ピンパブ事始(上)
「蘭学事始」(らんがくことはじめ)は,文化12年(1815年),「解体新書」を著した杉田玄白が83歳の晩年,蘭学の草創期を回想し,オランダ語の翻訳に苦労した当時を高弟に書き送った手紙である。本編とは何の関係もない。
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時間は午後9時になろうとしていた。
「課長,もう一軒どうですか。」と根木が誘ってきた。根木の言葉はそれほど真剣ではなく,前回のとおり接待上の儀礼のようにも聞こえた。「いや,明日も早いので。」と,賀茂は条件反射のように答えようとしたが,「んー。どうしましょうかね。」と,自分の意思とは裏腹な言葉を発してしまった。
賀茂洋一は岡山県出身,現在55歳,家族は,妻と3人の娘(大学生,高校生,中学生)がいる。東京都内の私立大学を卒業後,「海千証券」に就職した。賀茂の就職した「海千証券」は,幾たびかの合併を繰り返し,今は,「山千証券」として生き残っている。賀茂は,その会社で使用する備品等の購買を担当する総務部第2課長だ。
「休まず,遅れず,働かず」「下(部下)も見ず,外(取引先)も見ず,上(上司)だけを見るヒラメたれ。」が,30年のサラリーマン経験で身につけた教訓だ。これにひたすら従い,同期では左遷や出向を命じられることもなく,課長職まで上り詰めた。既に退職金と年金の額は計算済みだ。現在の悩みは,60歳の定年を迎えた後,65歳まで延長して働くか,年金は65歳から受給すべきかというものだ。
根木真二は,群馬県出身,60歳,離婚歴があり,前妻との間に長男・長女がいるが,既に成人となっているそうだ。根木は,都内の私立高校を卒業し,大手文具販売会社に就職したものの,上司のパワハラに耐えきれず,40歳のころ脱サラし,文具販売会社の代理店を開業した。賀茂が経営状態を聞くと,「何とかやってます。」などと中小企業のオヤジらしく謙遜するが,その従業員に聞くと,人柄のよさが取引先に好かれ,不況の時代を乗り越え,経営は順調のようだ。
賀茂が,根木の接待を受けるのは初めてではない。賀茂は,入社以来,上司や取引先に対しては,真面目一徹を装ってきた。上司に誘われれば,何があっても腰巾着に徹した。取引先に対して接待を要求したことは一度もなく,三顧の礼ではないが,何度もしつこく誘われたときだけ,たまに居酒屋一軒だけにつきあうことがある程度だ。今夜,根木に誘われ,居酒屋に来たのも,これが2回目で,最初のときは,「明日も早いので。」と早々に引き上げたことを覚えている。
今宵の根木も,賀茂が二件目に付き合うなどとは予想していなかったのか,賀茂が悩むような気配で,「んー。どうしましょうかね。」と言うと,まるで待ってましたとばかり,「課長,お恥ずかしい話ですが,わたし,最近,年甲斐もなく,若いフィリピーナに惚れ込んでおりまして,そのコの働いているフィリピンパブにつきあってくれませんか。課長は千葉市にお住まいと伺いましたが,その店は市川の駅前にあり,総武線で一本ですから。」と目を輝かせている。
賀茂は,いつもならさっさと引き上げるところ,自分の意思とは裏腹に,ついさきほどそれを迷ったことも忘れ,「フィリピンパブなど,生まれてから一度も行ったことはないし,イメージはよくないが,市川なら,帰る途中だし。」と内心でつぶやきいた。いつもなら,女性の接待を受ける店などには誘われても行かないようにしているにもかかわらず,根木に対し,「それじゃあ一軒だけ。」と答えた。
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その店の入り口には,「モンテン・ルパ」という赤いネオンがあった。このとき賀茂は知らなかった。「モンテン・ルパ」とは,現在でもれっきとしてマニラに存在する刑務所の名前であり,かつては,太平洋戦争敗戦の後,A級戦犯を含む,日本軍の戦犯と呼ばれた軍人たちが多数収容されていた施設であることを。
薄暗い店内に入ると,天井からだらしなくぶら下がっている時代遅れのミラーボールが目に入った。相当年季が入った店のようだ。
「ご指名のコいらっしゃいますか。」とボーイが聞いてくる。根木は,すかさず,「ジェシカちゃん,お願い。」と答える。すかさず,ボーイが「お客様は?」と,賀茂を向いて聞いてくる。根木は,ボーイに,「この方は初めてだからローテーション。」と答えると,ボーイは,「承知しました。」と言って,奥に向かって去って行った。
