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テスタメント

作者: 浅賀ソルト

テスタメント


駅から自宅のマンションに近づいて行くと、頭痛に似たぼーっとした感覚が強くなる。エントランスどころかその遥か手前のアスファルトの上から足音を消して行く。

革靴のほかに柔らかい靴も持参した方がいいかもしれない。努力しても無音にはならない。

エントランス。エレベーターホール。上昇ボタン。扉が開くポンという音も大きい。

常軌を逸しているが、今では隣人が全神経を集中させて耳をすましていることを確信している。

始めは普通の人だった。挨拶も向こうからしてきた。だが、妻とテレビを見ているときにチャイムが鳴らされてから今日まで、訪問が無いときは壁を叩かれ続けた。

上昇するエレベーターの中で溜め息をつく。ここの音は絶対に聞こえない。

五階に着く前に深呼吸して扉が開くのを待つ。これから潜水をするような気分だが、そういう生存のための積極的な心情は無い。いずれ水面に顔を出すことになり、そうしたら必ずうるさいと言われることになるのだ。それが分かっていて潜らなくてはならない。今の生活はそれしか出来ない。

廊下を歩き、扉の前に立つ。鍵を取り出し、開け、中に入る。鞄を置いたら鍵をかけ、ドアチェーンをはめる。靴は無い。妻はまだ仕事だ。

あまり音は立てなかったつもりだったが、ガタッと隣室の扉を開く音が聞こえた。ICレコーダーの位置を確認しスイッチを入れる。スマホの録音をオンにする前にどたどたと足音が近づいてきてベルが鳴らされた。

いつもスマホは間に合わない。

はーいと返事をしながらスマホの最後の操作をする。懐に入れると準備完了だ。どちらさまですかー?

「隣の樋川です」

声に聞き慣れたトーンを感じ取る。お前のせいで落ち着けないと言いたげな、自分が被害者であるという自信に満ちた迷惑そうな声だ。

これを聞くと比喩ではなく胃が痛くなる。

「はい?」

「ドア閉める音ですけどね。もうちょっと静かにしてもらえませんか? おたくだけが住んでるわけじゃないんですから」

ドア越しの声だがよく通る。

「はい。分かりました」すいません、まで初期には言っていたのだが、すいませんという言葉は地雷らしく、最近は言わないようにしている。

「いっつも口だけだな!」

これには、はい、も言わない。「……」

「いい加減にしろよ。迷惑ばっかりかけやがって」

隣人はドアを蹴ったりはしない。わざとらしくどすどすと自室に戻り、自分のところのドアをバーンと閉める。

安い金属音が響いた。

お前の方がうるせえと言ってくれた住人はもうとっくに引っ越してしまった。

レコーダー二つのスイッチを切り、しばらく息を止め、それから慎重に深呼吸した。

録音はしたけど、聞き直す元気はいつも無い。

住宅ローンは神聖な契約だが、自分に選択の余地は無いなと思った。


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