第12章──並び替えⅠ
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Ⅰ
松本弘志は早朝から高級クラブ『鳥』に来ていた。営業中はライトダウンしている店内も、今は照明を明るくしている。
松本は本革の真っ赤なソファに腰をおろし、贅沢感の漂う店内を興味深げに見渡していた。暫くして控え室から黒縁のメガネをかけた中年男性が現れた。鼻の下とあご全体に蓄えたゴマ塩の濃いヒゲが印象的だった。
「お待たせしました。花空不動産の〝佐出義数〟と申します」いったん立ち上がった松本が名刺を受け取り、再びソファに座ると、佐出は早速『鳥』の権利に関する手続きについて話し始めた。「これからは私が窓口になって松本様のサポートをさせて頂きます。ここは一等地。店内はこのようにかなりゴージャスです…一億でも買い手はつくでしょう。ですがオーナーは八千万円という破格値でお譲りするおつもりです。どういう経路で松本様にこの商談がきたのか……それは私の知るところではありませんが、なんにしても運の良いお方だと思います…」佐出は羨ましそうに松本の目を見た。
「えぇ………欲しいのはやまやまなんですが、正直、さすがに八千万という金を都合するのは…」
「それなら、こちらのマネージャー様から聞いています。ちなみに……松本様のご用意出来る金額はおいくらでしょうか?」
「頑張ってかき集めても四千万です…」
「そうですか…。少々お待ち下さい」佐出はポケットから携帯電話を取り出しながら席を外した。何やら小声で話をしていたが、詳しい内容は聞き取れなかった。
「お待たせしました。オーナーに松本様の現状をお話しましたところ、やはり八千万円は譲れないとのことでした」
「そうですか…」自分の運気の上昇を信じていただけに、松本は落ち込んだ。
「まぁまぁ、そうがっかりなさらないで下さい……話には続きがあるのですから…。オーナーは貴方が見ず知らずの人ならばともかく、お店の子の知人ということで無下にはしたくないそうです。それでです……驚かないで下さいよ!なんと売値を七千万円にするとのことです。但し、このことは絶対に口外しないことが条件です」
「願ってもない話だが…それでもまだ足りない…」
「そうですね……残りの三千万ですが、オーナーの知り合いの金融会社から借りてはどうかということです。銀行だと審査などの手続きがややこしいですが、そこならオーナーの顔で簡単に借りられるそうです。〝『鳥』のオーナーになれば、すぐに返済できるから心配はない〟とのオーナーの伝言です」
「そ、そうか、そりゃありがたい…はは…はははっ…。き、決まりだ──すぐ契約だ!」夢か現か区別がつかぬほどの幸運に松本は舞い上がった。
「そんなに喜んで頂けるなら、すぐにでも権利証書をお渡しして差し上げたいのですが……書類を作るのに三日だけ頂けますか?」
「三日…?そ、その間にオーナーの気が変わったりはしないだろうな?」
「それは心配はご無用です。念のため手付け金を預かることもありますが、高級クラブのオーナーになられるお方にそのようなことも失礼ですし…」その言葉を聞いた松本は、自分の人生のステージが何段階も上がったと確信した。
三日後の同時刻に現金と印鑑を持参するよう言われた松本は、小刻みに頷きながら店内を見渡した。
──「もうすぐこれが全部俺のものになるんだ!」そう考えただけで、勝手に顔の筋肉が緩んでしまうのだった。
Ⅱ
本当は集鬼鈴を鳴らしたかった。けれど助けに来るのはいしと綿だけではない──間違いなく信枝も一緒だ。それに気味の悪い堕羅の亡者がわんさか集まってくることを想像すると、錫はやはり集鬼鈴を鳴らす勇気がなかった。
──「頑張ってこのまま塀づたいに進んでみよう」いつどこから何が襲ってくるか分からない恐怖に怯えながら、錫は堕羅の大門を目指して進むのだった。
「ご主人様……ご主人様……聞こえますか?」それは確かにいしの声だった。強い念を送ってきている。今まで恐さが先に立っていて、念を受け止める集中力もなかったようだ。
「いし……ここだよ…。どこだか分からないけど、左手を塀づたいに歩いてる」
「分かりました!こっちは右手を塀づたいに進みますけん」いしの声を聞いて俄然元気になった錫は、今までの倍の早さで歩き出した。
それから暫くして、いしがまた念を送ってきた。「もしもし……よく聞いてください。どうやら今あなた様の歩いている場所は危険です。先で亡者どもが待ちぶせしているようです。ですからその塀から離れてもっと堕羅の中央に来てください。今はそっちの方が安全です」
「わ、分かったわ……。じゃぁ、右方向に進路を変えるわね…」
「はい、あなた様がそちらの方向に出て来てくだされば私が見つけ出しますから安心してください」
「もう…さっきから私のことをあなた様だなんて…変ないし…。私に念を送っていることを悟られないよう警戒しているのね…」
辺りは薄暗かった。ごつごつした黒い岩が点在していたが、特に身を隠せるような大きな岩はない。それでもいしの言うとおりに方向を変えて歩いていると、きちんとお座りしているいしの姿を発見した。
「いしぃ~~~!」錫は素早く駆け寄って思いっきりいしを抱きしめた。
「恐い思いをされましたね。でももう大丈夫ですよ」
「うん……。それで信枝と綿は?」
「先に帰しました。信枝殿はかなり渋っていましたが、必ず錫雅様を連れて帰るからと、なんとか説き伏せまして…」
「信枝に正体がバレたら大事だもんね。ありがとう、さっすがいしね!」
「はい。では我々も戻りましょう…」錫はどうにか事なきを得て人間界に戻ったのだった。