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────私立星城学園。
思い出してしまった。こんなこと、思い出したくなんかなかったのに。
星城学園。秋本聡一郎。そして何を隠そう、『八木沢夏希』という私の名前。
それは私にとって、短かった生涯でただ一度だけプレイさせられた、あるゲームの中に出てくる重要なキーワードだった。
前世で私の親友だった泉田莉子。彼女は明るく愛くるしい、女の子中の女の子といった感じの少女だった。男みたいな私とはまるっきり正反対。それでよくもあれだけ仲良くなれたものだと、今さらながら不思議な思いがする。
その彼女から、まるで押しつけるように渡されたゲーム。それはいわゆる『乙女ゲーム』と呼ばれる、私に言わせれば珍妙この上ない代物だった。
「ねえアネゴ、このゲームやってみなさいよ。少しは恋の楽しさが解るから」
「恋ィ? そんなもん興味ないよ。そんなことより、今度の試合のデータ……」
「だからぁ、それがダメなんだってば! あんたまるで、野球部の連中の奴隷じゃないの。あいつら、あんたのことはまるっきり女の子だと思ってないんでしょ?」
「いいじゃん、それで。何か問題あるか?」
「大ありよ! いい? あんたは立派な女子高生。なのに、彼氏いない歴何年だと思ってるのよ。私たち来年はもう大学生なのよ。少しは自覚しなさい!」
「なんだよぉ! この私に色気付け、って言いたいのか? 莉子は」
「そうよ。いいからとにかく、試しにやってご覧なさいって。案外ハマるかもよ」
「えーっ、やだ、めんどくさい。私ゲームなんてやったことないし」
「大丈夫、やり方教えるから。ほら、ここ押して、こうして、こうやって……」
「うーっ、莉子のおせっかい!」
思い出すだけで笑ってしまいそうな、バカバカしいやり取り。彼女はとにかく、男っ気皆無の私に、何とかして恋の楽しさを教えたかったのだろう。それで選んだ秘策が乙女ゲーム、というあたりがいかにも莉子らしい。案の定、二人して休日をまる一日プレイに費やした後も、私はただただ疲労しか感じなかった。
だいたい何なんだ、あの『ゲーム』というヤツは。ステータスだの好感度だの、そんな訳のわからん数字で恋愛が計れてたまるもんか。それに『フラグ』ってのはいったい何だ。『攻略対象』とやらもやたらとキラキラしてるだけで、薄っぺらいことこの上ない。現実の世界にあんな王子様みたいな男がいたら、まず間違いなく芸能プロダクションのスカウトが放っておかないだろう。しかも、ひとつの学校に三人も四人も。そんな美味しい話が、そんじょそこらに転がっているわけがない。二次元は二次元だからこそ、夢も華もあるのだ。
過去の記憶を信じるならば、前世の私は今以上に男っ気がなく、恋愛にも興味がなかったらしい。今の私はあそこまで男らしい性格じゃないけど、こと恋愛に関しては似たようなものだ。だからだろうか。あれだけ長い間別人の記憶に悩まされてきたというのに、莉子に押しつけられたあのゲームのことだけは、それこそプレイしたこと自体をまるっと忘れていた。それが今日、秋本会長から告げられた学校の名前を耳にした瞬間、記憶にある限りのすべてを思い出したのだ。
それは、いま考えてもあり得ないほど都合の良すぎる、他愛ない内容だった。
一般人のヒロインが、お金持ちばかりが集うとある高校に編入し、そこで四人の名家令息と恋愛を楽しむ。当然のことながら、攻略対象者たちは全員が、タイプも性格も違うイケメン。そのうちの一人を選んで恋をするも良し、全員と逆ハーレムを築くも良し。莉子曰く、「あんたにも理解できるように、ものすごい初心者向けのやつを選んだから」との言葉通り、攻略対象の数も少なければ隠しキャラもおらず、ライバルキャラが幕切れで死亡することもない。ゲームの期間は約一年。秋、ヒロインの学園編入から始まって、ちょうど一年後の夏まで。八月生まれの彼女の誕生日パーティーにて大団円を迎える。
……とまあ、そのあたりまでは覚えているのだ、確かに。しかしながらそれ以上の詳しい設定となると……正直なところ、まるで記憶にない。
ただし、莉子にしつこく『全ルート』とやらをやらされたから、登場する名前に関してだけは、ひと通り思い出すことができた。
それが今、私にとっては大問題なのだが。
ゲームの舞台となる高校は『私立星城学園』。
両親の死後、ヒロインを引き取ってそこへ編入させた人物が『秋本聡一郎』。
そして、そのヒロインの名前こそ……恐ろしいことに『八木沢夏希』という。
────乙女ゲームのヒロイン? この私が!?
