第10章──地獄Ⅰ
地獄
Ⅰ
「いし、行くわよ!」。「はいですけん──ご主人様!」
錫はやっと気になっていた黒の国へと足を運ぶことができた。堕羅の大門の門番としての責任上、黒の国の状態を見ておきたかった。何より、堕羅の大蛇と掛け合わされた保鬼のことが心配だ。
もっと早く行きたかったが、何かと慌ただしくて動けなかったのだ。やっと少しばかり時間ができても父・龍門から聖霊前の下調べをしてこいと言われて走り回される始末だ。事前に調査しておいて依頼主を驚かす魂胆だろうが、こき使われる錫には迷惑極まりない話だった。
「あっ、ご主人様…もう錫雅様のお姿になられたのですね?」黒の国へと向かう道中──錫を背に乗せて走るいしの足は軽かった。
「いしへのサービスよ!この方が嬉しいと思ってね」
「お気遣いありがとうございます。ですが今のわたくしは、どちらのご主人様も大好きなのです」
「ありがと、いし…。そうこうしているうちに到着ね…。地獄はどうなっているかな?」
「ご主人様は堕羅の大門の門番であることをお知りになって、今や人ごとではないのでありましょう?」
「うん…気になることがたくさんあってね…」
「そんなときはいしにも半分荷物を背負わせてくださいませ。少しは力になれるかもしれません…」
「いしだけではありませんよ。私だって錫雅様の力になりたいんですわよ」
「そう言ってもらえると心強なぁ──────っってだれ~!?」驚いた錫は斜め後ろを振り返った。信枝が綿に跨ってついてきている。「の、信枝殿…どど、どうしてここに?」
「綿に頼んでおいたのです。今度錫雅様が現れたら私に報告してって…」錫は錫雅尊になっておいて良かったと胸をなで下ろした。
「この雌狛め…コソコソと…」
「あら雄狛さま…ではお聞きしますが、もしあなたさまがご主人様に信枝殿を見張れと命令されたら黙って従うのではありませんか?」
「んぐぅ~…」わざとらしい敬語が癪に障る。それが的を射ているので余計に腹立たしい。いしも頭の良い狛犬だが、綿もなかなか機転の利く頓知頓才の狛犬だ。
「じ、じゃぁお前は信枝殿をご主人にしたのか?」腹の虫の治まらないいしはなんとか切り返しを計った。
「…あたいは信枝殿にご恩があるから頼みを聞いているだけよ。あんたみたいに、ただ尻尾を振って喜んでいる飼い狛犬ではないわ」
「んぐぅ~……なにぃ~っ!」
「よしなさい綿。少し口が過ぎるわよ…」
「す、すみません…」信枝に叱られて、綿は素直に謝った。
「いし…あんたもすぐちょっかいかけるから悪いのよ」錫に言われて、いしも情けない顔で項垂れた。
──「…そもそも女の子には口じゃ勝てないもんなのよ…」錫は小声でいしに耳打ちした。
黒の国は異様な雰囲気だった。たいていの鬼たちは警戒して三匹か四匹がひとかたまりになっている。
そんな中、単独行動をしている赤鬼がじろじろと錫たちを見ていたが、すたすたと近寄って来て不審そうに尋ねた。「旦那たち何しに来たんで?」
「怪しいものではない…黒の国の様子を見に来たんだ…」
「さようで…。再び堕羅の大門の封印が解かれてから、なんとも気味の悪い霊気が堕羅から入り込んで来るんですよこれが…。でもわれわれが警戒しているのはそれとも違うんです…へぇ…」
「では…なんでこんなに警戒を?」。「突然襲われるんですよぉ…堕羅の亡者に……突然…」
「突然……?」
「そうなんですよへぇ…。もう仲間が何十匹も襲われて堕羅に拉致されました。恐ろしいったらありません…」
「…誰も抵抗できなかったのか?」
「へぃ…奴は気配を消してそぅ~っと近づいて来て…そして………〝がっ〟と…」赤鬼は錫に向かっていきなり襲うふりをした。
「キャー!」思わず頭のてっぺんから黄色い声を発してしまった。咄嗟のこととはいえ、しくじったと思った錫はチラリと信枝の顔に目を遣った。信枝は以前、拗隠の国で錫雅尊が時折女言葉になる理由を智信枝栄から聞いていたので今更驚きはしなかったが、錫はそんなやり取りがあったことを聞かされていない。信枝が別段驚くでもなくニコニコと笑っているので逆に錫の方が不信感を抱いた。
「…てなわけで、仲間の証言によりますと、わしら鬼たちも震え上がるほどの邪悪な霊気を持った大トカゲだそうです。へぇ…」
「大トカゲ……?」
「そいつは必ずわしらが一匹のときに襲います…」
「それでみんなあんな風にかたまっているのか…」
「ねぇ旦那……お見かけしたところ、普通のお方ではないですね?…もしかして…もしかして…堕羅の大門の門番様じゃ?」
「うん、いかにも。私は堕羅の大門の門番だが…」
「やっぱりそうだ!今から堕羅の大門を封印してくださるんでしょ?そうでしょ?」錫は返す言葉がなかった。黙っていると赤鬼はまた同じ言葉を繰り返して頼んできた。赤鬼の大きな手は錫の腕をしっかり掴んで放そうとしない。錫は胸が痛んだが重たい口を開かざるを得なかった。
「ダメなのだ……今はダメなのだ…」
「えっ!?ダメって何がダメなんで…?」
「たとえ今封印したとしても、すぐにまた解かれてしまうだろう…。堕羅に棲む化け物を退治しない限り封印はできない…」
「では、化け物を退治してください…。門番様ならできるでしょ?」
「それが…奴らがどこに隠れているかも私には分からない…」
