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八月二十二日────私の十六回目の誕生日。
真夏の午後の強烈な日射しが降り注ぐ中、私は迎えに来てくれた運転手さん付きの車の後部座席に座り、初めてお邪魔する秋本会長のお宅へと向かっていた。
あのものすごいマンションに魂を喰い尽くされた翌日の午前中。私は会長から、電話で一つのお誘いを受けた。今週末の二十二日、うちへ夕食に来ないか、と。
「実はね、私の妻が君に会いたがっているんだ」
「奥様が、ですか?」
秋本会長の奥様。これまでただの一度も話題に上ったことすらない。そんな人がどうして私なんかに?
「妻も君のご両親と仲が良かったんだよ。以前、四人で飲みに行ったこともある」
「へえ、そうだったんですか」
「それで君のことを話したら、学校が始まる前にぜひ一度遊びに来てくれ、って。夏希ちゃん、今度の土曜日は君の誕生日だろう? 一人で過ごすのもつまらないんじゃないかと思ってね」
またまた爆弾を落とす。まあ考えてみれば────援助に当たっては私のこともいろいろと調べたんだろうから、誕生日くらい知ってても不思議はないけど。
「……ご存じだったんですか、私の誕生日」
「ああ、もちろん。ケーキとプレゼントも用意するから、もし他に予定がなければぜひ来て欲しい。どうかな?」
「ちょ、ちょっと会長。もうこれ以上、プレゼントは結構です! このマンションと洋服の山を見ただけで私、死にそうになってるんですから!」
私の慌てた声に、彼は電話の向こうで朗らかに笑う。
「まあそう言わないで。私も楽しいんだ。何しろうちの息子たちはもう、親からのプレゼントなんか見向きもしないからな。男の子はつまらないよ」
────もしかして私、会長の娘ポジション?
「ついでに息子にも紹介しよう。秋からは一応、君の先輩になるわけだからね」
「…………」
ついにこの時が来たか。
攻略対象その1、秋本和樹。去年の授業ノートを貸してくれた人だ。
いつまでも避けて通れるものではない。会長の言う通り、秋になればおそらく、学校でバッタリ顔を合わせることもあるだろう。それを考えればまだ、事前に心の準備ができる今のうちに会っておいた方がいいんじゃないだろうか。それにノートのお礼だって言わなくちゃいけないし。
「判りました、ではお伺いいたします。ご招待頂きましてありがとうございます」
「そうか、良かった。では早速妻に伝えておくよ、それと息子にもね。それから、上の息子の方は仕事で家にいないから、変な気兼ねはいらないよ」
「上って、貴史さん? ああ────そういえば私、あの人に謝らなきゃ」
あの最初の日、こっちの誤解で怒鳴りまくって病室から叩き出し、結局そのまま一度も会っていない。きっと気を悪くしてるんだろうな。
「気にすることはない。あれはあいつの方が悪かったんだから」
「そんなことありません。ごめんなさい、って伝えておいて頂けますか?」
「判ったよ。それじゃ土曜日に。待ってるからね」
「はい、私も楽しみにしています」
そんなわけで────今日のお出かけと相成った次第。
お迎えに来てくれた運転手さんは、以前教科書を病室に届けてくれた人だった。あの時のお礼も込めて、丁寧に挨拶を交わしてから車に乗り込む。黒塗りの高級車は、すぐに滑るように走り出した。
車窓から見える辺りの風景は、東京都心とは思えないほど緑が多い。もっとも、私のような田舎者が知らなかっただけで、御所や大使館などが並ぶこの辺りでは、こういった光景が珍しくないのかも知れない。
自宅マンションから車で走ること約十五分。私はこれまた、東京のど真ん中とはとても思えないほどの大邸宅の前で車から降ろされた。
「夏希さん、いらっしゃい。身体の方は大丈夫かい?」
「はい。おかげさまで、リハビリにもだいぶ慣れてきましたから。今日はわざわざお迎えの方に来て頂きまして、ありがとうございました」
立派な玄関を入り、出迎えてくれた執事さん(でいいのだろうか?)に案内されてついて行くと、呆れるほど広々としたリビングルームで秋本会長が待っていた。すぐ横に、ほっそりしたすごい美人が並んでいる。
「紹介するよ、妻の冴子だ。冴子、こちらが八木沢夏希さん」
「初めまして、八木沢夏希です。本日はお招き頂きましてありがとうございます」
緊張しながら頭を下げる。初めてお目にかかる上流階級のご婦人だ。下手なことして、初っ端から嫌われたら目も当てられない。
