切なげに啼く犬
朝起きた俺の一日はパン工場に向かうことで始まる。
小高い丘の上に建てられた赤い屋根のパン工場。煙突からは白い煙がモクモクと上がる。
トラックを運転する俺は、青い空に千々に散っていく白い煙を陰鬱な目で眺めていた。もう何百回ではきかないくらいの回数、眺め続けた光景だ。
もちろん俺もこの退屈な繰り返しに抗うために色々とやってみた。
だが全ては無駄だった。販路の拡大も、サービスの向上も、何もかもこの世界には必要ないのだ。
「代り映えのしない景色……」
トラックは進む。
景色が変わらないのは当たり前だ。そもそも短期間で景色が変わることなど、よほどの一大事がなければありえない。だが景色以外も何もかも変わらないというのは問題だ。
パン工場に着いた俺を迎えるのはパン職人の爺と、助手の女の子だった。一見すると祖父と孫のように見えるのだが血縁関係はないらしい。彼らといつものように挨拶をかわし、俺はトラックにパンを詰め込んでいく。
挨拶をする、パンを積む。それでここでの仕事は終わりだ。
そう、これで終わりだ。
これだけなんだ。
「いつもすまないね」
「いえ……仕事ですので」
「そうかい。ワシの作ったパンを皆に届けてもらって運転手さんには感謝しているよ」
「ありがとう……ございます」
「ん?……どうしたかね?」
「いえ、何でもありません」
「そうかい? まぁ、今日もよろしく頼むよ」
善良な笑顔でパン工場の爺さんは言った。隣にいる助手の女の子も同様だ。彼らは心の底からそう言っているのだろう。だが俺には違和感があった。
彼らは感謝している。それは間違いない。笑顔にも裏表はないのだろう。
感謝してくれている。
だがそれだけだ。
彼らは感謝する。しかし絶対に対価はよこさない。もっと言うと、俺は彼らの作ったパンを毎日のように学校に配達しているのだが、その労働に対する金銭を学校は俺にも老人にも支払っていないのだ。
老人はパンを作る。
俺はパンを運ぶ。
先生や生徒たちは運ばれたパンを食べる。
この間に金銭のやり取りは発生していない。それどころかこの世界には“お金”というものが存在しなかった。ただ仕事があるだけだ。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、今日も頼むよ」
老人の謝辞を心ここにあらずで受け流す。
そのとき足元に一匹の犬がやって来た。パン工場で飼っている犬で、品種は知らないが耳の垂れた胴の長い犬だった。
そいつは俺の足に擦りよると高い声で切なげに啼いた。
その声を聞くと俺は強烈な郷愁に襲われた。犬なので当たり前のようにこいつは喋らない。だがコイツは俺に何かを伝えようとしている。そんな気がするのだ。
瞳を見ればやはり何かを訴えるように俺の目を覗き込んでいる。
でも俺は結局コイツになにも言い返すことが出来ず、いつものように言うのだ。
「行ってくる……また明日来るからな」
そう言って頭を撫でると、犬は悲し気にもう一度鳴いた。
こうして俺の仕事は始まる。学校にパンを運び、村の人にもパンを配っていく。売るのではなく配っている。配給している。誰も彼もお金なんて持っていないのだ。
そんな人たちにパン工場の爺さんが作ったパンを配る。村の中にはパン屋などない。それどころか一軒たりとも店などない。一番最初の休みの日から村の中を何度も見て回ったのだが店などないのだ。もっともポケットの中には一円たりとも入ってなどいないので、よしんば店などあっても買い物など出来ないのだ。その事実に気がついたとき、俺は愕然とした。
「いつもありがとう」
「いえ、仕事ですので」
爺さんから預かったパンを配る。時おり服や薬と交換してくれる人もいるのだが全員がするわけではない。彼らはたんに服を作る人であり、薬を作る人だからくれるだけなのだ。そういう意味では彼らも仕事をこなしているに過ぎない。物々交換ですらないのだ。
「やっぱりパン工場の爺さんが作るパンは美味しいな」
「ええ、食パンはふんわり、フランスパンはパリっとして、とっても美味しいわ」
「まったくだ」
村人たちはお互いに笑い合う。それは本当にのどかな風景で、まさしく絵に描いたようだった。
善良で、平和で、悪性など微塵も存在しない。そんな完成された世界だった。
俺はそんな彼らを不気味なものでもみるような視線で射貫く。それはまっすぐに彼らに突き刺さるのだが、彼らがそれに気づく様子はない。何しろ彼らの心には悪性などないのだ。だからこそ悪意など感じたことなどないし、疑うことなどしないのだろう。
そして俺にとって彼らはひたすらに不気味だった。だがそれも仕方がない。
爺さんはパンを作る。
俺はパンを運ぶ。
彼らはパンを食べる。
だがしかしだ。
だがしかし彼らも、そしてこの俺も本当はパンなど食べる必要などないのだ。
それに気がついたのはこの世界にやって来て一週間ほどした時のことだった。美しい風景と平和な人々に囲まれ、彼らに感謝されることに感動する日々を送っていた俺は、突然気がついた。
おかしい? この一週間、俺はパンしか食べていない!?
