うさぎのような先生
随分と昔、俺はトラックに轢かれて死んだ。こういうとおかしな言い回しだが実際に轢かれて死んだ。そのときの俺は教材の販売の仕事をしていて、週休7日の1日19時間労働のブラックな職場で働いていた。最後に休んだのがいつなのかも忘れてしまったある日、深夜の帰り道で轢死したのだ。
信号を無視して突っ込んでくるトラックのライトが視界を焼いていくのか、俺は頭の片隅で思った。
『もしも生まれ変わったらスローライフで生きていきたい』
そうして俺は気づいたとき、この世界にいた。ここは俗にいう所の異世界だ。もちろんこの世界の人間からすれば俺の方が“異世界人”なのかもしれないが、とにかくトラックに轢かれて死んだ俺は、次元だが、空間だをすっとばして、この異世界に転移していたのだ。
そして俺は今、この異世界でスローライフを過ごしている。
異世界に転移したとき、俺はトラックの中にいた。
トラックに轢かれたはずが、トラックの中にいる。その事実に困惑したのだが、俺はすぐのその状況を理解した。
俺の仕事は運転手。トラックいっぱいにパンを積んで、それをあちこちに配達する。それが俺のこの異世界における仕事だ。唐突にそれを理解した。
それから毎日、俺はパンを配達している。
労働時間は1日5時間。パン工場でパンを受け取ると、それを学校や隣村に配達していくのだ。残り時間は自由に使える。
この世界は自然が豊富でどこに行っても景色が美しい。トラックの窓から見える山々は目に染みるほどに緑が濃く、澄んだ空は雲の白さをくっきりと強調する。澱んだ都会の空気の中で過ごしてきた俺にとって、始めてみる本物の自然は新鮮な驚きに満ちていた。
渓流沿いに進み、小高い丘を越えれば、そこが学校だ。
「今日もご苦労さまです」
「いえ、仕事ですので」
メガネをかけた学校の先生はうさぎみたいな雰囲気の可愛らしい女性だった。以前の職場にも女性社員はいたが、俺の周囲には今までいなかったタイプの女性だ。
柔らかに微笑む彼女と短い間話し込む。それが今の俺のささやかな楽しみだった。
「給食の度に子どもたちも喜んでいます」
「俺はパンを届けているだけですよ」
「真面目にお勤めをするのって、とても大切だと思います」
「そ、そうですか」
柄にもなく照れてしまう。女性に褒められて照れるなんて、まるで中学生のようだ。
嬉しいような、気恥ずかしいような、懐かしい感覚に襲われた。
もちろん俺も今ではいい大人だ。真面目や愚直が必ずしも美徳ではないことくらい理解している。仕事にとって大切なのは数字に表れる結果を出すことであり、真面目に頑張ることが正しい訳ではないと解っている。しかしそれでも、ひたすらに仕事をしても誰も何も褒めてくれなかったかつての職場からすれば、それだけでも涙が出そうになる言葉なのだ。
「じゃあ、これからもしっかり配達しないといけませんね」
「ええ、お願いします」
微笑む姿はひまわりの花のようだ。それに一瞬見とれてしまったのを誤魔化すように校庭で遊ぶ子どもたちを見る。人口の少ない村なので、遊んでいるのはいつも同じ面々だ。鼻の穴が大きくて、俺が密かに心の中でカバみたいだと思っているひょうきんな男の子が手を振った。
もちろん俺も手を振って返す。
隣を見れば彼女も一緒になって手を振っていた。
「はい、頑張ります。子どもたちが大きくなったときの見本になるようにしないといけませんしね」
「え?」
「あれ?……オレ、何か変なこと言っちゃいました?」
「あ、いえ、そんなことはないですよ」
メガネのレンズ越しに瞳が見開かれて、彼女は明らかに驚いた風ではあったが、それはすぐにいつもの優し気な笑みの中に消えていった。
オレはと言えば、彼女のことが少し気になっていたのだが、それはおいおい知っていけばいいだろう。幸いにも季節は春。新学年も始まったばかりだ。
これからまず一年間、俺はこの学校にパンを運び続けるのだろう。
新しい季節と、新しい人生の始まりだった。
◇
それからも俺はパンを運び続けた。
パン工場に行きパンを仕入れて、トラックに積み、学校に行き、先生と話した。彼女は可愛くて優しくて、俺は瞬く間に夢中になった。
「そうですか、先生はずっとこの村にいるんですね」
「はい、運転手さんは?」
「俺は……最近、この村に来たんです」
「どちらから?」
「えっと、まぁ……すごく遠くの方ですかね」
「へぇ、そうなんですね。でも納得しました」
「納得?」
「はい。村の人とは少し雰囲気が違いますから。この村では他所から人がやって来るのって、とても珍しいんです」
言われてみれば、確かにこの村はほとんど村の中だけで生活が完結している。だが俺が余所者扱いされたり、邪険にされたりしたことはない。今の俺の周囲は善意で満ち溢れている。
「そんな意地悪する人なんていませんよ」
「そうですね。でもこういう村ってもっと閉鎖的なイメージがあったから、そういう意味では嬉しい誤算でしたね」
「まぁ、運転手さんの故郷には意地悪な人が多いんですね」
「そういう訳じゃないですけど、それでもこの村は良い人ばかりだと思います。いい所ですよね」
「そう言ってくれると嬉しいです」
相変わらずひまわりのような笑顔だった。
学校に配達を終えると、村の中を回り、隣の村に行く。余暇は景色を眺めたり、少し遠出したりして過ごした。
この村はいい所だ。
いい所だ。
いい所なのだ。