「まあ、あなたが夏希さんなの。よく来て下さったわねえ、嬉しいわ。まあまあ、本当に真奈美さんそっくり! 懐かしいこと」
「言った通りだろう? 浩行さんにもどことなく似ている」
「本当にね。美男美女のご夫婦でしたもの、お嬢さんが可愛らしいのも当然だわ」
ちなみに浩行さん、真奈美さんというのは私の父と母のことだ。どうやらマジでこのお二人は、うちの両親のお友達だったらしい。
しっかし────この二人から『美男美女』なんて言われたら、父も母も今頃、お墓の下で感涙に噎んでいるんじゃないだろうか。母は確かに美人だったが、この奥様ほどではない。父だってどちらかと言えば、お茶目な三枚目キャラだ。
「このたびはとんだことで、お詫びの申し上げようもないわ。夏希さんもさぞお力を落としたことでしょうね。本当に何と言えばよろしいのか」
「いえ、どうぞお気遣いなく。最初は辛かったですけど、何とか立ち直れました。何もかも、秋本会長のおかげです」
「そう? でもまだ高校生だというのに、一人暮らしだなんてお淋しいでしょう。話し相手が欲しい時は、いつでもうちにいらしてね。大歓迎よ」
「はい。お心遣いありがとうございます、奥様」
無難に初対面の挨拶をこなし、私たちはそのまま、三人で居間のソファに座ってしばらくの間雑談に耽った。話題は主に私の近況と、両親の思い出話。ちょっと前だったら私もまだ辛かっただろうが、最近では徐々に慣れてきたのか、父母の話が出てもさほど悲しい気持ちにはならない。むしろ、生前の二人を知っていた彼らにいろいろなことを聞かされると、両親に対する懐かしさの方が強く感じられる。
「一度だけだけれど、主人と一緒にお二人とお酒を飲みに行ったことがあるのよ。あの時は本当に楽しかったわ」
奥様が思い出し笑いをしながらそんなことを言う。先日、お誘いの電話で会長が言ってた話だろうか。いったいどんなお店に行ったんだろう。両親もこのお二人と一緒では、まさかいつものように大衆居酒屋というわけにも行くまい。
────と思ったのだけど。
「ああ、ああいう店は初めてだったからね。賑やかで楽しかった」
「一気飲み、でしたかしら。お隣にいた学生さんたちがそんなことをやっていらしてね。話には聞いていましたけど、わたくしも実際に見たのは初めてで」
「料理も旨かったな。小さな皿で次々と何品も出てきて、目移りしそうだった」
「そうそう。何でしたっけ、アタリメ? ゲソ焼き? 名前がまた面白くて。店員さんたちも皆さん陽気で、わたくしのことをチヤホヤして下さるし。お店にいる間じゅう、ずうっと笑いっぱなしでしたのよ」
「…………」
────お父さん。マジでこのお二人を、そこらの居酒屋に連れてったわけ!?
あっぱれ、我が父よ。私が知らないと思って、いったい何をやってるんだ。
私は内心で盛大に頭を抱えた。それにしても────あの両親と、秋本ご夫妻。共通点なんかカケラもなさそうなのに、それほど仲が良かったとは。両親の口から彼らの話を聞いたことなんてまったくなかったし、私もそんなことは想像だにしなかった。人間の縁って不思議だ。
こう言っちゃ何だけど、八木沢家の中では私が一番の常識人だったと思う。父も母もとにかく自由奔放で、好きな事には寝食を忘れて熱中するし、たまにやらかす夫婦喧嘩はド派手だし。はっきり言って、あれは単なる大きな子供だ。
「お二人ともお仕事が忙しかったのでしょ? 夏希さんは淋しくなかったの?」
「いいえ、全然。とにかく嵐のような人たちでしたから、たまに早く帰って来るとうるさいくらいで。普通に毎日家にいられたら、私の方が参ってたと思います」
苦笑しながらそう言うと、奥様はその美しい瞳を大きく見開いた。
「まあ、そうなの。何だか楽しそうね」
「ええ、すごく楽しかったですよ。夜遅く帰ってきて、私が作っておいた晩ご飯を食べるんですけど、それがもう毎晩宴会みたいなんです。私が勉強中でもおかまいなしで、もう一回一緒に食べようって誘って来ますし。まあ何を作っても美味しい美味しいってペロッと食べてくれますから、その点だけは手がかからなくて助かりましたけど」
「夏希ちゃん、『手がかからない』って……それ、普通親が子供に対して言う言葉なんじゃないか? 手がかからないご両親、っていうのは私も初めて聞いたな」