「そんなぁ……それじゃ、門番様はここに何をしに来たんです?」
「黒の国が気になってここに来たには違いないのだが…」
「……だったらなんとかしてもらえませんか?…そうだ!化け物の隠れ場所が分からないなら、門番様が化け物をおびき出してください」
「なんだって?私が!?」
「へい、門番様が一人で堕羅の大門の近くをうろちょろとしていれば、化け物は門番様を襲うに違いありません」
「それは…だが…しかし…」錫が返事を濁していると、信枝が話に割って入った。
「ねぇ、赤鬼さん…このお方は私のとって大切な人なの…。化け物をおびき出させたりさせられないわ……だから私が囮になる!」
「ちょ…ちょっと待つのだ信枝殿…。それはダメだ…そんな危険なことを信枝殿にさせるわけにはいかない…」
「錫雅様…そのお言葉だけで私は死んでもかまいません。あっ、今は死んでますけど……うふっ」例の如く信枝の背景には、少女漫画よろしく百万枚の薔薇の花びらが舞い散った。
錫はさすがにそんな信枝の冗談にも笑えなかった。
「…赤鬼殿、門番はこの私だ。私が囮になる」
「ご、ご主人様…なりませんけん。囮になるなどなりませんけん」
「そうです…いけません。錫雅様にそんなことさせられません!」
「何を言うのだ。か弱い女性を囮にさせられるわけがないだろう」
「しゃ、錫雅様ったら…か弱いだなんてぇ、んもう…」信枝は思いっきり錫の肩をひっぱたいた。
──「いったぁ~い………信枝ったらもう…少しは手加減してよね…」
「門番様!ありがとうございますぅ。ありがとうございますぅ…門番様が囮になってくれれば鬼に金棒ってやつです…へぃ」
「いやいや…考えてみれば当然のことだ…ははは…」
──「ひぃえ~ん。こんな成り行きに……とほほほ…」気づいてみれば化け物退治の囮になっていた錫だった。
〇
「門番様、堕羅の大門が見えてきました…わしはここまでが限界です。鬼はこれ以上進むと化け物に気配を感じ取られますから自分の持ち場に帰りますが、あそこにどでかい黒岩がありますでしょう?みなさんはあそこまで行って隠れていてください。そこから先は、囮の門番様が一人で堕羅の大門まで行かれたら、おそらく化け物が…。では、どうかお気をつけて…」赤鬼は丁寧に別れを告げると、もと来た道を戻って行った。
錫も一目散に引き返したかったが、そんなことが許されるはずもなく、しぶしぶどでかい黒岩へと進んだ。
「ご主人様…くれぐれも言っておきますよ。怪しい気配を感じたら必ず集鬼鈴を鳴らしてください」
「そうですよ、すぐに助けに参りますから絶対に無茶はなさらないように…」
「錫雅殿…あたいも祈ってます……どうかご無事で…」
「あぁ……では行って参る…」錫は重い足取りで堕羅の大門へと歩を進めた。錫の心の中がよく分かっているいしは、主人が気の毒でならなかった。
〇
封印が解かれた堕羅の大門近くは霊気が感じられず、かえって不気味だった。錫はただただ怪しい気配だけを感じ取れるよう、神経を研ぎ澄ませて堕羅の大門を潜ろうとしていた。
「門番様…門番様……さっきの鬼です」
「あっ…赤鬼さん?…帰ったんじゃなかったの?」
「へぃ…。驚かせて悪かったですが…見つけたんです。奴を見つけたんです…」
「や、奴ってトカゲの化け物のこと?」
「そうなんですよ。案内しますからわしについて来てください。すぐそこですから。でもそっとですよ…気づかれないように…」
「…う、うん…」先導する赤鬼の後をついていくと、まもなくすり鉢形の大きな穴に辿り着いた。
「ここは地獄の中で最も近寄りたくな場所です…。通称〝蟻地獄〟──見てのとおりの名前です…」
「うわぁ~ゾッとするぅ………こんな所があるなんて…」
「本来、堕羅の大門は封印されているのが普通です…。万が一、黒の国に堕羅の亡者がうろついていた場合、ここから突き落とすのです。わしもよくは知りませんが、蟻地獄の底に落ちると通路が一本あって、それが堕羅のどこかに通じているそうです」
「簡単に言えば、堕羅の亡者を送り返す地下道?」
「そうなのですが、通路の途中にはその行く手を阻む化け物が現れるそうですよ…」
「ふぅ~ん…。それでトカゲの化け物はどこに?」
「あ~…そうでしたすっかり忘れていました。そこですよ、そこ…」
「えっ!?…どこ…?」
「そこですって……ほら…この蟻地獄の────底だ!」そう言った途端、赤鬼は大きな手で錫の背中を〝ドン〟と突き飛ばした。不意を突かれた錫は蟻地獄に転がり落ち、忽ち目の細かい砂が錫をすり鉢の底へと誘い込み始めた。
「助けてぇ~!なんで?どうしてこんなことを?」必死で藻掻く錫を見て赤鬼が笑いながら言った。
「わしは旦那様から霊気を分けてもらった堕羅の亡者だ。霊気が強いと赤鬼に取り憑くこともできるんだなぁ…ぐあっはっは!」
「なんてこと……不覚だった…」見た目よりも傾斜は急だ。藻掻けば藻掻くほどすり鉢の底へと引きずり込まれていく。
「かはははっ……ムダだムダだ!このまま堕羅へと落ち、亡者どものエサにでもなれ…」
必死で這い上がっているはずなのに、赤鬼との距離はどんどん離れていく。やがてゆっくりと身体半分が砂に飲まれていった。錫はそれでも藻掻き続けた。
やがて────砂時計の砂が細い穴を通って落ちてゆくように、錫は蟻地獄の底へと沈んでいった。




