いつか思い出になる
――――翌日。
夜もまだ明けやらぬ頃、アイリは珊瑚の宮へ戻った。
戻る時はたった一人というのが心細く感じられたが、そんなものは些細な事だ。朝靄に包まれた幻想的な庭園も、アイリの心を慰めるほどの事では無い。
ファビアーノは終始優しく、これで名実ともに王妃になったと言っても、簡単に心が変わるものでもない。自身の寝室へ戻ったアイリは、そのまま床に崩れ落ちるように座り込む。
その瞳から、涙が零れた。顔を手で覆って、肩を震わせる。
戻って来たことに気が付いたミーナがそっと近寄り、アイリを優しく抱きしめる。アイリはそれに縋りつく事も無く、ただ泣いている。その姿が痛々しい。
「アイリ様……」
「今だけだから。これで、最後にするから」
「分かっておりますとも」
頷きながら、ミーナは抱き締める手に力をこめる。
後宮に入るまでも、アイリが泣いていた事をミーナは知っている。決して、両親や兄弟の前では泣かなかったが。
しばらくして、アイリは静かに涙を拭って笑みを浮かべた。体を離したミーナは、心配そうに顔色を窺う。
「……大丈夫。王妃はあと二人もいるもの。私へのお召しは、たまにしかないわよ」
恐らくそれは、自分に言い聞かせているのだろう。ファビアーノにはすでに子がいるため、その点はアイリにそれほどの責任は無い。これは、寝室で実際にファビアーノが口にした事だ。
しかしこの先どうなるのかは、誰にもわからない。父である侯爵としては、アイリに子を産んでもらいたいと考えている事は、明白なのだから。
それでも、ミーナが願うのはただ一つ。アイリが健やかである事だけだった。
「今はお辛いでしょうが、きっと大丈夫です。アイリ様は、アイリ様らしくいてください。それが、私の大好きなアイリ様ですから」
「ありがとう、ミーナ。あなたがいてくれて、本当に良かった」
泣き笑いを浮かべるアイリに、ミーナも目元の涙を拭う。
ミーナはそれと同じ台詞を、出立前にアイリの母である侯爵夫人の口から聞いたばかりだ。夫人は娘が嘆き悲しんでいる事など百も承知で、けれど必死に前を向こうとするアイリの為に、気が付かないふりをしていた。
それを打ち明けられた時、ミーナは言ったのだ。お嬢様の笑顔を守る事が私の役目です、と。これを聞いた夫人は安堵した顔で、先程のアイリと全く同じ台詞を口にしたのだった。
愛しい養い子に、笑顔でいてもらいたいのは当然の事。だからミーナは、アイリが心穏やかに過ごせるように力を尽くそう、と改めて誓ったのである。