会長が可笑しそうに笑い出す。確かに、言われてみればその通りだが、ことあの二人に関してはまったく違和感のない表現だったと思う。
「愉快な両親でしたけど、私が悩んでる時なんかは、たまに本当にいいことを言うんです。『自立できない者に本物の愛は育めない』とか、『真の友達は恋人なんかよりずっと貴重なものなのよ』とか」
「へえ……それは確かに人生の真理だな。いい言葉だ」
「ええ。二人とも、自分の大好きなことをとことん追求して生きていましたから、きっと私にもそうして欲しかったんでしょうね。親子や夫婦って言うよりも、友達みたいな家族でした」
「そうか。羨ましいなあ……」
一瞬、広い居間の中が静まり返る。三人が三様に故人へ思いを馳せ、過ぎ去った日々をそれぞれの胸の中で回想する。人が生きるってこういうことなんだ。死してなお、誰かの心に強く残ることこそが、その人の生きた証なのかも知れない。
「どうしたの? シーンとしちゃって」
唐突に居間の入り口付近から響いた声。とっさに振り向くと、ひとりの男の子が不思議そうな顔でこちらを眺めている。
「和樹。帰ったのか」
「ああ、ただいま。間に合ったかな?」
それだけ言うと、少年はスタスタと居間の中に入ってきた。まっすぐにこちらへ向かってくる。私は会長と共に立ち上がって彼を迎えた。
「和樹、紹介しよう。八木沢夏希さんだ」
「初めまして、八木沢です。先日は貴重な授業ノートをお貸し頂きまして、どうもありがとうございました」
とりあえずは丁寧にお礼を言う。頭を上げた瞬間、こちらを見つめる彼と一瞬、視線が交錯した。
────この人が。
今まではずっと『攻略対象その1』とばかり考えていたが、彼にもちゃんとした名前がある。秋本和樹。生きた一人の人間だ。
「ああ、君が八木沢さんか。初めまして、秋本和樹です。どうぞよろしく」
微笑んで右手を差し出す。それを握り返しながら、私は改めて彼を観察した。
確かに美形だ。それもいわゆる、正統派のイケメン。
身長はたぶん百七十センチちょっとだろう。引き締まった細身で、無駄な贅肉はまったく見当たらない。すっきりと整えた髪に、程よく日焼けした健康そうな顔。整った目鼻立ちは、お兄さんの貴史さん以上に父親によく似ていた。冴子奥さまの美貌が加味されたのか、どことはない愛嬌もあるようだ。貴史さんのような冷たい雰囲気とは無縁の快活そうな少年。
「夕食はまだみたいだね。どうやら間に合ったか」
「お前を待っていたんだよ。それまで、お母さんと三人で話していたところだ」
「兄さんは?」
「言っただろう、今日は仕事で大阪に行ってる。夕食は四人だけだ」
「ああ、そういえばそんなことを言ってたっけ」
彼はそう言うと、私に視線を移した。目が可笑しそうに笑っている。
「君、病院で兄さんと大喧嘩したんだって?」
「!」
「ギプスを二つも付けて、身動きできない状態でたいしたもんだ。感心したよ」
「おい、和樹」
秋本会長が苦い表情で口を挟む。
「失礼なことを言うんじゃない。あれはこちらの落ち度なのだから」
「ああ、そうだったね。ごめんごめん」
何だろう。愛想はいいのに、この居心地の悪い感覚は。何となく皮肉で冷笑的な感じがするのは、私の気のせいだろうか。
「いえ、あれは私も悪かったですから。どうかもう仰らないで下さい」
どちらへともなく告げる。どうにも落ち着かない気分だ。
「それじゃあ、こいつも帰って来たことだし………夏希さん、ちょっと早いけど、そろそろ夕食にしようか」
「はい」
会長の言葉で、四人揃ってダイニングルームへ移動する。幅の広い、まるで宮殿のように立派な廊下を歩いていた時、ふいに横にいる和樹さんが、聞こえるか聞こえないかというほどの小声で話しかけてきた。
「夏希さん、だっけ。君って変わってるね」
「……はい?」
「僕のこと、何となく警戒してるでしょう。ものすごく冷静な目で、まるで分析官にでも観察されてるような気がした」
「…………」
「初対面の女の子から、あんな目で見られたのって初めてだよ。何だか面白いな」
「それは大変失礼しました、秋本先輩」
何となくカチンと来たので他人行儀な口調でそう言ってやると、彼は一瞬ポカンとした後、やおら可笑しそうに笑い出した。
「『先輩』はやめてくれよ。和樹って呼んでくれないかな」
「いえ、秋からはたぶん、学校の先輩になるはずですから。『秋本先輩』で間違いありません」
すぐ前を行く彼のご両親の背中を見ながら、私は和樹さんに向かってはっきりとそう言い放った。