第10章──地獄Ⅱ
Ⅱ
「私の着る服にどうしてこのようなものが残っておる?」一本の縫い針が矢馬女の服に刺さったままだった。
「お、お許し下さい矢馬女様……これは何かの…」
「黙れ!事もあろうに針を取り忘れるなどと…。私の大事な体に刺さりでもしたらどうするつもりじゃ!」
「申しわけございません。どうかお許しを…」
「ならぬ!種女を棒で叩け──十回…いいや、二十回じゃ!」
「矢馬女様……姉は目が見えないのでこのような失態をしたのでございます。故意ではございません…どうぞ寛大なお裁きを…」
「なに?…そなたも棒で叩かれたいのか?」矢馬女は凍りつくような目で葉女を睨みつけた。
「し、しかし…」種女は片手で葉女の手を握った──〝それ以上何も言うな〟との無言の忠告だった。
そんな一部始終を、冷ややかに見ていたのは田祢壬だった。
──「馬鹿な女だ。身分を欲張るからこんな目に遭うのだ………ざまぁないわ…くふふふ」
「お待ち下さい!」種女の手が縄で縛られている最中、遠くから女の声がした。
「矢馬女様…お待ち下さい。この浦祇乃里女に暫し時間を下さいませ」
浦祇乃里女は普段〝里女〟と呼ばれ、矢馬女が可愛がっている側近の一人だ。
「どうした里女…何かあったか?」。「はい。これは誰かの謀かと…」
「なに?どういうことだ?」。「誰かが種女を陥れようとしたに違いありません」
「まことか?」。「間違いありません。この箱をご覧ください…。これは矢馬女様専用の縫い針と糸の入った箱です。針はいつも五本あります──今もこうして…ほら、このようにちゃんと…」
「…確かに五本ある……するとこの針は?」
「種女に罪を着せようとした者が持ち込んだ別の針でしょう…」
「…ふんっ!種女…今回はお前に落ち度はなかったということで許してやる。よいか…目の見えないお前に情けをかけて、御矢馬仕えとして置いてやっていることを忘れるでないぞ」くるりと背を向けて帰っていく矢馬女を、種女と葉女は頭を垂れたまま見送った。
結局矢馬女は真犯人を捜させることもせず、この騒動は幕を閉じた。
だが、腹の内が治まらない人間もいた────田祢壬だ。
──「くそっ…里女の奴、余計なことを…。あのまま邪魔しなければ種女は肥女に落ちたのに…。見ていなさい種女…御矢馬仕えに相応しいのが誰なのか──お前にとっくりと教えてやる…」
Ⅲ
「ほ、本当に新しいお店を任せてもらえるの?」松本弘志が通うスナックで働いている奈緒子は、降って湧いた話に嬉しさを隠せなかった。四十歳を過ぎていたが、どう見ても三十代前半にしか見えない肌つやだ。近頃奈緒子は常連の松本に、もう少し時給の良い店に移りたいとこぼしていたのだった。
「でも松本さん…どうして急に?」
「あぁ…実はな…」松本は奈緒子に本当の事を話した。容姿も問題ないしそこそこ機転も利く。店を任せるには打って付けだ。
「…………ま、万馬券!?」
「しっ!声が大きい…」松本は慌てて人差し指を奈緒子の口に押しつけた。
「二人しか居ないのに大丈夫よ…くふっ」奈緒子は笑いながらその指をはらった。
「そうだ…万馬券だ!…俺は最高にツイてる…乗るなら今だぜ?」
「もちろんやらせてもらうわ」考えるまでもなかった。一円の投資も必要ないのだから、失敗しても損はない。奈緒子は即答した。
「よし決まった!それでだ…他にも店を出そうと思ってるんだが、誰か良い人材はいないかな?」
「だったら私の娘がいるわ。クラブで働いているから、たぶん声をかけたら引き受けると思うけど…」
「そりゃいい!娘さんに話してみてくれるか?」面白いほど順調に話が進んでいく松本は、今や運気は上昇の一途だと悟った。
──「今まで自分が描いていた夢なんてちっぽけなもんだなぁ」松本はこの運気を逃さず大勝負をかけるつもりでいた。
Ⅳ
兼田眞史は窮地に立たされていた。千夏との関係がとうとうバレてしまったのだ。上手く隠していたはずなのに、どうしてバレたのかさっぱり分からなかった。噂は伝染病の如く店の女の子の間でどんどん広がっていった。ママの耳に入るのも時間の問題だろう。先手を打って店を辞めるべきかどうか考えていた矢先、オーナーの翔子から呼び出された──手遅れだった。
兼田はクラブ『鳥』を首になり、おまけに三百万円というペナルティを課せられた。当然そんな大金はとても払えない。だが翔子は兼田を断じて許さなかった。結局、兼田は翔子の知り合いのヤミ金を紹介してもらい金を借りることになった。
──「抜け目のないママのことだ、この界隈のクラブでは仕事ができないように手回ししているだろう…。借金の金利はどんどん膨らみ、そのうち返済不可能となり…俺は借金地獄から逃げ回る人生を送ることになるんだ」兼田にはこつこつと借金を返済するという概念がなかった。
○
千夏もまたクラブ『鳥』を辞めた。彼女の場合は店の女の子から陰口をたたかれるのを避けるためだった。そこへ母親の奈緒子から〝スナックのママをやってみないか?〟と誘いがあった。千夏としては渡りに船だ。事の経緯を聞いた千夏は、面白半分にその話を兼田に喋った。最初は〝運の良い奴がいたもんだ…〟と、人ごとのように聞いていた兼田だったが、だんだんと良からぬ考えが頭の中を過ぎり始めた。
数日後──兼田と千夏と奈緒子は、街のカラオケボックスで密会していた。ボックス番号は〈105〉だ。
「初対面の私にそんな相談事を持ちかけていいの?」
「千夏からあなたがどんな人かは聞いている…。信用していなかったら、こんな話は持ちかけやしないさ」兼田の言葉に奈緒子は軽く頷いた。
「あの男は自分が賢いつもりでいるけど、ホントはすごく単純……まぁ早い話がバカよ。この計画もそれほど難しくはないと思うわ」
「それじゃ、決まりだな!」
結局〈105〉のボックスから歌声が聞こえてくることはなかった。