ウソだろ?
秋本会長が帰った後、私は疲れたからと看護師さんに断りベッドに横になった。
日はまだ高い。私は眠れないまま、明らかになった衝撃の事実について、ひとりつらつらと思いを巡らせる。
どこまで信じていいんだろう。ここは本当に、あのゲームの世界なんだろうか。
そして私は、本当にゲーム世界の中へと転生してしまったのだろうか?
もしも今、私が会長の言葉に従ってあの星城学園に編入したら、そこでいったい何が起きるのか。攻略対象────しかもそのうちの一人は、すでに正体が割れている────なんぞという二次元顔の男どもが本当に実在するのか。コワ〜イ悪役令嬢に、私はガチでいじめられてしまうのか。やだ。そんなの耐えられない。
何よりまず、私自身にゲームみたいな恋愛に対する憧れがない。そんなヒロインがその存在を許されるものなのか。何らかの強制力によって、そこへ足を踏み入れたとたん、私の存在自体が抹殺されてしまうのではないだろうか?
バカらしいとは思う。こんなことを考えること自体。
だがそれでも────自らの存在の危機、という可能性がほんのカケラほどでもある以上、まるっきり無視することはできないのだ。
あの大事故で、せっかく奇蹟的に生き残ったというのに、こんなバカげたことで死ぬなんてそれこそ冗談じゃない。
ああ、本当にどうしたらいいんだろう────。
週末。
確か今日は、秋本会長が東京へ帰る予定の日だ。まさか私のためばかりではないのだろうが、多忙なあの人を五日間もの長きに渡って、こんな田舎(と言うほどの僻地でもないが)に足止めしてしまった。申し訳ない。
おそらく帰る前に、彼はもう一度ここへやって来るだろう。私の返事を聞きに。
はっきり言って、とても憂鬱だ。
いや、あのステキなおじさまに会えること自体は素直に嬉しいのだが、彼の提案にどう答えるべきなのか、未だ心が定まらない。
できれば断りたい。転院治療だけならいいけど、星城学園の方は。
だけど────断ったら彼がどんなにがっかりするかと思うと、何と言って断ればいいのか、どうしても決められないのだ。
鬱々と悩む間にも時間は容赦なく過ぎ、お昼近くになって再び会長が現れた。
今日のお土産は、ホテルの高級お惣菜とサンドイッチ。お昼を私と一緒に食べたかったらしい。先日のケーキで味をしめた看護師さんたちが彼の手荷物を虎視眈々と狙っているが、今日は会長もあまり時間がないらしく、包みのサイズは二人分の小さなものだけ。病室の扉を閉めて持参のお弁当を広げると、彼はそれを口に運びながら早速本題に入った。
「それで夏希さん、どうかな。結論は出た?」
「はい。せっかくのご厚意ですが、やはり東京行きは辞退させて頂こうかと」
恐る恐る、顔色を伺いながら話す私に、秋本会長は穏やかな表情で頷く。
「そうか。いや、別にそんな申し訳なさそうな顔をしなくたっていいよ。でも……それはやはり、お友達のことが理由なのかな」
「いえ、それも大きいんですけど………まあいろいろと思うところがありまして、東京へ行くこと自体に踏み切れなかった、というのが一番の理由です」
結局最後まで、どう言って説明すればいいのかわからなかった。まさか、「乙女ゲームに巻き込まれたくないから行きません」とは口が裂けても言えないし。
サンドイッチを上品に頬張る会長は、特に気分を害したようでもない。だがその顔に安心していた私に、彼は最後の最後で特大の爆弾を落としてくれた。
