カネよさらば(上)
「武器よさらば」(原題:A Farewell to Arms)は,1929年に発表されたアーネスト・ヘミングウェイの長編小説。
第一次世界大戦中のイタリアを舞台に,アメリカ人のイタリア兵フレデリック・ヘンリーとイギリス人看護婦キャサリン・バークレイとの恋を描く。ヘミングウェイ自身のイタリア戦線の従軍記者時の体験をもとにしている。
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「米ジョンズ・ホプキンス大学の報告書『パンデミック(世界的大流行)病原体の特徴』によると,呼吸器系に感染して広がるウィルスで,症状が軽いのに感染力があるものが特に危ない。」
「呼吸器系に感染するものが世界で壊滅的被害をもたらす。・・・様々なタイプの抗ウィルス薬やワクチンの開発を重点的に進めるべきだ。」
根木は,出勤前の自宅で朝刊を読んでいる。最近は,新型コロナウィルス関連の記事ばかりだ。そんな記事を読むたびに,かつて日本に蔓延した旧型ピーナウイルスに罹り,重病を患った過去を思い出した。
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その日,根木は賀茂に電話をした。
「課長,先日はお付き合いいただきまことにありがとうございました。実はおりいってご報告したいことがございまして,今晩お付き合いいただけませんでしょうか。」
賀茂はなぜか快諾してくれた。いつもなら,「そうですか。それでは報告内容をメールで送ってください。」とでも言われるのが関の山だったにもかかわらず。
その夜,ガード下の赤提灯。
根木は朝刊の記事を話題にしながら,別れた妻のことを話し出した。
根木が離婚した妻はフィリピーナだった。根木は旧型ピーナウィルスに感染し重症になったことがあった。
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まだ若かった頃,私がサララーマンをしていたことは賀茂課長も知っていますよね。会社の先輩からの誘いにツイツイ乗ってしまい,フィリピンパブに一緒に行きました。初めてのフィリピンパブの印象は,よくなかっです。ゴジラが火を吐くように,フィリピーナたちはキツイ香水の匂いを撒き散らすわ,私が禁煙中であるにもかかわらず,オヤジたちのタバコの煙は充満するわ,「ドリンク/オカワリ/イーデスカ」とか,「カラオケ/ドーデスカ」などと聴きながら自分で歌いまくるわ,まるで阿片窟で売れない演歌歌手の歌を聞いているようでした。
でも,2回,3回と先輩に連れられて行くようになると,徐々に心地よい場所に感じるようになったのです。濃厚接触によりピーナウィルスに感染されてしまったのでしょう。
相変わらずどぎつい香水の匂いをまき散らされ,スーツにもベッタリと匂いが移るんです。次の日の出勤に差支えるぐらいの匂いでした。
フィリピンパブに行った翌日は,必ず別のスーツを着て出社しました。そうした面倒をさせられている時点で,自分が泥沼に嵌ろうとしていることに気づかなければなりませんでした。が,それは後の祭りの後だしジャンケンというものです。
当の本人は,「先輩に誘われたから断りきれない」という口実で週に1回行くようになり,次第に週に2回行くようになりました。
その程度であれば高級クラブに行くわけではないですから,独身のサララーマンであれば借金することはないし,自制心があるから大丈夫のはずです。キャバクラよりも基本料金だけは安いですし,ドリンクを飲ませて2時間遊んでも1万円から1万5000円ほどでした。 それでも薄給のサララーマンにはかなり厳しい金額ですが,その程度であれば独身の私には借金とは無縁だったはずです。しかし,当時の私にはキャバクラ通いでつくった借金があり,それを返済しながらフィリピンパブに通っていました。
フィリピンパブに通いだして思ったのは,客層がオッサン中心だったことです。多くは50代で,高齢のじいさんも結構な人数いました。私は当時30代前半で,客の中では断トツに若い男だったので,素晴らしくカッコいい男に見えたと別れた妻は言っていました。実際は口下手では日本女性にはモテない寂しい男だったにもかかわらずです。
モテない男が急にモテるようになると,いやモテるようになったと錯覚すると,心に火がついてしまうのはキャバクラで経験済みでした。キャバ嬢に嵌まりサラ金地獄に陥ったころには,それを見透かしたようにお気に入りのキャバ嬢たちは皆去って行きました。カネのない私には興味がないのです。黒服たちも然りです。
今度は借金を返すためにも絶対に嵌まらない,フィリピーナもカネを狙っているだけだと何度もいい聞かせました。借金を返すため,自ら鞭を打って先輩からの誘いを断るよいうになりました。
先輩からの誘いはなくなっても,ジェシカだけは,毎日携帯に電話やメールをしてきます。「I miss you.」「Hello!」「Hi!」「How are you?」や,覚えたばかりの日本語で,「Konbanwa」「Ohayo」などと。ジェシカも仕事をしているので,客に営業をかけるのは当然でしょう。当たり前のことをしているのですが,どうもキャバ嬢のメールとは様子が違うのです。
キャバ嬢の場合は完全に仕事と割り切っていることがメールの文言や電話の口調から分かります。ところが,ジェシカからは,営業でモテているのではなく,本当にモテているのかもしれないと錯覚するのです。ジェシカは,私にカネがないのがわかっても電話やメールで頻繁に連絡をしくるのです。そして「Omise kuru iranai aitaiyo」(お店に来なくてもいいから会いたいよ」と言ってくれるのです。「ちょっと待てよ。私のようなカネなしのモテない男に会いたいってどういうこと?」と何度も聞きました。
するとジェシカは「アナタ/ホント/ヤサシイ。ワタシ/アナタ/スキヨ。ソトデ/ディナー/ダケ/シタイヨ。」などと言うのです。そこまで言われてお金がないからと断るのでは男が廃ります。いや,今から思えば,そう思う自分は,既に廃れた男でした。男など廃れてもキッパリと断ればサラ金のブラックリストには載らなかっのです。
フィリピンパブに行かず食事だけすれば安上がりです。せいぜい数千円の話です。しかし私は「女性に恥をかかせるわけにはいかない」と訳の分からない正義感と男気を出してしまい,食事をした後にフィリピンパブに行くようになりました。同伴というやつです。この同伴をしてから,私はジェシカに夢中なり,再び借金生活に陥りました。