もう戻れない場所
ミーナの言葉に、アイリはあるかないかの笑みを浮かべる。これからは、ザヴィカンナスの娘と呼ばれる事はなく、第三王妃と呼ばれるようになるのだ。
お嬢様と呼ばれる時はもう、終わりを告げた。数年前からそろそろお嬢様呼びはやめて、と言ってはいたが、いざ呼ばれないとなるとわずかな寂しさを感じる。
「もうお嬢様はよして。だって私は今日から……。……今日から、ここで暮らすのかと思うと、憂鬱だわ」
アイリはため息混じりに、父の前では決して言わなかった事を口にする。それは紛れもない本心だ。決してそう考えないようにしていたにもかかわらず、ミーナの皺のある顔を見て安心したのか、思わずそう零してしまった。
今回の輿入れが決まったのは、ひと月前。国王の生誕祭が行われた、その日の翌日。
突然使者が訪れて、
『アイリ・ソフィア・ザヴィカンナスを第三王妃として召し出す』
というお触れを告げられたのだ。
国王の生誕祭では舞踏会が開かれ、そこにアイリは初めて、王弟エヴァルドの婚約者として出席していた。それがまさか、このような事態をもたらす事になるとは。
エヴァルドと笑い合ったあの日が、もう遠い昔のようだ。初めて一緒に踊った煌めきが、一瞬にして色褪せた事が切なくなる。
その日以降、もちろんエヴァルドからは何の知らせもない。手紙の一通くらいくれてもいいのでは、とアイリは少しだけ心の中で彼を責めた。
その時の父の喜びようたるや、言葉では言い表せられない。さっそくその次の日から、アイリの輿入れの支度が始まったのだ。当の本人を置いてけぼりにして。
お披露目用のドレスと共に新しいドレスを仕立て、持っていく日用の品を選ぶ。あまり時間の無い中、ザヴィカンナス侯爵家の名誉と威信にかけて、贅を凝らした持ち物が準備された。髪飾りひとつで、一体どれほどの暮らしが潤うか。
それらをアイリは、ただ見ている事しか出来なかった。異を唱える事など、出来ようはずもない。相手は国王だ。婚約者がいようと、たとえそれが弟の婚約者であろうと、関係は無い。
王が決めた事は絶対である。
弟の婚約者を奪うとは何事か、と思う者がいたとしても。最終的には皆受け入れるのだ。これは名誉な事だと。両親も兄妹も、そう言ってアイリを励ました。
アイリもそう思おうとしたけれど、まだ難しい相談だった。何しろアイリはこれまで、エヴァルドと結婚する事を疑っていなかったのだから。
国王陛下も何故わざわざ私を、と何度も考えた。まさか髪色だけで、とは思いもよらない。