微かな灯火
二人の間に、沈黙が落ちる。二人の間では初めての、重苦しい沈黙。
王宮は、舞踏会や儀式などがない限り、本当に限られた人物しかいない。庁舎と玻璃の宮を行き来する文官や侍女たちを除けば、王や、王の家族たちである。
だから、こうして言葉を交わす事は、不自然ではない。そう考え直し、アイリは口を開いた。もう少しだけ、エヴァルドと話をしたかったのだ。それはかつての婚約者に助けを求めるためではなく、ただ、懐かしさから。
「初めて会った時の事を、覚えていますか?」
唐突な問いかけに、エヴァルドは目を見張ったものの、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。ファビアーノと同じ深い緑色の瞳が、懐かしむように細められた。
「もちろん覚えているよ。私が訪れた時、君は馬に乗っていたね。とても楽しそうで、すぐに筆を取りたくなってしまった」
エヴァルドは、趣味で絵をよく描く。だからこその表現に、アイリは微笑んだ。しかし次の瞬間には、その微笑みは翳る。
絵を描いてくれるという約束を、思い出してしまったからだ。エヴァルドもそれに気がついたであろうが、なにも言わない。
兄の、王の妻に、どうして言えるだろうか。言ってはいけない事を言ってしまうほど、エヴァルドは愚かでは無い。エヴァルドに許されるものは、アイリの幸せを願う事のみ。
「……そろそろ行かなくては」
「手紙を書いてもよいですか? 友人として」
その提案に少し迷っていた様子だったが、エヴァルドは頷いて去っていった。心優しいエヴァルドの事だ。それが気休めになるのなら、と考えたのだろう。
アイリも背を向けて、珊瑚の宮へ戻っていく。その顔はどこか晴れやかで、浮かんだ微笑は清々しい。これからも思い悩むことはあっても、塞ぎこむことは無いだろうと思われた。
その日から交わす手紙は、本当に細やかな日常を記した手紙だ。天気の話や、侍女から聞いた楽しい話。ここ最近では、ファビアーノの話題も。アイリにとっては、大切な手紙となっているが。
ああ言ったのはただ、何か拠り所が欲しかったから。王宮で心細く感じた時に、友人がいてくれたら、どれだけ心強いか。ただそれだけの理由。他意などある筈もない。
アイリにとって、エヴァルドは友人だ。婚約していた間もそうであった事に、手紙を交わしながらようやく気が付いた。それでもまだ、踏み出す勇気が無い。それは、ファビアーノに内緒で元婚約者と手紙を交わしているという、罪悪感からか。
それでも断ち切れないのが自分の弱さなのだと、アイリはよく理解していた。