第1章──激震Ⅰ
激震
Ⅰ
「ばかやろう…どうして殺っちまったんだ!」
「だ、だって兄貴……誰も居ないはずなのに、突然こいつが出てきやがったから…。こ、殺すつもりはなかったんだ…」松本弘志はねっとりした血の付着したナイフをわなわなと震わせながら立ち竦んでいた。
「俺たちは臆病なコソ泥だぞ…。なんだってそんな物騒なもんを隠し持ってたんだ?」
「万が一のつもりで持ってただけなんだよ…」
「そんなもん持ち歩くから、こんなヤバいことになるんだ…。とにかく早いとこずらかるぞ」
「わ、わかったよ…………。あっ、兄貴……兄貴…善男兄貴…」
「ちっ…今度はなんだ?」広井善男は苛立ちを抑えて、できるだけ声を荒げずに言葉を返した。
「兄貴…あっ、あそこ…」松本の視線を追いかけると、隣の部屋の奥に人影が見えた。
「やばい……おい…こうなったらあいつも始末しないと大変なことになっちまうぞ…」
「け、けど……兄貴…」
「今になって何をビビってる。こうなったら一人も二人もおんなじだ…早くやれ」
「あ、あぁ……わかった…」覚悟を決め、殺意を秘めて隣の部屋へと近づいた松本は、声を出さずに大袈裟な手招きで広井を呼び寄せた。〝どうせ、ろくでもないことだろう…〟そう思いながら広井は松本の真横に立つと、隣の部屋の奥を覗いてみた──時間にしてほんの数秒間何かを考えていた広井は、無言のままゆっくりとその人物に近づいたのだった。
Ⅱ
「勝てない……こいつ強い…。浩子…どうすればいい?」
「私だってこれが精一杯…」
《グハハハハ…。口ほどにもない。私は、この世をすべて闇で覆いつくし、邪悪の世界を築くのだ!見るがいい──闇の力を!》。闇の帝王〈ヨダンタサ〉は錫と浩子が与えたダメージをすべて回復した。
「スン…やはり早すぎたかも。焦りすぎたようね…」
「だから信枝にも助けてほしかったのに…」錫は苦々しく呟いた。
「信枝を責めても仕方ないわ…」
《さて……いよいよお前たちの最後だ…》
「万事休す──こんな時に晶晶白露があれば…」
「こいつには晶晶白露なんて通用しない…第一晶晶白露はもうスンの手元にないでしょ…?今の私たちのレベルでここに乗り込んだのがすべて間違い…」
「私…やっぱり天然で単純だわ…。こうなったら究極の奥義を使うしかない」錫は自分の霊気をすべて浩子に与えた。霊気で満たされた浩子は、指先に力を込めて闇の帝王〈ヨダンタサ〉に攻撃した。だが…ヨダンタサはびくともしなかった。
「ごめんねスン…やっぱりダメだった…」。「仕方ないわ…」
《グワハハハ…。食らうがいい…この闇の波動を!》【ズバッ…ズバズババッ!】。錫と浩子を切り裂く音が鳴り響く────二人は力尽きた。
闇の帝王〈ヨダンタサ〉は、ふてぶてしく笑いながら暗い暗い闇へと姿を消していった──。
「どうなったの?」トイレから戻ってきた信枝が画面をちらりと見た。
〔ゲームオーバー〕
「あーあ……だからまだ早いって言ったのに…」信枝はニヤニヤと笑いながら錫のほっぺたをつっついた。
「三人でレベルを上げて戦えば倒せたもん!」
「私のせいだって言うの?だいたい私はこういうの苦手なの。戦うんなら実践で願いたいわ」
「ふふふ…信枝らしいわねぇ…」
「えっ!?浩子はふふふで許せるの?だいたい信枝はいつもそう……自分が嫌なことはつき合ってもくれない…」
「あのねスン…たかがゲームでしょ?」
「ゲームなんて関係ないよ…私は信枝の人間性を言ってるの!」
「はぁ!?──スン…よくそこまで言えたわね?分かったわ…あんたとはもうこれっきりよ。天然・単純・臆病の香神錫!」
「ちょっと待って……二人ともどうしたの?そんなことくらいでけんかして…」
「そんなことくらい?浩子…あんたもいいかげん良い子ちゃんぶるのはやめなさいよ!ほんとはあんただってスンの天然ぶりに辟易してるんでしょ?」
「浩子まで巻き込むことないでしょ!?卑怯者!」
「ひ、卑怯者!?私の一番嫌いな言葉よ──よくもそんな言い方を…許さない香神錫!」
