第11章──捕縛Ⅲ
Ⅲ
「千夏に話したわ」深夜のスナックには、もう松本しか残っていない。カウンター越しに話しかける奈緒子の言葉に、松本は思わず肘をついたまま身を乗り出した。
「それで…?どうだった?」
「やってみてもいいって。……ただ」
「ただ……なんだ?条件付きか?」
「いいえ…条件というわけではなくて…」
「なんだ…?気になるからハッキリ言ってくれ」
「実はね、あの子ったら早速マネージャーに店を辞めるって相談をしたらしいの。そしたら…」
「そしたら…?」松本は奈緒子の間怠っこしい物言いに間が持てず、持っていたビアタンブラーを指先でクルクル回し始めた。
「〝辞めてもいいが、少し待っていれば今より働きやすくなるかもしれない〟って言われたらしいわ…」
「どういうことだ?」
「オーナーが替わるらしいの。店を売りに出すんだって…」
「経営状態が悪いのか?」
「まさか!あの店は大繁盛よ。オーナーはとっとと店を売って悠々自適な生活をするらしいわ。まったく羨ましい限りね…」奈緒子は軽くため息を吐いた。
「……いったい幾らくらいで売りに出すんだろう…?」
「そうねぇ…一億…いや一億二千万ってとこね…。だけど、あのお店なら間違いなく一年もかからないうちに元を返せるはず」
「そんなに凄いのか!?」
「そりゃ~もう……あそこの権利を手に入れた人間はラッキーよ…。まっ…そんなわけでオーナーが替われば給料も待遇も良くなるかもしれないから、それまで待ってみたらどうかって……マネージャーのア・ド・バ・イ・ス…」その時〝カランカラン〟と鈴の付いたドアが開いて、千夏が入ってきた。
「ただいま。今日はラストまでだったわ…」
「お疲れ様。ちょうど松本さんにあんたの話をしていたところよ…」初対面の松本と千夏は軽く挨拶を交わした。
「例の話でしょ?…それなら今日また新しい情報を仕入れてきたわよ!実はね、売りに出す前に、知人で買いたい人がいたら優先してくれるんだって。ママはお金に困っているわけじゃないし、どうせなら見ず知らずの人間に売るより、知った人に『鳥』を譲った方がいいって…」
「そうなの!?…あのお店の権利を得る幸運な人間は誰なのかしらね?…私に蓄えがあれば、借金してでも買うんだけどなぁ…」
「千夏ちゃん…け、権利って…お店の権利って幾らで手に入るんだ?」松本の目の色が変わった。
「安くないわよぉ…八千万円」
「は、八千万円!?」
「そうよ…。庶民には手の届かない額でしょ?」
「だけど私が予想していた額よりも安いわ…。ねぇ松本さん…」奈緒子がチラリと松本を見た。松本も奈緒子を見て小さく頷いた。
「でも八千万よ…。もっとも交渉は出来るようだけどね…」
「交渉……?ほ、本当か!?」
「うん。ママはがめつい人じゃないからね。交渉次第では一千万や二千万引いてくれるかも…」
「えぇ~なぁにぃ、松本さん…本気モードになっちゃって。まさかオーナーになろうと思っているんじゃないでしょうね?」
「だけどお母さん…もし松本さんがオーナーになって、お母さんがママになれば、私はこの若さと美貌でナンバー1になってみせるわよ!」
「今の俺は最高に運気が上昇している時なんだ。こんな話が転がり込んで来ることがその証拠だ。…よし決めた──当たって砕けろだ!で、誰に交渉すればいいんだ?」
「本気なのっ!?……分かった。明日マネージャーに詳しく聞いてみるわ」
「すっごい松本さん!なんだか身体からオーラが出ているみたいだわ!」
「ホントだ。とってもカッコイイ!」煽てられた松本はすっかり有頂天になってニヤついていた。
Ⅳ
蚣妖魎蛇に捕まり、暗く小汚い牢へと放り込まれた錫の一番の心配は時間のことだった。このまま何日もほったらかしにされたら、魂の抜けた錫の肉体はやがて朽ちてしまう。もっとも、そうならないように暫くはいしが自分の肉体に取り憑いてくれるだろうが──だとしても早くここから逃げ出したいのは確かだ。
錫は牢の扉の窓から外の様子を窺った。さっきまでトカゲの姿をした亡者が二体見張っていたが、今はまったく気配がなかった。
「誰か居ないの?」小さな声で呼んでみたが返事はない。
堕羅の大門はずっと開いているはずだ。いしたちに念を送って場所を知らせれば助けに来てくれかもしれないとも考えた。けれどここは堕羅だ──錫の魂は錫雅尊ではなく香神錫本来の姿に戻されている。信枝がもしここに来たら即座に正体がバレてしまう。
──「助けを呼ぶのは最終手段。まずは自力でここから逃げ出す方法を考えないと…」とは言え良い策が浮かんでくるわけでもない。
──「パパのように門番を騙くらかしてみようかな?…ダメだ…私はあんなに口八丁じゃないもん…」
「すみませ~ん…誰か居ませんかぁ?トイレ行きたいんですが………もうガマンできません…」錫なりに考えた案だが幼稚すぎる。「どうして誰もいないんだろう…妙に思った錫は何気なく扉を押してみた。すると────────開いてしまった。
「ひぇ~~…見張りの奴ったら鍵をかけ忘れてるじゃないのよぉ!」今までの時間は何だったのかと思いつつ、錫はとりあえず辺りの様子を窺いながら牢を出た。
──「どっちに行けばいいんだろう?…よし、こんな時は塀づたいに逃げるのが最善……あったまイィ~錫ちゃん!」錫がその場を逃げだそうとしたそのとき、何かを踏んづけて転びかけた。
「なに…?」薄暗くてよく見えなかったが、それは手のひらに収まる程度の玉だった。よく見ると近くにまだ二つ三つありそうだ。
「た、卵?……ヘビの卵だ…」ぞっとした錫は脱兎の如く走り去った。