第9章──渦Ⅲ
Ⅳ
──「必ずお前を御矢馬仕えから引きずり降ろしてやる」田祢壬は種女を陥れる機会を虎視眈々と狙っていた。一度燃え上がった妬みの炎はそう簡単には消えない。田祢壬は何日も何日も種女の様子を窺い続けた。
──「目が見えないことを利用するのが一番手っ取り早い…。見てなさい種女…もうすぐお前を叩き潰してやるからね…くっくっく」
それから数日後のことだった。種女は他の御矢馬仕えから、きれいに洗って乾いたばかりの矢馬女の着物を受け取った。種女はそれを衣装部屋に持って入ると、器用に縫い物を始めたのだった。目の見えない種女だが、それはそれは見事にほつれた部分を縫い上げた。最近では矢馬女が袖を通す縫い物のほとんどは種女が請け負っていた。手先の感覚だけを頼りに縫う種女の方が、他の誰より綺麗に、そして正確に縫い上げるからだった。
縫い物を終えた種女は、矢馬女の部屋の掃除をしていた葉女を手伝うため、向かいの部屋へと場所を移した。その入れ替わりに誰かが衣装部屋へ侵入したことも知らずに──。
事件が起こったのはそれから幾日か経ってのことだ。矢馬女は “陰仕え”すべてを庭先に集めさせた。
「お前たちの中でこれを縫うた者は誰だ?肥女が縫うことはあるまいが一応皆に問う…誰だ?」矢馬女の質問に答える者は誰もいなかった。緊迫したその空気は、息をするだけで目立つほど張りつめていた。
「矢馬女様…」その声に皆が一斉に視線を向けた。田祢壬だった。「矢馬女様よろしいですか?」
「なんだ?申してみよ」
「思い当たる者が一人だけおります。ですが…その者には矢馬女様の説明では不十分でございます」
「どういうことだ?」
「矢馬女様の持っておられる着物がどれなのか分からぬということです。つまり、見えていないということでございます」
「くふふ…そういうことか。回りくどいぞ田祢壬…」矢馬女はぐるりを見回してから声をかけた。
「種女はおるか?」。「は、はい…ここに居ります…」
「私の側まで来い」種女は葉女の手を借りて矢馬女の前まで進むと膝を折って頭を下げた。
「これを触ってみい」矢馬女は持っていた着物を種女に放り投げた。
「この着物のほころびを縫うたのはお前か?」それは間違いなく数日前に自分が縫った着物だと種女はすぐに分かった。けれどもそれの何が問題なのかが分からなかった。
「はい…間違いございません…。このお着物は確かにこの種女が縫い繕ったものでございます」
「ではここを触ってみい…」矢馬女が手の先に触れさせたのは、種女がほころびを縫い合わせた箇所だった。まだ他にもほころんでいた箇所があったのだろうかと思いながら、種女は繕った縫い目を指先に感じながらゆっくりと辿っていった──きちんと縫えていて特に問題はなさそうだ。さらに繕った箇所を人差し指と親指でつまみながら辿ってみた。尺取り虫よろしく縫い目をゆっくりと指先が這ってゆく。
──「はっ……これはっ!?」いきなり何かが種女の指先に当たった。その瞬間、種女の身体は固まった。
種女の手の先に触れたもの──それは間違いなく縫い針だった。
Ⅴ
一等地に場所を構える高級ナイトクラブ「鳥」でマネージャーとして働いていた兼田眞史は、一流クラブのオーナーになる夢を秘めていた。だが残念ながら今のところそんな大金は無い。今度こそ金を貯めようと腹を決めても、次の休みにはとっとと競艇場に足を運んでいる始末だ。それでも兼田は、どこからそんな確信が湧いて出るのか知らないが、いつか自分はクラブのオーナーになれると信じ切っていた。
「鳥」の店内は見るからに贅沢な雰囲気だった。オーナーは人気ナンバーワンの「鳥」のママだ。年齢は五十歳に近いが、ナンバーワンというだけあってオーラが違う。キリッとした目元は男たちを魅了する不思議な力を持っている。男性従業員は兼田の他に、店長とキッチンを担当するチーフ、それにウエイターが四人だ。女の子は全部で十八人だが、一番の高給取りは群を抜いて〝ちいママ〟だった。年齢はママとさほど変わりはないが、飛び抜けて美人でもない。けれども歩合制で支払われる毎月の給料は、百万円を下回ったことのない看板ホステスだ。ママはいつも〝ちいママに追いつき追い越せ〟と他の女の子にも発破をかけていた。
この店では座っただけで五万円のチャージを取られるだけあって、安月給ではとても通えない。客層は主に会社の社長、弁護士や病院関係の人間が多く、その筋の接待などにも利用される。一日の売り上げ平均は約百五十万と悪くない上がりだ。
ママの源氏名は〝翔子〟。屋号の「鳥」とかけて洒落ているのかどうかは定かではない。
男性従業員には、決してやってはならない約束事があった──〝絶対に店の女の子に手を出すな〟だ。翔子は普段からこのことには特に厳しく言い聞かせていた。なぜなら女の子はお店にとって大事な商品だからだ。女の子に手を出すということは、言うなれば店に陳列してある商品を盗むようなものだ。もしこの約束を違えた場合は、如何なる理由があろうとも金三百万円の迷惑料を支払いその場で首になる。実際はどうあれ、少なくとも表沙汰になって店を辞めさせられた従業員はまだ一人もいなかった。
兼田はこの掟を破った。八歳年下の〝千夏〟がそのお相手だ。三十過ぎで独身の兼田は、近くのスーパーで買い物をするのがお決まりだった。ある時、いつものとおり惣菜コーナーでおかずを選んでいると誰かが気軽に声をかけてきた。それが千夏と分かるのに、ほんの少し時間を要した。すっぴんの千夏は、店に出勤している時よりずっと幼く見えたからだ。聞けば千夏のアパートと兼田のアパートとは目と鼻の先だった。
ある日の「鳥」の休店日、好きな競艇場で一日楽しんで少し財布の中身が潤った兼田は、旨い肉でも買って帰るつもりでいつものスーパーに足を向けた。そこでまたしても千夏とばったり会った兼田は、おいしい料理とお酒を飲みに行こうかと誘ったのだった。千夏は喜んで誘いを受け、ぐでんぐでんになるまで飲んだ。帰りは千夏をアパートまで送ってやるつもりでいた兼田だったが、千夏が家には帰りたくないと駄々を捏ねたので自分のアパートに泊めた。以来──二人はそういう仲になっていたのだった。
○
「それでこっからどうするの?嵐姉さん」
「雛…あんたは引き続きあの子に憑きな。幹はあの子の母親にだ。あたしゃ立ち回り役だ。とりあえず店の女に取り憑いてちくり役だね」
「了解!──けど競走馬に取り憑いたのは生まれて初めてだったわ…。ねぇ雛姉さん?」
「幹…それを言うなら、生まれて初めてじゃなくて、死んで初めてだろ…?」
「あんたたちにはご苦労さんだったよ。おかげでここまでは順調だ」
「上手く事が運ぶかしら…」
「運ばせるのよ…。何があってもね…」