第1章──激震Ⅱ
Ⅲ
古事記では大国主命が葦原中国──即ち人間界での国造りに成功すると、天照大御神の子供で〈正勝吾勝々速日天忍穂耳命〉という、なんだか舌を噛みそうな名前の子供を使って国譲りをさせようとする。物語はそこから二転三転するのだが、結局大国主命は自らが平定した葦原中国を正勝吾勝々速日天忍穂耳命の子──つまりは天照大御神の孫にあたる、これまた舌を噛んでしまいそうな名前の〈天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命〉にさっさと献上してしまったのだ。
ただし大国主命は一つだけ条件を出す。岩根深く宮柱を深く埋め、天つ神の住む〝高天原〟に千木が届くほど高い屋根の社を建てて祀ってほしいという条件だ。そうすれば出雲の果てに鎮まると言う大国主命のために天照大御神が創建した神社──それこそが出雲大社だ。
建久元年(一一九〇)寂蓮法師は諸国遍歴の旅で出雲を訪れた折りに、このような詩歌を詠んだ。
やはらぐる光や空に満ちぬらん
雲に分け入る千木の片そぎ
現在のような高層建築など存在しない時代に、全高十六丈(約四十八㍍)という雲を突くような巨大な建造物を目の当たりにした寂連法師は度肝を抜いたに違いない。
宮柱の太さは中央の岩根御柱が一丈二尺(約三.六㍍)もある。その御柱の前後左右斜め、計八本の柱も直径一丈(約三㍍)と、それでも異例の太さだ。長さは十二丈(約三十六㍍)、岩根御柱の前後にある宇豆柱二本にいたっては十四丈(約四十二㍍)だ。これだけ立派な宮柱九本に支持されて四十尺(約十二㍍)四方の神殿が乗っているのだから驚かないはずがない。詩に詠んだように、天まで届かんばかりの神殿の千木の先には、雲がかかったように見えたかもしれない。そして階段の数は百七十段──なんと一町(約百九㍍)もあったのだ。下から見上げればまさに天つ国へと誘われる神々しい階段に見えたに違いない。
今説明した出雲大社は少なくとも平安中期には存在していたとされるものだ。だが、さらに時代を遡った太古には、三十二丈──なんと九十六㍍もの高さの出雲大社が存在したと伝えられている。十六丈でも木造建築としては常識はずれの建造物なのに、三十二丈という桁外れの高さを誇った出雲大社が存在していたなど信じがたい話だ。だが──存在しなかったという確証もない。
もし百㍍の高さを誇る出雲大社が本当に存在していたなら、バンジージャンプに挑戦したワイルドな命様がいたかもしれない。
Ⅳ
「何が起こった?今の揺れはなんだ…?」
「地のお怒りかと…」
「急いで宮柱を見て来い!」羽矢埜速彦は落ち着かなかった。これでまたやり直しになるようなことがあれば、自分は無能と見なされて島に流されてしまうかもしれないとビクついた。
「どうだった?…早く申せ」
「それが…やはりあれほど大きな揺れには耐えきれず、すべて倒れてしまいました…」
「またしても……どうして二度も同じ事が…」
「おそらく地のお怒りの原因はモノノケの祟りかと…」
「そうか、モノノケか…!モノノケの仕業ならば言い訳もたつ、祓いの儀をして頂きにお目通りを願おうぞ」
Ⅴ
「きゃー!見てよ見てよ…あれ海?」
「あれは湖よ…。ほら、この旅行雑誌〝ぶるる〟を読んでごらん…」
「お~…ホントだ…デッカイ湖だなぁ~!…え~っと……宍道湖…?」。「あんたね……あなっていう漢字は〝穴〟って書くでしょうが…」
「あっそういえばこれ…うかんむりに八じゃなくて六だね…。浩子…宍ってどう読むの?」。「宍っていう漢字よ」
「あぁ、な~んだ…宍道湖か!」。「…これだよ浩子。あのねぇスン…」
「うふふ。スン…これは宍道湖って読むの」浩子の口調はまるで小さな子供を相手にしているようだ。
「……これで〝しんじ湖〟?ひゃ~…そんなの誰もしんじっこない!」
「プッ…!」。「…ダジャレかよ…。とうとうあれだね……天然スンには、ついにオヤジが降臨したようだね…」
気ままな旅をより一層楽しく演出してくれるローカル鉄道〈一畑電車〉通称〝ばたでん〟に揺られて、三人は松江から出雲へと移動中だった。一行は左手に宍道湖を見ながら愉快な旅を満喫していた。
