過ぎ去った過去
読み終わったファビアーノは、それを乱暴な手つきで従者に放り投げた。従者は反射的に受けとる。
「これだけか。謝罪もない。俺に対する気遣いは一行だけ。それに、署名はザヴィカンナスまでしかない」
普通、王妃の署名は、王の姓を最後につける。アイリ・ソフィア・ザヴィカンナス・ド・サラチェーニ、という風に。
長くなるし、普通の結婚では必要無い事なのだが。
自分に投げたのだから、見てもよいと判断して目を通した従者の顔に、苦笑が浮かぶ。
この署名は、細やかな抗議だろう。
「……お言葉ですが陛下。それだけの事を、あなたはお優しい王妃様になさったのですよ。百年の愛も冷めるでしょう。信じてくれないと解ってる人に、何を言っても仕方がない、と思うのは当然ではないでしょうか」
従者の脳裏に、見送った時のアイリの姿が思い浮かぶ。
ファビアーノの姿が見えない事に安心しながらも、心細げに部屋のある場所を見上げ、そして、少し悲しそうな顔をした。
決して見せまいとはしていたが、隠し通せてはいなかった。
「陛下。王妃様が誰を愛しているかなんて、見ていたら分かりますよ。この私でさえもね。なのに、何故信じられぬのです」
従者がそう言うが、ファビアーノは黙りこんだまま。
ファビアーノも、アイリが不貞を犯していない事など、百も承知のはず。エヴァルドが、誰にも見つからずに珊瑚の宮へ行くのは、不可能なのだから。
「あなただって、あの文書が嘘八百だとご承知のはず。それなのに何故あんな真似を……」
珍しく、従者が怒ったような顔をしている。そんな顔をするのは、ファビアーノが絡んでいる時だけだった。
いつの間にか従者も、アイリの事を大事に思うようになっていたのだ。もちろん、女主人として。