しかし長い時間を過ごすうちに俺は少しずつ違和感に気がついていった。
「こんにちは運転手さん」
「はい、こんにちは。今日もお届けに参りました」
「ありがとうございます」
いつものように俺たちは言葉を交わす。
「そういえばこの学校の休みはいつからですか?」
「休み……ですか?」
「ええ、あまり暑くありませんが時期的に夏休みが近いのかなと思って」
「夏のお休み?」
それは心底不思議そうな顔だった。夏に休んだことなんてない。そんな人間の顔だ。
もちろん地域によっては夏休みの短い地域もある。特にこの国の気候は温暖なのか、春のままいっこうに熱くなる気配を感じない。
「ああ、この辺りは夏に長期間休んだりしないんですね」
「そうですね。あまり聞いたことがありません」
「俺の故郷には夏の間、学校を休む習慣があったんですよ」
「へぇ、そうなんですね」
この時期には俺の方も自分のことをやんわりではあるが、少しずつ話せるようになってきた。
小学生の頃、どんな友達がいて、どんな学校に通っていたか、何が好きで、何が苦手か。時おり彼女と話が通じない場面もあったのだが、俺と彼女の関係は概ね良好だった。
校庭を見れば、ひょうきんなカバ少年と、クマみたいなやんちゃ小僧がボールで遊んでいる。忙しかった元の生活が嘘みたいな、とても平和な光景だ。
「こんな時間がずっと続けばいいんですけど」
「ええ、そうですね」
同じ方向を見ながら、俺たちは同じ言葉を口にした。
◇
「あら、運転手さん。こんにちは」
「は……はい、こんにちは」
「今日もご苦労さまです」
「え、ええ……」
いつものように俺は先生と挨拶を交わす。
そう、いつものことだ。
この時期になると、さすがにもう違和感は誤魔化しきることが出来なくなっていた。
「今日も……いい天気ですね」
「ええ、そうですね」
この村はいつも天気がいい。雨が降ることなんて滅多にない。
「熱くもないし、過ごしやすいですよね……」
「そうですね。子どもたちも校庭で元気に遊んでいます」
俺は異世界に来てからずっとこの配達の仕事をやっている。もう何十回、少なくとも二百回は優に超える回数、俺はこの学校にパンを配達している。だが未だに夏は来ない。秋も来ない。もちろん冬もだ。
「お……お正月休みとかはあるんですか?」
「お正月? いえ、休みませんよ?……ああ、運転手さんの生まれた所ではお正月は休むんですね」
「え、ええ」
「お休みがとっても多いんですね。いいなぁ、楽しそうで」
「え、ええ……とっても楽しいんです。キャンプに行ったり、スキーに行ったり」
「素敵ですね」
「ええ……素敵なんです」
彼女は休まない。
いや、厳密に言うと休む。週に一回、日曜日にだけ休む。学校が休みだからだ。
彼女は週に一回だけ休む。
機械のように定期的に休むのだ。
もちろんそれは良い事だ。人はどんなに働き者でも、休まなければ潰れてしまう。もちろんその休みを使い、俺は彼女を遊びに誘おうとあちこちを見て回った。そのとき少しずつ違和感が形になって表れ始めたのだ。
「先生の次の休みはいつですか」
「えっと一昨日お休みしたから五日後ですけど……変な運転手さんですね。お休みの日は皆いっしょに決まっているじゃないですか」
「そ、そうですよね」
この村の住人は全員、同じ日に休む。判で押したように全員が同じ生活をする。
「来週の予定は決まっていますか?」
「来週って……同じですよ」
「そうですよね。同じに決まってますよね」
「はい、明日も、明後日も、その次の日も、その次の日も、ずっとずっと同じですよ」
「え……ええ、そうですよ……ね」
「そうですよ。変な運転手さんですね」
出会った時と同じひまわりのような笑顔で彼女は言う。
「こんな時間がずっと続けばいいですよね」
「え……ええ、そう……ですね」
同じ方向を見ながら、俺たちは同じ言葉を口にした。
◇
「運転手さん、こんにちは、いい天気ですね」
「そう……ですね」
校庭を見ればドッジボールだろうか。カバ少年と、クマ少年、ネコ少女に、ウサギ少女、みんながボールで遊んでいる。
それに微かな眩暈を覚えた。
この光景を俺はもう何度見ただろう。
この世界に転移してきて、配達の仕事を始めて随分と経った。五百回くらいまでは朧気なりにも数えていたのだが、恐らくはすでに倍の数までいっているだろう。
この世界には暦というものがない。月も日もない。七日に一度休みがあるのだが曜日はない。カレンダーというものが存在しないのだ。メモリや区切りのない一本の線のように、ただただ同じように時間が流れていく。正月やバレンタインデーはあるようだが、暦があるわけではないので、ある日唐突にイベントの日がやってくる。
それどころか、そもそも時間と言う概念が曖昧なようだった。
彼女は以前『明日も、明後日も、その次の日も、その次の日も、ずっとずっと同じ』だと言ったが、実際には違う。この世界には明日しかない。一週間後も、一か月後も一年後も、存在しない。その代わり明日が永遠に続くのだ。
彼女も、生徒たちも、何も変わらない。新しい生徒が入ってくることもないし、クラスも学年も変わることはない。彼女はいつもと同じカバ少年たちの先生のままだった。
そんな毎日の中で、彼女はひまわりのような笑顔で言った。
「こんな時間がずっと続けばいいんですけよね」
「え……ええ」
もう同じ方向は向いていなかった。