「何よ…やるの!?あんたなんか恐くないわ──かかってらっしゃいよ!」二人はとうとう掴み合いのけんかになった。浩子はどうすることもできず、ただおろおろしながら見守るしかなかった──。
「放せ…ほっぺたを放せ…痛い…痛いってば…。私の秘密も知らないくせに…」。「痛いなら早く起きなさいよスン…」
「言うわよ?…痛い……秘密言うわよ…?」。「はいはい…なんだって言ってちょうだい…。ほら…大好きな朝ご飯、食いっぱずれるよ!」
「えぇっ!?…朝ごはん食べたい。でもほっぺたが痛い…。あ…信枝…と浩子…」
「ふふふ……おはよ、スン──楽しい夢を見ていたの?」。「どうせおかしな夢でも見てたんでしょ?」
「……………………う、うん」
錫、信枝、浩子の三人は、休日を利用して島根県は松江へと観光旅行を楽しんでいた。昨日は松江城を中心に、その界隈を巡った。小泉八雲記念館は、錫の親友幅下浩子がどうしても立ち寄りたかった場所だったらしく、ゆっくり時間をとった。彼はギリシャ人でありならが日本名を持つ文学者。帰化する前の名はラフカディオ・ハーン。日本の文化を様々な切り口から執筆した彼の作品の中で、浩子が最も興味を持ったのは〝怪談〟だった。死者や死後の世界が日本独特の文化を醸し出していて興味深いらしい。けれど興味があるのは、果たして浩子なのか智信枝栄命なのか──それをはっきりさせる術はない。
智信枝栄は浩子に憑依しいている霊神だ。もともと今は亡き天翔虎慈之尊に頼まれて、錫の霊能力を目覚めさせるべく浩子に取り憑いた。
実のところ浩子はこの智信枝栄の存在に気づいていた。智信枝栄は普段浩子の魂の奥底に隠れているが、必要に応じて浩子から主導権を握る。時に完全には主導権を握らず、少しだけ浩子を誘導して、その気にさせることもある。こうした曖昧な行動を何年も繰り返すうちに、浩子は何かおかしいと感づいたのだ。やがてそれが何者であるかも分かった。けれどもあえてそれに触れようとはしていない。黙ってやり過ごしているのは、智信枝栄の存在を許しているからだ。浩子にとって智信枝栄はまったくと言っていいほど無害だった。
近ごろは智信枝栄の心の内が分かってきた。だからといって生活に支障はない。むしろ自分の中にもう一つ別の世界があって、違う人生を垣間見ているような気がして楽しかった。
たった一つ残念なのは浩子に霊力がないことだ。ゆえに智信枝栄を感じることはできても、その姿を見ることはできなかった。
松江市の南部には恋愛の神様として有名な八重垣神社がある。ここはなんと須佐之男命が八俣の大蛇を退治した後、櫛名田比売と一緒に暮らし始めた場所とされていて、ご祭神はもちろんこの二神だ。
八重垣神社には〝鏡の池のご縁占い〟があり、女性には特に人気のスポットだ。社務所で百円を渡して薄手の占い用紙をいただき、鏡の池にこの用紙を静かに浮かべる。そして用紙の中心に十円玉か百円玉をそっと乗せるのだ。あとは沈むまでの時間や沈む場所で恋の行方を占うというものだ。
今回この場所を訪れたいと必死に訴えたのは──なんとなんと恋愛に一番縁遠いはずの栗原信枝だった。〝縁結びや子宝の神様として名高い八重垣神社に、こともあろうに信枝が行きたがるとは…〟はじめはそう思っていた錫と浩子だったが、すぐに理由が分かった。なんのことはない──信枝の目的は錫雅美妙王尊だ。それしか考えられなかった。
八重垣神社を訪れると信枝は急に口数が少なくなった。そして脇目も振らず社務所へと向かうと、いつの間にか用意していた百円を渡して占い用紙を受け取った。
鏡の池まで来た信枝は占い用紙の中心に百円玉を乗せ、そっと水の上に浮かべた。錫は百円玉がもったいないので十円玉にしたが、横目で浩子を〝チラッ〟と見ると、浩子も十円玉だった。二人は〝ニッ〟と笑って小声で言葉をかけ合った。
「だよね…?」。「だよね…?」信枝との価値観の違いだ。
