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「……結局、お前たちの推測が大筋で当たってた、ってことだな」
その日の放課後。会談の様子を報告するため一階の職員室へ向かった私たち六人に、高杉先生は自分の席に座ったまま仏頂面でそう言った。いつもの先生らしくもなく何やら疲れたような表情で、私の報告を聞いても笑顔すら浮かべない。
「先生、それじゃ……」
「ああ、白状したよ。二人ともな」
「…………」
「あのビラを作ったのは池尻。それを指示したのは篠塚、で間違いない。それと、余罪もいくつか吐いた。ノートを盗んだ件と、ゴキブリ騒ぎは池尻の仕業だ。あの野郎、クラスの女子を誑かして女子更衣室に入り込みやがったらしい」
「そうですか……」
覚悟はしていたものの、改めて聞くと感慨深いものがある。むろん、犯人二人が捕まったことは嬉しいが、あそこまでやるほど自分が憎まれていた、と考えると、決して気持ちのいいものではない。
「篠塚が取り乱して大変だったぞ。校長室で泣くわ喚くわ、あれだからヒステリーお嬢様ってのは苦手なんだ」
それでこんなに疲れた顔をしているのか。仲間たちも、特に男の子たちは先生の気分が良く解るのか、苦虫を噛み潰したような顔で黙って聞いている。
「それにしても、二人ともよく素直に白状しましたね。しらを切ることだってできたでしょうに」
「いや、それは無理だろう。あのタイミングだからな。篠塚の方はもう、校長室に入って来た時には『自分がやりました』って言ってるような顔だったぞ」
またしてもチームワークの勝利。ビラの一件のみを根拠に、ほぼ状況証拠の積み重ねだけで相手を追い詰めようとした私たちには、実のところタイミングが最大の鍵だったのだ。香奈子の携帯から通報を受けた瞬間、放送室のブースで待ち構えていた未緒と先生があの放送を流し、結果としてそれが二人の自白を引き出すことに繋がったのだという。
「もっとも、池尻に認めさせるのは少々骨が折れたがな。あいつどうやら、昔から篠塚のことが好きだったらしい。憧れの従姉に取り入るために、自分の方からあのビラの案を持ち出したようだ。そのへんを突っついたら、二人して言い争いを始めちまってな、しまいにはあたり構わず痴話喧嘩よ。ちょっとした修羅場だったぞ」
「うわ……」
その様子を想像し、皆が一斉にしょっぱい顔になる。一つ歳上の従姉を慕う池尻君の気持ちを利用して、あんな悪事に引きずり込んだというのか。どっちもどっちとはいうものの、打算に満ちた二人の関係の末路がこれだとしたら……まさに憐れとしか言いようがない。
「それで、先生。彼らの処分はどうなるんですか?」
穏やかに尋ねた委員長の言葉で、私はハッとなった。犯人を捕まえるところまでしか考えていなかった私は、その先に関してはまるで頭になかったのだ。
「ああ。一応、職員会議にかけることにはなるだろうけどな。おそらくは二人とも退学処分、良くても強制転校、ってところだろう」
「!」
全員が息を呑む。いくら何でも厳しすぎるんじゃない?
「……ずいぶん厳しいですね。彼らの実家からクレームが来ませんか?」
委員長が恐る恐る尋ねる。高杉先生は私たちをチラリと見ると、難しい顔で首を横に振った。
「そんなもん、来たところで処分が撤回されることはねえよ。お前らはどう思ってるんだか知らないが、うちの教師陣はそんな弱腰じゃないぞ。一般生も名家組も、不祥事を起こせば平等に処分されるんだ。しかも今回は、校則で明確に禁止されている『個人情報の不正流出』、および『他の生徒に対する誹謗中傷』の両方に該当する。中傷はともかく、情報漏洩に関しては、有無を言わさず一発退学の対象事例だからな」
一発退学。確かに、情報管理に神経質なセレブ校特有の校則があったな。
「でも、流出っていっても校内だけでしょ? それでも退学なんですか?」
「おい、八木沢。お前どっちの味方なんだ。まあ……ビラを撒いたのは確かに校内だが、紙媒体に印刷してバラ撒いた時点で、どこから学校外に漏れるか判らない。ネットに流出する危険もある。立派に処罰対象なんだよ」
「…………」
「加えて窃盗や器物破損、池尻は女子更衣室への不法侵入の件もあるからな。机や下駄箱の落書きだけなら、単なる厳重注意で済んだんだろうが……あれに関しては結局、実行犯を特定できなかった。おそらく、取り巻きの女子生徒たちが何人かでやったことだろう」
殴り込み直後の最初の嫌がらせだったから。たぶんそのまま、怒りに任せて皆でやりたい放題やったに違いない。
「まあとにかく、これでイジメ事件は一段落だ。あとは、今日の話を受けて鷺宮がどう出るか、だな」
「ええ。素直に認めて、謝ってくれればいいんですけど」
今の遥香嬢の心境を考えると、それはあまりに楽観的すぎる気がする。あれだけの騒ぎを、同級生を始め学年中の人たちに見られたのだ。そういった事態を避けるために談話室を予約したのだが……この上篠塚先輩が退学にでもなれば、遥香嬢の立場だってどうなるか判らない。私への謝罪まで頭が回るかどうか。