「宍道湖はね、シジミが名産なの…だからさっき朝食にも並んでたのよ。スンは〝ここのシジミ美味しい~~〟って叫んでたでしょ!?シジミにはアミノ酸が多く含まれていて肝臓に良いのよ。アルコールを代謝する酵素の活性を高めてくれるアラニンとグルタミンをはじめ、メチオニン、タウリンなんていうアミノ酸が肝臓の助けをしてくれるの。それにビタミンB12が肝機能を高めてくれるわ」
「わ~…さっすが栄養士!…今度栄養指導お願い」
「何を言ってるのよ。浩子の指導がなくてもスンは充分栄養が足りてるでしょうに。さっ、もうすぐ出雲大社に着くよ!」
三人は荷物棚からバッグを下ろし、電車を降りる準備を始めた。
神々の国・出雲を象徴する出雲大社──この場所が今後の錫の行方に大きく関わることになろうとは、この時の錫は考えもしなかった──。
Ⅵ
「想像していたよりスゴい参拝者ね…」その多さに錫は驚いた。
「出雲大社は六〇年ぶりの大遷宮らしいからね…」
「信枝は詳しいね。──で…大遷宮って何するの?」
「あちゃ~…。簡単に言えば神様のお引っ越し…。国宝の御本殿を改修するためにね」
「また戻ってくるの?」
「もちろんよ。五年間かけて改修作業が終わったらね」
この旅行を企画したのは浩子だった。“大遷宮”──この機を逃したら次は八十歳のおばあちゃんになってしまうから、どうしても参ってみたいと二人に持ちかけたのだ。
浩子がこの旅行を企画した折、錫は浩子に尋ねた。
「また何か企んでない?」。「な、ないない…なんにもないわ…」
「ホント…?出雲の本殿の柱の穴に入れって言わない?」。「あそこに柱の穴なんて無いわよぉ…」
三人は敬虔な面持ちで出雲大社を参拝した。錫は高さ二十四㍍もある大きな本殿に驚いたが、それよりも神楽殿の正面にある注連縄にはもっと驚いた──長さ十三㍍、周囲九㍍、重量なんと五㌧もある超ド級の注連縄だ。
「あんなデッカイ注連縄どうやってつり下げたんだろう…?」
「クレーンを使うらしいわよ」
「へぇ~…さすがに浩子は出雲大社に来たかっただけあって、しっかり下調べをしてるわね」錫は感心するばかりだ。
「ひゃ~!このデッカイ柱は何?」錫の目に飛び込んできたのは、直径一㍍はありそうな朱色に塗られた三本の柱の束だった。
「これは昔の本殿の宮柱で心御柱。こうして三本の柱を金輪で縛って一本の太い柱にしたの。もちろんレプリカだから本物の柱よりずっと短いわ。本物は五十㍍近い長さだったの」
「まさかぁ…それって神話じゃないの?」
「違うわよ。神話の中の話だと思われていたこともあったけど、二〇〇〇年に宮柱が発見されたから疑う余地はないわ」
「えっ!…発見されたの?信枝も知ってる?」
「旅行雑誌に載ってたから知ってるよ。あんまり興味はないけど…」
「実際に柱のあった場所がすぐそこにあるから行ってみましょう」浩子は少し歩いて、足下に赤い大きな丸の印がある場所へと案内した。
「うわ~この場所にさっきの柱が立っていたの?」
「そうよ。この赤い三つの丸の束を大きな円が囲っているでしょう?これで一本の柱。それを全部で九本使ってご本殿を建てたの。でもね、これは平安中期に建てたもの。もっともっと昔には、百㍍近い高さの大社が建っていたの」
「ホントに?…ホントにホントに!?………でもそれは〝かもしれない〟でしょう?」
浩子は暫く黙っていた──が「その方がロマンがあっていいでしょ?」と返事をした。
──「…その沈黙は何?」錫は変に思ったが、それは次の瞬間かき消された。突然めまいに襲われて気分が悪くなったのだ。そのまま座り込もうかと思った矢先、どうやらそれがめまいではないことに気づいた。
──「地震……地震…地震だ!」緩やかだった横揺れは重低音の地鳴りと共に突き上げられるような縦揺れに変わった。立っているのが危険だと思った瞬間、錫の足下が大きく割れはじめ、地の闇が姿を現した。暗い地の底に飲み込まれないよう必死で地面にしがみついたまま下を覗くと、不気味な眼光が幾つも錫を睨みつけていたのだった──。