第2章──堕羅の秘密Ⅰ
堕羅の秘密
Ⅰ
いつものことながら、ミツが長い長い旅から帰って来たのは、錫が旅行に行く二日前のことだった。
「お帰りおばあちゃん…毎度のことだけど長かったね…」
「あぁ。あっちは居心地が良くってねぇ…ついつい長居をしてしまうのさ」
「あっちって沖縄でしょ?それにしてもおばあちゃん…いったい向こうで何やってるの…」
「ダイビングだよ!」。「ダ、ダイビング!?」
「ふぉっふぉっふぉっ…冗談だよ。この歳でダイビングなんてしたら溺れちまうよ。あっちは気候も人も温かくてのんびりできるんだよ…」
「ふぅ~ん…。おばあちゃん…なんか隠してるでしょ?」
「あら…さすが聖霊師様だね…。バレちゃってるのかい?…そうだね、そのうち錫を沖縄に連れて行くよ…それまでは秘密ということにしといておくれ…」
「う~ん…気になるけど聞かずにおくわ…。そのかわりと言ってはなんだけど、いいかげん乾丸婦人のことを教えてよ…。今日こそは絶対譲りませんからね」
「はははは…。静紅のことは必ず突っつかれると覚悟して帰って来たよ…。だけどあん時の錫の顔ったらなかったねぇ…ふっふっふ」
「もう…冗談キツかったよぉ!」
「ふっふっふ…悪かったよ。あんたは最初に乾丸邸を訪れたときからずっと巫女さんでとおしていたんだろう?静紅が聞いてきたんだよ──〝うちに来ている巫女さんっていうのは、ひょっとしてミツ姉さんの孫の錫さんか?〟ってね。だから私は、本人が龍門の娘であることを隠しているなら、そのまま知らん顔しててくれって頼んだのさ」
「なんだ、そうだったのかぁ~…。で…どうしておばあちゃんと乾丸婦人…あ、いやぁ…静紅さんは姉妹なの?」
ミツは静紅との出会いから姉妹になった経緯を細かく語ってやった。
「おばあじゃ~~ん……なんてシュテキな話なの~……」
「あんた顔が涙でぐしょぐしょじゃないか…」
「だってぇ~…感動したもん。汽車で二人が別れる時の話なんて…まるで映画よね……ぐしゅん……。白水紗華っていう静紅さんの本名もステキだね…。それで静紅さんはどうして乾丸先生と結婚することになったわけ?」
「あーそれかい…それはね、静紅が成長して憑子園を出るとき、私を頼ってきたことから始まるんだよ…」
Ⅱ
大鳥舞子は生まれて初めて取り調べを受けていた。
よしんば被害者の立場で事件に巻き込まれることがあったとしても、まさか自分が容疑者にされるなど思ってもみないことだった。
「おい…一松、俺は別の事件が入ったから、お前がこの事件を担当しろ。女もあんな調子だし…すぐに落とせる」
「は、はい…」正直なところ一松穣二はあまり嬉しくなかった。上司の脇田警部のような厳しい取り調べなど、とても真似できなかったからだ。脇田が厳しく取り調べていたのは、舞子の態度にあった。
「物怖じしないあのふてぶてしさを見てみろ…。経験上、あーいう奴は間違いなくクロだ」
「ですが、彼女の場合は…」
「まぁいいから問い詰めてみろ。刑事の勘でお前にアドバイスしてやっているんだ」上司にそう言われると何も言い返せないが、一松はあまり信用できずにいた──刑事のカンというやつを。
「それじゃ、あなたは誰かに無理やりナイフを握らされて、呆然としていたところに家の人が帰って来たということですね?」
「そうです。何度もそう言ってるじゃないですか…」一松はこれ以上舞子を追い詰めることに抵抗があった。彼女が若い女性だからという理由で同情しているわけではない。若い女性でも犯罪者はいる。だが一松は舞子が殺人犯だとはどうしても考えられなかったのだ。
供述によれば、今回の事件は、舞子が妹の住んでいた一軒家に越して来た途端に起きた出来事だった。殺されたのは雪島繁四十八歳。前科二犯でいずれも窃盗で捕まっていることは調べがついていた。
大鳥舞子は青森県に住んでいたが、数か月前から妹の大鳥葉子に一緒に暮らそうと誘われていた。やっと踏ん切りがついて一緒に暮らすと葉子に話すと、〝姉さんの気が変わらぬうちに〟とわざわざ青森まで舞子を迎えに来たのだった。長旅を終えて家に帰ると、葉子は疲れている舞子に少し休むようにと伝えて、自分は近くのスーパーに足を運んだ。これから姉妹仲良く暮らすのだ──夕食にはささやかだが祝いをしたいと新鮮な食材を買いに行くためだった。
葉子が出かけて間もなく、舞子は慣れない旅の疲れのせいか、ソファーに座っていつの間にか眠っていた。他の部屋から人の気配がしたので目を覚ましたが、妹にしては様子がおかしい。恐くなってソファーから立ち、部屋の隅に立っていると誰かにナイフを握らされ、その後は気が動転してよく覚えていないとのことだった。その後、葉子が買い物から帰って来ると、見知らぬ男が血を流して倒れていたので、あわてて警察に連絡したというのが大鳥姉妹の供述だ。もし大鳥舞子が殺していたとしても、状況から見て当然殺意があったとは思えない。
