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フィリピンの歴史

 フィリピンの学校で使用する歴史の教科書では,フィリピン史はマゼラン(

Magellan)によるフィリピン諸島(Philippines Islands)の「発見」(Discove

ry)とスペイン人によるフィリピン征服(Conquest)から始まります。フィリピーナは,マゼランによって「発見」されたというわけです。

 日本のオヤジはわざわざフィリピンに行かなくても,日本のピンパブでフィリピーナを「発見」できるので,マゼランのように身を危険にさらして世界一周をする必要はありません。

 フィリピーナを「発見」したというのは誤りだと言う人もいます。マゼランが「発見」したフィリピン諸島には,すでに紀元前からマレー人(Malaysian)が定住していました。太古からフィリピン諸島に暮らすフィリピーナからすれば,マゼランは単にフィリピーナの居住区に「到達」した(Arrive)にすぎないと言うのです。コロンブス(Columbus)による「新」大陸の「発見」にしても,マゼランによるフィリピン「発見」にしても,それらは西欧から見た歴史観にすぎないと言いたいのでしょう。

 しかし,それは単なる言葉の使い方の違いであって,西欧人からすれば,マゼランによって初めてフィリピン諸島の存在を知ったというだけでしょう。私には「発見」という言葉に違和感はなく,フィリピーナからすれば,西欧人に「発見された」にすぎません。マニラのKTVや日本のピンパブで働くフィリピーナも,日本のスケベオヤジに「発見」されたのです。哲学でいうところの「唯心論」か「唯物論」の違いでしょう。

 マゼランが到達する前からフィリピン諸島が存在していたのは当然で,独自の習慣と言語を持ったフィリピーナが数世紀にわたって暮らしていたのです。その生活が平和であったかどうかは未だ知られていません。

 歴史上強大な騎馬軍団を誇った遊牧民族の国家であっても,文字をもたなかった民族,あるいは文字をもっていたとしても,その後の征服者にその記録が破棄されてしまった民族は,自らの歴史を後世に伝えることはできないのです。

     *****

 フィリピン史が,マゼランによる「発見」とスペインによる征服から始まることについては,フィリピン特有の事情があります。

 マゼランが「発見」する前のフィリピン諸島には統一された国家が歴史上一度も存在しませんでした。フィリピン諸島には「バランガイ」(Barangay)と呼ばれる集落が存在し,それぞれ別個の言語が使われていました。現在でもタガログ語を日常用語として使うフィリピン人は約24%にすぎません。

 「バランガイ」という名称は,マレー系民族がフィリピンに移住してくるために用いた小型の帆船に由来するといわれています。多くのバランガイは,30~100ほどの家族から構成され,大きなバランガイともなると2000家族ほどありました。今でもフィリピンの最小の自治体が「バランガイ」と呼ばれるのはその当時の名残です。

 個々のバランガイは時に対立し,時に協力し合い,幾世紀にもわたって固有の文化を育んでいたのかもしれません(それは不明です。)。いずれにしても,一つの国家,一つの民族としての意識はありませんでした。陶磁器の破片などが数多く出土していることから,10世紀以降はさまざまな地域と交易を活発に行っていたことはわかっています。

     *****

 原始経済が発達したのに統一国家が誕生しなかったことには理由があります。フィリピン諸島を含めた東南アジアは,海域世界であり,エリアが広大であるため人口密度が低く,また人の移動が自由になされていたため,国境という観念がなく,統一国家を求める必要がなかったのです。陸の遊牧民族と同様です。

 統一国家がないため,フィリピン諸島という観念もありません。もともと「フィリピン」と名付けたのはスペイン人です。後に皇帝となったフェリペ皇太子の名前にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス 」(Las Islas Felipinas)(フェリペナス諸島) 」と命名されたのが「フィリピン」という国名の由来です。その言葉の意味するところは「フェリペに征服された民」です。フィリピーナにとっては,屈辱的な名称のはずですが,多くのフィリピーナは,国名の由来を知りません。

 現在のフィリピン国内には「フィリピン」という国名を変えるべきとする声もありますが,それは知識層の呼びかけによるもので,国名の由来を知らないフィリピーナの大半は「フィリピン」という国名に違和感を覚えていません。フィリピーナが熱心なカトリック教徒であるのも,植民地時代のカトリック教会による強制改宗などの蛮行を知らないからです。

 マルコス政権下の1978年に国名を「マハルリカ共和国」に変更すべきかという議題が議会に提出されましたが,大衆の支持を得ることなく立ち消えになっています。2019年2月,ドゥテルテ大統領は演説にて「かつてマルコス大統領が国名を『マハルリカ共和国』に変更しようとしたのは正しかった。」と述べ,「フィリピン」という植民地時代の名残である国名をいつかは変更したいと表明しました。「マハルリカ」はサンスクリット語で「気高く誕生した」という意味ですが,世論を動かすほどの反応は起きませんでした。

 現代フィリピンの貧困は,カトリックを利用したスペインによる植民地支配が原因です。しかし,戦後100年もたたないうちに,そのことは忘れ去られたのです。カトリック信者が84%を占めるフィリピンでは,カトリックを批判する歴史を教えることはタブー視されているため,フィリピンの大多数を占める貧困層は,正しい歴史を知る機会を失っています。

 過去は過去として許すことは大切ですが,忘れることがあってはなりません。しかし,カトリックによる搾取の歴史は,それが事実であったとしても,カトリック側からは都合の悪い事実と受け取られます。そのため教科書を読んでも,「カトリックを利用したスペインによる植民地支配」というイメージは浮かびません。

     *****

 フェリペに征服される以前のフィリピンの歴史は,現在でもよくわかっていません。セブ(Cebu)にしてもマニラ(Manila)にしても,その地のバランガイで使われていた文字が発見されていることから,バランガイの歴史が綴られている文書(紙ではなかったでしょう。)も残されていたはずですが,スペインの統治下でそれら古文書のことごとくは焼かれ失われました。スペインによる征服以前のフィリピンの歴史がよくわからないのは,スペインによってフィリピン固有の歴史を奪われたためです。

 こうした事情から,フィリピン史はスペインによる征服から幕を開けることになるのです。

 歴史を奪うことは,フィリピンの新たな支配者となったスペインにとって都合のよいことでした。歴史と文化を喪失した民族ほど,新たな支配者に対して従順だからです。スペインの邪悪な目論見は,現在のフィリピンに至るまで見事に果たされています。「歴史を知らずして現在も未来も知ることはできない」という言葉が正しいとすれば,スペインによるカトリックを利用した植民地支配の歴史を教えるべきでしょうが,それは必然的にカトリック批判となるため,それがタブー視されている現在のフィリピンにおいては困難です。

 現代フィリピンにおけるカトリックは,姿を変えたものの依然として強大で,フィリピーナの精神を支配しており,ファミリー,ラブ,ヘルプ,ゴッドというフィリピンスタイルとして連綿と受け継がれています。


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