「正式な処分が決まるまで、篠塚と池尻は当分停学、自宅謹慎ということになる。鷺宮も無傷では済まないかもな。八木沢、まだしばらくは気を抜くなよ」
「はい、判っています。こっちはもう、遥香嬢のリアクションを待つしか手がありませんから」
結局────今日私がやったことは、これまでは水面下に潜んでいた諸々の膿を白日の下に晒しただけだ。遥香嬢からの謝罪も、今後の安全の保証も、未だ何一つ勝ち取ってはいない。これで丸く収まるとは誰も思っていないだろう。
ボールは投げた。あとは彼女がそれをどう打ち返して来るか、だ。
「とりあえず、もう二週間経てば二年生は修学旅行だ。それまでに何らかの答えが出るといいんだがな」
「……ええ」
自分が引き起こしたこととはいえ、こんな状態で修学旅行に出かけることになる二年生のことを考えると、いささか気が重くなる。多くの人が楽しみにしていたであろう高校生活の一大イベントを、私が台無しにしていなければいいんだけど。
改めて高杉先生にお礼を言い、私たちは職員室を辞した。いつものように未緒と飛島君に送られて、そのまま家路につく。
「なんか……今まで以上に展開が読めなくなっちゃったわね。私、方法を間違えたかしら」
「そんなことはないよ。あれが夏希のやり方だろう?」
飛島君が慰めるように言う。確かに『直談判』は私らしい手なんだけど、それで状況をさらに悪化させては意味がない。
「飛島君。あの場できっちり、謝罪まで要求すべきだったと思う?」
「いや、そうは思わないな。鷺宮さんには寝耳に水の話ばかりだっただろうから、あの場で即座に謝れと言われてもたぶん無理だ。彼女にも考える時間が必要だったと思う。口先だけの謝罪を貰っても、夏希にとっては意味がないだろ?」
「……そうなのよね」
謝るなら、ちゃんと自分たちの非を認めて謝ってくれないと。そうでなければ、今日私がやったこともすべて無駄になってしまう。
「それにしても……ちょっと驚いたよ」
「何が?」
小さく苦笑した飛島君に怪訝な思いで問いかけると、彼は一瞬、私の顔を眺めて口を開いた。
「あの最後の話。まさかあの場で、夏希があんなことを言うとはね」
「ああ……あれか」
我知らず苦笑が漏れる。彼に言われるまでもなく、私自身が一番驚いてるわ。
「何の話?」
「いや、夏希がね。大勢が決した後で遥香嬢に言ったんだ。取り巻きの中に、本当の友達が何人いるかよく考えろ、って」
その場にいなかった未緒の問いに、飛島君があの時のやり取りを簡単に説明してくれた。私は苦笑いしながら、それを黙って聞いているしかない。
「へえ……夏希、そんなこと言ったの」
「うん。遥香嬢と面と向かって話してみて、なんとなく解っちゃったのよ。彼女、明らかにあの連中から利用されてるわ」
立場上は派閥のボスかも知れないけど、実態はおそらく違う。口下手で気の弱いお姫様を、周りの連中がいいように操ってるだけなんだ。桜庭先輩のことだって、遥香嬢の面目を守るというよりも……むしろ、憧れの王子が私ごときに熱を上げているのが許せない、という気持ちの方が大きかったんだろう。
「なるほどね。その鬱憤を晴らすために、遥香嬢をダシに使ったってこと?」
「言葉は悪いけど、そんなようなものね。彼女を前面に押し立てれば、『正義』の名の下に動けるわけだから」
未緒はそれを聞くと、思いっきり顔を顰めた。
「ああ、やだやだ! どこまでやり方が汚いんだか」
「名家の令嬢なんてそんなもんなんじゃないの? 花房先輩や由香里さんみたいな人の方が例外なのよ、きっと」
社交界の人間は、子供といえどもずる賢い。かつて秋本会長から言われた言葉が耳に甦った。そんな中、数少ない例外と知り合えた幸運を、今はただ感謝するしかないのだろう。
「だけど、修学旅行がこんな時期にあるなんて知らなかったわ。二週間後ってことは、生徒会役員選挙の直後でしょ?」
高杉先生の言葉を思い出してそう言うと、未緒が頷いて説明してくれる。
「三年になると完全に受験生だからね。二年のうちに済ませておくには、季節との兼ね合いもあるし、今の時期しかないのよ」
「そうなんだ。どこ行くのかな、京都? 沖縄?」
「何言ってるの、夏希。海外よ、決まってるじゃない」
「へ? 高校の修学旅行で外国行くの!?」
素っ頓狂な声を上げたら、二人に思いっきり笑われた。
「ここをどこだと思ってるの? 天下のセレブ校、星城学園よ。国内なんて、初めから選択肢に入ってないわよ」
「……そういうもんなのか」
どうせ私はバリバリの庶民ですよ。修学旅行っていったら京都、くらいの陳腐な発想しかない凡人ですとも。
「今年は確か、ヨーロッパだって聞いたわ。定番よね」
「十一月のヨーロッパなんて寒くないのかな。風邪ひきそう」
今度は、横で黙って聞いていた飛島君が笑い出す。もう……田舎者だと思って、みんなしてバカにして!
