不意打ち
「今日の公務が早く終わったものでな。先ほど思いついた。せっかくだからヴィルヘルムも一緒にと思ったが、一足遅かったか」
そういう事なら良かった、とアイリは安堵する。王との約束を王妃が忘れるなんて、あってはならないことだ。ほっとしたアイリは頷くと、微笑みながら言った。
「ええ。先ほど帰りましたわ。陛下は何事も順序立てて行動すると思っていたのですが、こういった事もなさるのですね」
と、可笑しそうに笑ったアイリを、ファビアーノがまじまじと見つめる。そんな風に見つめられたのは初めてで、アイリは今の言い方は失礼だったかしら、と笑みを引っ込めた。
あまりにも見つめてくるので次第に、怒らせてしまっただろうか、と焦ってしまう。アイリは目を伏せて、弁解の言葉を探す。
「……申し訳ありません。決して陛下の行動を否定するつもりでは無かったのですが」
真っ青な顔で弁明するアイリに、ファビアーノは快活に笑う。その声に顔を上げたアイリが目にしたのは、それは嬉しそうな笑みだった。
「そうではない。まだそれほど経っていないのに、よく見てくれているのだな、と思っただけだ」
そう言うとそのままアイリの手を取り、瑪瑙の宮へ歩き出した。アイリは未だ整理のつかぬ頭で、転ばないようについて行くのに必死になる。
「あ、あの、侍女の誰かに知らせなくては」
「後で使いをやるから心配するな」
ファビアーノは歩くのが早い。まるで引っ張られるようにして歩くアイリに気が付き、やっと歩幅を緩めたのは、瑪瑙の宮の入り口が見えた頃だった。
少し決まりが悪そうな姿には、いつもの余裕が感じられない。アイリが息を整える様子を見ながら、本人も思わず苦笑してしまうほど。
「悪い。つい気が急いてしまった」
それはどういう意味で、とはアイリには聞けなかった。聞いてしまったら、後には引けないような気がしたから。アイリは曖昧に笑うと、先に入り口を潜っていったファビアーノに続いて、瑪瑙の宮へ足を踏み入れた。
瑪瑙の宮は、王が住んでいるという割には、それほど豪華な造りをしているわけでは無く、外から見れば、執務をする玻璃の宮と同じ建物に見える。
内部の装飾も質が良く凝ってはいるが、派手というわけでは無い。日常生活の場であるから、落ち着ける空間を意識しての事だろう。
一階に食堂や談話室、書庫、遊技場などがあり、二階は王の兄弟の部屋、三階に王の部屋、そして、三人の王妃それぞれの控えの間と王と過ごすための寝室がある。