それはあまりにも馬鹿馬鹿しい気づきだった。しかしそれも仕方がない。食事はパンだけにもかかわらず、まるでストレスなど感じなかったからだ。
それから1か月ほど、パンだけ食べて過ごした。腹は膨らむが、それだけならば栄養不足か何かで身体に何らかの障害が起こりそうなものだ。時おり他の食べ物をもらうこともあったが、それだけで必要なビタミンやミネラルなど補えるはずもない。しかしそれでも俺は平気だった。もちろん食べなければ腹は減る。しかしそれだけだ。一度、恐る恐るだが一切食事をせずに過ごしてみたら2週間平気だった。もちろん人間が飲まず食わずで平然と動けるはずがない。なので3週間目はバカバカしくなってやめた。
つまり俺も、そして周りにいる連中も本来なら食べ物を食べる必要などないのだ。
それでも彼らはパンを食べる。それは漫画やゲームのキャラクターが“そういう設定だから”やっている動作のように見えて、俺には堪らなく不気味に見えた。
「美味しいパンをありがとう」
「パン工場の爺さんにもお礼を言っておいてくれ」
「本当に助かってるわ」
居たたまれなくなった俺は逃げるように村人たちから離れていった。
村から離れた俺は隣の村にいくために道を行く。これが終われば今日の仕事は終わりだ。朝起きて昼過ぎには終わる。1日5時間程度の労働。あとは好きに時間を使える。自然は綺麗で、村人は優しい。理想のスローライフだ。
ただ時間があって、自然は綺麗で、人は優しくても、何かやることがあるわけじゃない。何しろこの世界には、お金がなく、店がなく、物がない。だから何かを始めようとしても、それが難しい。
そもそも娯楽がないのだ。
それはネットやゲームや漫画がないとか、そんな話ではない。例えば本だ。この世界には、小説とか、雑誌とか、漫画というものがない。そういう物を作る仕事をする人がいないからだ。
一度学校の授業を見たのだが、文字は習っているが、しかしそれを使って物語を読んだりはしていなかった。ただ文字を書く、読む。それだけだ。
それに何の意味があるのか、一度俺は先生に訊いてみたことがあった。そのとき彼女は言ったのだ。「だってそれがあの子たちの仕事だもの」と……
そして俺が毎日パンを配達しているように、先生は毎日文字の書き方と読み方を教え、生徒たちは毎日文字の書き方と読み方だけを教わっている。そこには何の応用も発展もない。
そんな毎日があの学校で行われていると知ったとき、俺は泣いた。
それ以降、先生と話す口数は少なくなっていた。
この世界の人間は何の疑問も感じることなく毎日を繰り返す。働くことに対価はなく、食べる必要がなくとも食べ、学んでもそこからは何も生まれない。
この世界は綺麗な自然と、優しい人たちと、仕事だけで出来ている。不死者の楽園だ。