「サッチョー,イラッシャイマセー」(訳注/社長,いらっしゃいませ。)と,両手で握手を求めながら,根木の横に座ったのは,年の頃,25歳前後のフィリピーナだった。そのコは,賀茂に対しても,両手で握手を求めながら,「ハジメマシテー,ジェシカデース」(訳注/初めましてジェシカです。)と挨拶をしてきた。賀茂は,ジェシカに対し,無意識のうちに両手で握手をしてしまった。
賀茂がかつて接待で経験した銀座の高級クラブでは,席に着くホステスが握手を求めることなどありえず,一瞬対応にとまどっているうち,ジェシカの両手が目の前に差し出されたことから,ピンパブのスケベオヤジのごとき行動をとらざるをえなかったというだけである。その姿は,まるでパブロフの犬のようだ。
ジェシカは,身長150センチほどの小柄で,愛くるしいルックスだった。なるほど,これが根木の入れあげているフィリピーナか,と賀茂は心の中でつぶやいた。
ジェシカのつくったウイスキーの水割りで乾杯をした後,二人に目を向けると,何やら真剣なまなざしでひそひそ話をしている。
と,その瞬間,賀茂の瞳孔は満開の桜のごとく開いた。根木の横に座っているジェシカの漆黒のマイクロミニのスカートの股間にあるデルタ地帯から,鮮血のごとき赤パンティが加茂の視覚中枢を射貫いたからである。賀茂は,ミリタリーマニアというほどではないが,ほんの先日,YouTubeの動画で,アメリカ軍が最新のレーザー兵器を開発中であり,そのパワーは,ロシアの最新鋭戦闘機を一瞬で撃墜することができるものであったことを思い出した。賀茂は,その閃光のまぶしさに耐えきれず,またもや条件反射のごとく,二人から急に目を背けた。
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「シツレーシマース」(訳注/失礼します。)という声が聞こえ,もう一人のフィリピーナがまたもや両手で握手を求めてきた。「ハジィメマシテー,アナデース」(訳注/初めましてアナです。)と野太い声を発しながら,巨大物体が賀茂の横に座ろうとした。と,その瞬間,賀茂はのけぞった。そこにいたのは,年の頃45歳前後で,巨大毒蛇を彷彿させる蛇腹100センチはあろうかというデブのオバさんだった。
薄暗い店内に目も慣れて,オバさんの全貌が徐々に暴かれてゆくと,オバさんは,前歯が2本も欠けており,頬はだらしなく垂れ下がり,ほうれい線だか皺だか区別できないウェーブが顔全体を覆っていた。古びたミラーボールがスポットライトのようにその顔を照らすと,スポットライトに浮かぶセルライトが目立った。その腕は,賀茂の太ももほどはあろうかというほどの太さで,その太ももは,賀茂のウェストとほぼ同じだった。賀茂の脳裏には,その故郷の国指定重要無形文化財である備中神楽のトリを務める八岐大蛇,ドラム缶,ワイン樽,ガマガエルなどが走馬灯のごとくめまぐるしく駆け巡った。オバさんに比べれば,テレビでよく登場する「大坂のおばちゃん」でさえ愛くるしく思えるほどだった。
賀茂は,目の前で薄笑い(本人はスマイルのつもりだろう。)を浮かべながら、「カラオケ/ウタイマスカー」(訳注/カラオケ歌いますか)と喋る前歯が2本も抜けている口を見て,ハリウッド映画に登場するアナコンダ2の来襲かと身構えた。だらしなく口を開けたまま体型に似合わない細く長い舌にはその薄気味悪さを通り越し恐怖を感じた。以前、会社の総務部に来た顔面凶器の総会屋を何度も見かけたことがあるが、このオバサンなら比べればかわいく思えた。
「アナと雪の女王」の主人公とはおよそかけ離れたオバさんに睨まれ(たような気がした。),全身がフリーズしていたその時,賀茂は再びのけぞった。賀茂の右に座ったオバさんは,賀茂の横に座るやいなや,その左脚を加茂の右脚に密着させるとともに,その左手を賀茂の右太ももに置いてきたのだ。賀茂は,オバさんの体温の生暖かさに,まるで蛇ににらまれた蛙にでもなったかのような恐怖を感じてしまった。向かいからは,あいかわらず,アメリカ軍の最新レーザー兵器にロックオンされており,右からは,マリアと名乗る得体の知れない巨大物体にからみとられている。
一刻も早くこの魔宮から逃げ出さなければならないと願ったが,なぜかその視界は,レーザー光線に射貫かれ,その体は,巨大物体にからみつかれ,立ち上がることも,声を発することもできないまま,聞いたこともない騒々しい音楽に聴力を失い,オバさんから目を背けた先に輝くミラーボールで視力さえも失った。
硬直した体全体が溶けていくような感覚の中で,「この先にはブラックホールでもあるのか。」とつぶやきながら,これまで経験したことのない世界に落ちていく自分を感じた。
つづく・・・To be continued