第9章──渦
渦
Ⅰ
「俺にもやっとツキが回って来た!もう今の生活とはおさらばだ」ポソリと呟いた松本の両手は嬉しさのあまり小刻みに震えていた。
泥棒猫のように空き巣や居空きなどを繰り返してきた松本弘志だったが、これからはスナックの二~三軒でも経営して悠々自適に暮らしてやると意気込んでいた。幸い松本の知り合いには水商売経験の豊かな女が多い。安い時給に不満を漏らしているそこそこ見栄えのする女を引き抜いて店を任せてやれば双方に利がある。
「やっと望んでいた生活ができる。俺はバカじゃない──泡銭だからと豪遊して消えてしまうような金の使い方はしない。これからこいつを元に、金の卵を産むニワトリを育ててやる」 震える両手に握っていたのはごく普通の紙袋だった。一番下段のタンスの奥にその紙袋を丁寧に仕舞い込むと、その上から無造作に下着や靴下を放り込み、引き出しを元に戻した。
松本弘志に仕事を教えたのは広井善男だった。お互い安い飲み屋で時折顔を合わせる常連客だったが、みすぼらしい松本の姿をみて、広井はいつも酒代を気前よく出してやっていた。いつしか松本は、広井のことを兄貴と呼ぶようになり、自分の夢を語るようになった。といっても松本の持っている夢は、誰かに仕事を任せて、自分は遊んで暮らしたい──という実にちんけなものだった。けれどそんな夢でさえも、松本には遥か遠くにあってとても手に届きそうになかった。本人は酒が入ると夢を熱く語りながら、どうして思うようにならないのかとくだを巻いていたが、松本をよく知っている人間にとって、その答えは実に簡単だった。目標に向かって努力することもせず、ただ自分の夢だけを語っていたからだ。真面目に働くことを嫌っていた松本は、回りから鼻で笑われていた。
ある時松本は、広井から一緒に仕事をしてみるか?と誘われた。面倒くさいことや難しいことはしたくないが金は欲しいと正直に答えると、仕事は簡単で単純かつ金になると聞かされた。思わず飛びついた松本だったが、一つだけ条件を言い渡された。〝何があっても誰にもその仕事を口外してはならない〟それだけだ。これさえ守れれば仕事の内容を教えてやると言われ、もしその約束を破ったらどうなるのかと尋ねてみた。広井からは即答で答えが返ってきた──〝お前の命はない〟だった。
広井のことを兄貴と呼んで信頼していた松本は、〝絶対に約束は守る。兄貴の顔を汚すようなことはしない〟と誓いを立て仕事の内容を聞いた──窃盗だった。それだけではない。広井は置き引きやスリも得意としていたが前科はなかった。今まで絶対に失敗しないよう慎重に慎重を重ねてきた。手先の器用さも並はずれている。もしかすると広井は死ぬまで前科者になることなくこの仕事を続けられたかもしれない。たった一つの間違えさえなければ──。そのたった一つの間違いとは──松本弘志に出会ってしまったことだ。
○
大鳥邸で盗んだのは現金だけだった。広井は盗んだ金を不公平にならぬよう松本と山分けにすると、暫く連絡を絶つと言い渡した。
松本が殺したのが前科者の雪島繁という人間だと知ったのは、翌日の新聞記事でのことだった。警察は大鳥舞子から詳しい事情を聞いているらしいが、他に犯人がいるという情報は、その後の新聞にもまったく報じられなかった。広井とすれば、殺したのがたとえ松本だったにせよ、自分も巻き添えを食って捕まるのは絶対にご免だった。
「まだ安心はできないが、心配もなさそうだ。大鳥舞子という女は目が見えていない……犯人の顔など分かるはずもない。警察はナイフを持っていた大鳥舞子を疑うか…あるいは迷宮入りになるだけだ…」広井は少し気持ちが落ち着いたのか、新しいタバコの封を切り、ゆっくりと口に運んで火を点けた。胸いっぱいに吸い込んだ煙の味は格別うまかった。
松本は山分けした金をどう使おうかと考えた末、一番手っ取り早い方法で増やしてやろうと考えた──ギャンブルだ。けれども松本は今まであまり賭け事に手を出したことがない。出したくても軍資金が無かったということもあるが、ギャンブルの面白みを感じたことがないのが一番の理由だった。
──「パチンコはダメだ……どんなに勝っても稼げる額は知れている。ギャンブルといえばラスベガスか……わざわざあんなところに行ってカジノをするのもバカげているし…。やはり馬か…」松本は競馬場へと足を運んだ。生まれて初めての競馬場だ。思ったより綺麗な場所で驚いたが、そんなことはどうでもよかった。まず競馬新聞を片手にレースを予想している、馬に詳しそうな人物に声をかけるつもりだったが、ほとんどがそんな人間ばかりだ──。誰に尋ねたらよいのか分からなくなった松本は、次のレースを赤ペンで予想している初老の男に声をかけた。
「次のレースで確実なのはどれ?」男は嫌がりもせず、にこにこしながら即答した。
「そりゃ、これだ!絶対に②─⑤…間違いない!」
「じゃ、絶対にあり得ないのは?」
「④─⑩だね…これだけはあり得ないだろうよ…」松本は②─⑤の馬券を二万円分と④─⑩の馬券を一万円分買ってみた。ところがこれがとんでも結果になった。あり得ないと言っていた④─⑩の馬が入ったのだ。当たった馬券には二十三万円という配当金がついた──所謂万馬券だ。一枚百円の馬券を一万円分──つまり百枚買った松本は、二千三百万円という大金を一瞬にして手に入れてしまったということだ。充分すぎる額だった──そしてこれ以上ここに居る必要もなかった。松本はさっきの初老の男を見つけて声をかけた。
「か、買っていたのか…?ほ、本当に…④─⑩の馬券を…」初老の男は口を金魚のようにパクパクさせながら驚いていた。
「あんた神様だよ。これは授業料だ…それじゃ!」松本はお礼に十万円を渡してその場を去った。
「あぁ…それじゃ………ビ、ビ…ビギナーズラック…」
大金を手にした松本は地面に踏ん張れないほど足が軽かった。自分の描いていた夢をようやく実現させることができるのだ。
──「見てみろ…夢は叶うんだ!今まで俺をバカにしてきた奴らを見返してやる!」
松本は早くも、どの場所にどんな店を出そうかと考え始めていた。