暫くして百円玉を乗せた占い用紙がゆっくりと沈んでゆくと、信枝が講釈を始めた。
「この池はね、須佐之男命と愛し合った櫛名田比売が自分の姿を映していた池らしいの…。だからこの池の底深くに彼女の魂があって、願いを込めて占い用紙を静めると、願いが成就するんだって。早く沈めばそれだけ早く成就するし、願い主の近くで沈めば身近な人と成就する…」
──「あちゃ~………信枝が恋占いにこれほど必死になるとは……こりゃ重症だわ…」
「で…信枝は誰との恋愛を占ったの?」錫はわざと尋ねてみた。
「あんたたちには言わないわ…どうせ眉唾もんで聞くんだから…」
「…その恋愛──成就する見込みはあるの?」今度は浩子が尋ねてみた。
「住む世界が違うから無理かもね…。だけど、あのお方を想って恋占いするだけで私は満足なの…」
──「こういう時の信枝って、まるで少女漫画の瞳…」浩子はちょっぴり可笑しさを感じながらも、信枝の恋心には胸が痛んだ。
錫も信枝の切ない女心を複雑な思いで受け止めていた。そして〝信枝が早く錫雅尊を忘れて人間の男性に恋をしますように〟と、十円玉を乗せたご縁占いの用紙に必死に願った。それならやっぱり百円玉にすればよかったと後悔した。
さて──旅行先にも拘わらず、いつまでものんびりと寝ていたのは言わずと知れた香神錫だ。
親友の信枝と浩子からは〝天然・単純・臆病〟とからかわれるほどの天然・単純・臆病だ。
ごく普通の女の子だった香神錫が十八歳の誕生日を境に霊能力を身につけてしまったのは、彼女が錫雅美妙王尊の生まれ変わりだからだった。
白の国──いわゆる天国の平和を守るため、人間界にある秘宝を探し出すべく、勇敢かつ正義感の強い高徳な霊神・錫雅美妙王尊は自ら望んで人間へと生まれ変わった。だが、どの人間もそうであるように、生まれて来ればそれまでの記憶など残っていない。それに、どのような性格を備わるかなど、生まれてみなければ分からない。香神錫は天然・単純・臆病な人間──即ち錫雅美妙王尊とは、かけ離れた性格になって生まれて来てしまったのだった。
頼りなくズッコケで恐がりな錫だが、ここ一番の閃きと破天荒な試み──そして彼女を支えてくれる仲間に助けられ、見事に秘宝を見つけ出し、白の国を守ることができた。
ところが今度は黒の国──俗にいう地獄へと行く羽目になった。黒の国の最北東部には堕羅と呼ばれる特異な場所があり、普段は大門により固く閉ざされているのだが、この大門の封印が何者かによって解かれ、堕羅の亡者たちが黒の国や人間界をも害し始めたからだ。大門の封印が解かれた場合、霊気の籠もった三つの玉を併せて鍵とし、再び封印し直さなければならないのだが、この玉の隠し場所を知っているのはただ一人──堕羅の大門の門番だけなのだ。当初、白の国の神・天甦霊主から聞かされていた情報によれば、堕羅の大門の門番は錫の祖父に取り憑いていた霊神・天翔虎慈之尊であった。そのことを聞かされた錫は渋々黒の国へと向かった。今は亡き天翔虎慈之尊が隠したであろう堕羅の大門の玉を探し求めていくうちに、錫は驚くべき事実を知る──本当の門番は天翔虎慈之尊ではなく香神錫自身だったのだ。堰が打ち砕かれ、滞っていた問題は一気に解決へと向かった。そうして錫は三つの玉を次々と手中にして堕羅の大門を封印することに成功したのだ。
けれども錫にはまだ解決しきれていない大きな問題があった。臆病な自分のせいで犠牲になった〝保鬼〟を探して助け出すことだ。保鬼とは堕羅の大門の門番に雇われている鬼のことだ。彼は堕羅の亡者が持つ毒に侵され、記憶を奪われたまま洞窟に姿を隠したが、それっきり消息が判らなくなっていた。
錫は保鬼を見つけ出すべく堕羅の大門を封印した後、いしを連れて何度か黒の国を訪れていたが、なんの足取りも掴めていない。だが、これで諦めたわけではない。保鬼を見つけ出すまで執拗に黒の国に足を運ぶ覚悟を決めていた。保鬼に〝必ず助けに来る〟と誓った約束を錫はなんとしても守りたかったのだ。