「夏希さん。悩ませてしまった後でこんなことを知らせるのは本当に申し訳ないんだが、どうやらこちらの高校には────少なくとも今年は、君は通えないみたいなんだよ」
「は? どうしてですか!?」
「あのあと、君が合格した高校へ行って、校長に面会して訊いてみたんだけどね。二学期からだとどうしても、出席日数が足りないらしいんだ」
「!」
忘れていた。年間何日以上休むと進級できないとか、確かそんな規則が中学にもあったっけ。この病院にいる間は、とにかく早く治して学校へ行くことしか考えてなかったから、そんなのに引っかかる可能性なんて欠片も思い浮かばなかった。
「これがたとえば、一年の途中から休んだ、とかいう事情であれば、学校側も君の成績の良さなどから多少は考慮の余地もあるんだろうけど、何しろいきなり入学式から欠席だったからね。────じゃあどうするかと言うと、今年一年は休んで、来年春に一年生からやり直す、という選択肢しかないらしい。つまり……」
「事実上の留年、ですか」
「……そういうことだね」
特大の溜息が漏れる。一年生のやり直し。つまりは、ひとつ歳下の後輩たちに混じって勉強し直せ、ということなんだろう。
「もちろん、君は今年度、正規の入試に合格して入学そのものは許可されている。それも、非常に優秀な成績だったそうだ。私は君の親族ではないからはっきりした順位までは教えてもらえなかったが、あの様子ではおそらく、十位以内には確実に入っていたんだと思うよ」
「それもあまり慰めにはなりませんね、この状況では」
「そうだね。校長先生も、君を他校に取られることは、とても残念がっていたよ。そうは言っても、一年まるまる棒に振るのは君のためにもならない。君の実力ならこれから夏休み一杯頑張れば、一学期分くらいの内容はゆうにカバーできるだろうから、もし受け入れてくれる学校があるなら転籍した方がいい、と仰っていた」
「そりゃそうですね。だとするとやっぱり……」
「うん。辛いだろうけど、この状況では私の提案が一番、現実味があると思う」
「…………」
その通りだった。それ以外には道がないのだ、今となっては。
乙女ゲームも何もない。選択肢自体が消えてしまった。
その時点で、私はついに覚悟を決めた。
「判りました。では改めて────どうぞよろしくお願いいたします」
できる限り背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる。その瞬間、秋本会長はパッと嬉しそうな笑顔になった。
「ああ、判った。すべて私に任せてくれ。手続きは何もかもこちらでやるし、こうなったらなるべく早く東京の病院に転院した方がいい。準備ができ次第、こちらに知らせを送るから」
「はい。それにしても東京かあ……特急で二時間くらいでしたっけ」
この身体で果たして、電車で二時間もの距離を自力で移動することができるんだろうか。かなりしんどい思いをしそう。
だが会長は、それを聞くと可笑しそうに軽く笑った。
「何を言ってる。もちろん、こちらから迎えをよこすよ。君はただ、ここの荷物をまとめておくだけでいい。会いたい人にも連絡して、お別れをしておくようにね。こっちの自宅の荷物は別便で送るよう手配するから、心配いらないよ」
────迎え? もしかして、高級リムジンかなんかが来てくれるの!?
ああ、考えただけでワクワクする!
そんな期待に胸ときめかせていた私のもとへ、とんでもない「お迎え」が着いたと連絡が入ったのは、それから僅か十日後のことだった。