──「脇田警部は何を考えているのか全く分からない…。大鳥舞子が刺して殺しただなんて…」一松は取りあえず舞子を自由にしてやった。迎えに来た葉子に連れられて、たどたどしい足取りで帰ってゆく後ろ姿を一松は黙って見送った。
──「どう考えても彼女に人を殺せるはずがない…。事件の真相はこれからじっくり捜査して明らかにすればいい…」一松の目の裏には舞子の白い杖が焼き付いていた。
Ⅲ
「助けてー!」錫はいよいよ最後だと覚悟を決めた。手を放せば地の底に落ちる──そこには得体の知れない生き物が目を光らせて錫を待ち構えている。絶対手を放してはならない。
──「私ってこんなに重たかったかなぁ…」自分の体重とは思えないほどの重みが両腕に伝わってくる。徐々に前腕の筋肉が燃えるように熱くなり、痛みなのか痺れなのか判断の付かない苦痛が全身に回った。その苦痛が限界に達した時、〝もういい…〟と自分に言い聞かせた。それまで精神力だけで持ちこたえていた握力が抜け落ち、しがみついていた地面から手が離れた。苦痛から一気に解放された安楽は恐怖より遥かに勝っていて、何が待ち構えているのか分からない地の底へ素直に身を委ねられるのだった。
次の瞬間、錫は見覚えのある真っ白い空間に立っていた。
「あっ…ここは………白の国…。ひょっとして自称神様の仕業?」
「錫…今のは半分は私の仕業で、半分はそうではない──堕羅で起こった激震を再現してみせたのです」
「えっ!?…また理解できない話が始まった…」
「堕羅での異変を察知した私は、すぐさまあなたをここに呼びました。間もなくお前が知っている霊神がここへ来るので少し話を聞いておくれ。その者が詳しく説明するであろう…」
「えっ!?私の知っている霊神…?誰…?」
「私です錫!」姿を現したのは目映い美貌の霊神だった。
「須勢理毘売様!」
「あなたに堕羅のことを伝えに来ました。願わくば起こってほしくない事態になってしまったようです…」
「何?なにナニ…!?そんな深刻な顔しないでよ…。こっちまで不安になっちゃう…」須勢理毘売はそれでも顔を曇らせたまま錫に目を向けて堕羅の話を始めた。
「錫…お聞きなさい。太古の昔、人の魂を喰らう邪悪な化け物が存在していました。その化け物の噂は長きに渡り人から人に伝わり、やがて神話の中でも語り継がれるようになりました。その化け物はあなたもよく知っているでしょう…」
「も、もしかして……八俣の大蛇…?」錫は答えが間違っていることを願いながら答えた。
「そのとおりです」残念ながら正解だった──。この瞬間、錫の血の気は引き、どうしても帰りたくなった。
「ねぇ、須勢理毘売様…その話…最後まで聞かなきゃダメ…?」
「聞かなきゃダメ!」キッパリと返されては聞くしかない。
「神話では八俣の大蛇を退治したのは須佐之男命とされていますが、実際はそうではなく勇敢な霊神によって退治されたのです。そして二度と悪さができぬよう堕羅に封印しました。ところが八俣の大蛇はここでも暴れ回って手に負えず、堕羅の亡霊たちをも喰らい込んで、より力を増していったのです。そこで霊神は堕羅の中のさらに奥深くに別の空間を創ったのです。つまりは八俣の大蛇を封印するためだけの空間……そこを私たちは“真堕羅”と呼んでいます」
「ま、真堕羅…。聞いただけで気味悪い…」
「真堕羅に閉じこめられた八俣の大蛇は、いつしか私たちの世界では真堕羅のオロチと呼ばれ、気の遠くなるような年月──その封印を解かれることはありませんでした…」
「ありません…で・し・た…過去形?その先は聞きたくない…やっぱり聞かなきゃダメ?」
「…聞かなきゃダメ!」須勢理毘売の答えは同じだった。
「堕羅の亡者たちはわざわざ災いの降りかかる真堕羅に近づくことなどしません。第一堕羅の亡者たちの霊力では真堕羅の封印を解くのは絶対と言ってよいほど無理です。なのに、どうして真堕羅の封印が解かれる最悪の事態が起こったのか…。考えられることは一つ、堕羅以外の何者かが真堕羅に揺さぶりをかけたのです。真堕羅の封印力は相当です。正面からでは封印は解けません。ゆえに堕羅付近に揺さぶりをかけて裂け目を作り、真堕羅の封印を解いたのかと…。はっきりした理由は分かりませんが、オロチを復活させて邪なことを考えているのは確かです」
「それをどうして私に話すの…?」あえて錫は恐々と尋ねたくない質問をした。
「…あなたが今の堕羅の大門の門番だからです」
「ですよね…」最初から分かっている答えだ。
