強い霊力が備わっていることだ。そしてもう一つは、逆に人が肉眼で見えるモノを見ることができないということだ。種女は幼い頃、原因不明の熱病を患って両目の光を失っていたのだった。
Ⅴ
「おばあちゃん…それで?憑子園を出た静紅さんはどうなったの?」錫は待ちきれない体で話をせがんだ。
「行くあてもなかったあの子は真っ先に私を訪ねて来たよ。失っていた声も出るようになっていたし、何年かぶりの再会にお互い抱き合って喜んだもんさ…。けれどあの子には悩みがあってね……だんだん霊能力が強くなってしまって、そこらかしこに居る霊が見えてしまうんだ。それだけじゃない──霊があの子の中に入り込もうとするのさ」
「うんうん、今ならその気持ち、すっっごく分かるよ!」錫は大きく相槌を打った。
「心根の優しい静紅に霊たちが助けを求めて寄ってくるんだよ…。中には質の悪い霊もいてね…静紅を困らせることがしばしばあった。何度かうちの虎さんに頼んで聖霊してもらったものの、根本的な解決にはならないし、どうしたものかと思案していると、うちの虎さんがこう言ったのさ──〝乾丸正嗣という除霊師を訪ねてみろ〟ってね…。助かりたい一心で乾丸先生を訪ねた静紅だったんだけど、先方さんは静紅の霊力の強さに驚いて、そのまま助手にしてしまったんだよ。もともと静紅は身寄りも行く当てもない子だ。住み込みで仕事をさせてくれるなら願ったり叶ったりだった。…それからどれくらい経ってからだったろうかねぇ……静紅がふらっと家に来たんだ。そしてこう言った──〝姉さん、私…辛いんです〟ってね…」
「あ~…乾丸先生にいじめられたとか?…もしかして変なことされたとか?…人は見かけによらないからなぁ…」
「ほほほっ、考えすぎだよ。静紅はとってもうぶな子でね…乾丸先生に恋をしてしまったんだよ」
「恋?…じゃ、辛いっていうのは恋煩いってやつ?」
「そうなんだよ。うぶで生真面目な静紅は、自分の面倒をみてくれている人であり、師匠のような存在でもある乾丸先生に恋することを罪に感じたんだ…」
「へ~…あの乾丸婦人がねぇ…。…んで?どうなったの?」夢中で話を聞いていた錫のヒザがじりじりとミツの方へと近づいていたが、とうとう引っ付いてしまった。
「ちょっと錫…あんた近いよ!──それで私は虎さんに話をしたよ…。これこれですってね…」
「そうしたらおじいちゃんは何て?」錫の目は爛々と輝いている──聞き逃せない恋話だ。
「笑ってたよ…。どうやらあの人の策略だったらしくてね…満足そうに笑ってた…ふふふっ」
「乾丸先生にはそれなりの助手が必要だし、静紅さんは霊力の強い人に助けてもらわないといけないし…。お互いにとって一番良かったんだね。まさにゴールデンカップルってやつね!」
「そのとおり。そこで私の出番だ。静紅はあんな調子だし、うちの虎さんは乾丸先生との対面を敢えて控えていたから、この私が出向いて行って乾丸先生に静紅の気持ちを伝えたんだよ」
「そしたら?乾丸先生は?…ねぇねぇ…なんて?」
「そう急かされちゃ話せないだろ…せっかちな子だねぇこの子は…。あっさり断られたよ!」
「ぐぇっ!…断られちゃったの!?」
「あぁ~そうだよ…自分は女性を幸せにできる器じゃないからってね…」
「静紅さんを嫌いなわけではなかったのね…。うん、それで?」
「それでこっちは虎さんから預かってきた切り札を取り出したのさ。もしも乾丸先生が渋ったらこれを渡せって言われていた物をね」
「ふぅ~ん…どんな切り札?」
「手紙だよ。乾丸先生はその場で封を開けて読んだ。そして次の瞬間涙した…」
「どんな内容だったの?」
「さぁ…残念ながらそこまでは…。今となっては永遠に封印さ…乾丸先生の胸の中でね…」
「そうかぁ…すっごく気になるけど…。そして二人は──結ばれたのね?」
「あぁ、静紅をすぐに受け入れてくれたよ。苦労した子だったけど、乾丸先生のところに嫁いで良かったよ。あの子は今幸せだもの」ミツが目を潤ませると、錫ももらい泣きして目にうっすらと涙を浮かべた。
☆
「どうしたんですか?今日は朝からずっと短刀を磨いていますね?」
「うむ…今日は師と初めて出会った日だ。忘れられない大事な日なんだ」
「そうでしたね…。毎年のことなのに忘れていました。…お茶でも入れましょうか?」
「うむ…。ついでにわしの部屋からコイツの箱を持って来てくれないか」乾丸正嗣は部屋に忘れた晶晶白露の桐箱を持って来るよう静紅に頼んだ。
「はいはい…」時折静紅は天登虎ノ門に嫉妬した。夫の乾丸は妻の誕生日や結婚記念日をうっかり忘れることはあっても、師との想い出の日は決して忘れないからだ。〝この人は結婚する相手を間違えたのかしら…〟そんな冗談を考えるほど、乾丸は師にぞっこんだった。
静紅は桐の箱を手に持った。蓋が開いていたので傍らにあった蓋を閉めようとしたその時、箱の底にある古い封筒が目に入った。少し躊躇いながらも…封筒を手に取り────そして…。
「はい、これ…」
「あぁ…すまん。ありがとう…」乾丸は大事そうに桐の箱を受け取ると、ふと静紅に目を向けた。
「どうした?目が真っ赤だぞ?」。「ちょっとゴミが入ったみたいで…」
「そうか…大切な目だ……いいや、目だけじゃない…静紅は私の大切な………コホッ!」。「なんですか?…途中で言葉をやめて………ちゃんと最後まで聞かせてください」
「あ~…その………お、お茶はまだか?」。「はいはい…もうお湯が沸きますから…」静紅は台所に来ると、また胸が熱くなって涙をにじませた。
──「あの人は私を心から愛してくれている…」躊躇いつつも見てしまったあの一行を、静紅は永遠に忘れることはないだろう。
この子は君と歩む もう一本の晶晶白露だ
虎ノ門