「そこで…あなたに伝えておかなければならないことがあります。真堕羅のオロチを退治するための大事なことです」
「も、もう私が退治することに決まっているの?」錫の顔色は真っ白だ。それでも須勢理毘売は容赦なくオロチ退治の話を始めた。
「その昔、勇敢な霊神が八俣の大蛇を退治した武器は一本の剣でした。その剣に秘められた霊気は凄まじく、八俣の大蛇討伐の後、邪悪な考えを持つ者たちの標的にされることを恐れた霊神は剣を三本に分けたのです。そしてその剣は堕羅の大門の玉と同じく、代々の堕羅の大門の門番によって、場所を変えて隠されてきました」
「なんか得意だよね……分けるってやつ…」
「白の国ではよく使われる手法です。霊気を無くすには分けるのが最適ですから」
「まさかその三本に分けた剣を探し出せとか言うんじゃないでしょうね?」
「あなたもこの世界のことが分かってきたようですね。まさにそのとおりです!」
「うぇ~ん…うっそでしょ~~~…またぁ~………。くしゅ~ん…」錫はげんなりだ。「んで…今度は何を頼りに見つけ出すの?」
「とても言いにくいのですが──その三本の剣についてはまったく手がかりがありません…」須勢理毘売は気の毒そうに告げた。
「えぇ~~~…それじゃ、どうやって見つけだせっていうの…?」
「…苦肉の策ですが…たった一つだけ…方法があるにはあります」それを聞いただけで、錫はもう救われたも同然の気になった。
「えっ!?わーい!錫ちゃんこの際なんだってやっちゃう!」須勢理毘売は口ごもったくその策を話し始めた。
「…唯一はっきりしていることは、あなたが堕羅の大門の門番ということです。…つまりそれはあなた自身が三本の剣を隠していることを意味しています…」
「うん。それは言われるまでもなく理解できる」
「もし探し出す手がかりが無いとすれば、思い出すしかありません。その隠し場所を思い出す方法はただ一つ…」錫はその答えをすぐに察した。
「ま、まさか…?」軽はずみに〝なんだってやっちゃう〟と言ったことを後悔した。
「はい……あなたが死んで錫雅尊の記憶を取り戻せば一件落着です」
「い、一件らくちゃ………………か、簡単に言いますけど…私まだ死にたくないです…」
「拗隠の国で〝無〟を覚悟したあなたなのに?」
「あの時はあの時………今は今ですよぅ~」そこへ天甦霊主が割って入った。
「錫…須勢理毘売は苦肉の策と申しましたが、その表現は適切ではありません。〝苦渋の選択〟と言い換えるべきでしょう。つまり…あなたは手がかりがまったく無いまま三本の剣を見つけるか…あるいは死して錫雅尊の記憶を取り戻し三本の剣を手に入れるか──そのどちらかを決めなければなりません」
「………。手がかりが無いまま剣を見つけ出すなんて、どう考えて無理…ムリムリムリ…。だとすると、選択肢は………あるようで無い…」普段から物腰の静かな天甦霊主と、美しく優しい須勢理毘売だが、今の錫には二人がかりで遠回しに〝死んでくれ〟と追い詰めてくる死神にしか思えなかった。「で、でも錫雅のことですから……もしかして、手がかりを残している可能性はありますよね……ふふふっ…。頑張って探しますから時間をください…」死ぬことだけは避けたい。
「ぼやぼやしていると復活した真堕羅のオロチが霊気を蓄え、古の魔物と化すでしょう…のんびりはしていられませんよ」
「やれるだけやってみます…。いいえ、絶対見つけます!」
「分かりました。あなたを信じて待ちましょう…。天甦霊主様よろしいですね?」
「はい。私とて錫を死なせるのは本意ではありませんから…」
「おぉ、もう一つ。あなたが万が一間違って三本の剣を探し当てた時のことを伝えておきましょう…」
「須勢理毘売様…その言い方はどうも引っかかりますが…」
「ごめんなさい…つい…。オロチは完全にその魂が無になることはありません。二度と復活させないためには、三本を合わせた剣を背中の急所に刺し、真堕羅の大穴へ放り込んで、剣の霊気で入り口を封印しなくてはなりません──確かに伝えましたよ」
「須勢理毘売と私の話は以上です。まずは一刻も早く三本の剣を見つけだしなさい」
「あっ!ちょっと待って…あと一つだけ……堕羅の亡者ってなんなの?ねぇ…堕羅の…」
「スン…スン……大丈夫!?スン」。「うへっ……信枝?」
「信枝じゃないわよ!あんたいつからフラダンスを覚えたの?」。「フラダンス?」
「そうだよ。宮柱の跡の上に立っていきなりフラフラ踊りだしてさぁ…」
「あっ、あっ…あぁ…ちょっとね……最近フラダンスにハマってて…」
「だからってこんな神聖な場所でいきなり踊る…?」
「ごめんなさぁ~い…」頭をかいてごまかした錫だったが、浩子はただならぬ事が起こったに違いないと見て取っていた。