「だからヨーロッパでも南の方に行くそうだよ。イタリアや南仏を回るって話だ」
「ふーん。毎年、行き先が変わるの?」
「ああ。主に南欧かオーストラリア、どっちからしいけどね」
飛島君の話によると、二年の初めに学年でアンケートを取り、どちらに行くかを決めるとのこと。私は断然、オーストラリア派だ。
「へえ、そうなのか。どうして?」
「ひつじの大群が見たいの! あと、タスマニアのウォンバットも」
「……なるほど。夏希はモフモフが好きだからなあ」
そうなのだ。自慢じゃないが、丸っこくてモコモコしたものにはめっぽう弱い。いい歳こいて、ベッドの上は未だにぬいぐるみだらけである。
「そういうとこ、夏希も可愛いよねえ。遥香嬢が知ったらどう思うかな?」
未緒がクスクス笑いながら言う。確かに……敵さんには絶対、見られるわけにはいかない姿かも知れない。
その夜、夕食を食べながら、私はめぐみさんに今日の顛末をすべて話した。彼女はもはや、うちのグループの学外メンバーみたいなものである。これまでの経緯はそもそもの発端からすべて知ってるし、遥香嬢との直接対決についても、実の母親同様に心配してくれていたのだ。とりあえず、こちらの言い分はすべて言った、と聞くと、ホッとしたような顔で微笑む。
「では、これ以上の嫌がらせはなくなると考えていいのですね?」
「ええ、おそらくね。あれだけ派手に主犯を槍玉に上げたわけだから、いくらあの連中でも、今までのようなことはもうできないと思うわ」
明日の朝には、池尻君と小百合嬢の停学が学校中に知れ渡るだろう。見せしめの意味もあるのか、本館とクラス棟の掲示板にデカデカと名前が貼り出され、学園の公開データベースにも記録を残されるのが通例だということだ。
「あの二人、たぶんもう学校には戻って来られないでしょうね。名家の令嬢令息としては、立場も面目もあったもんじゃないわ。退学か転校か───いずれにせよ、憐れな話よね」
「自業自得ですよ。夏希さんたちにあんなひどいことをしたのですから」
最初のビラ事件以降、相当なご立腹だっためぐみさんは、ようやく溜飲を下げたような顔で喜んでいる。こういう時、ヘンに大人の分別を振りかざさないところも彼女のステキな一面だ。
「でも、肝心の親玉はどうなのですか? いくら知らなかったと言っても、それで通るものではないでしょうに」
『親玉』とはむろん、遥香嬢のことだろう。彼女を含め、嫌がらせに手を貸していたと思われる取り巻き連中には、今のところ何のお咎めもない。
「うーん、どうだろうね。私の方は、嫌がらせが止んでくれさえすればそれでいいんだけど。あと、ボスである遥香さんがきちんと謝罪してくれれば、それ以上どうこうする気はないわ。といっても、これが一番難しそうなんだけどね」
「そうでしょうねえ。甘やかされた深窓のお嬢様にとっては、他人に頭を下げるというのは簡単なことではありませんから」
「うん。それ以前にあの人、私の言ったことがちゃんと解ってるのかしら。ボスの責任なんて、まるっきり頭になかったみたいなのよ。ドッと疲れたわ」
これまでの人生、大物の家族に守られて、『責任』なんてカケラも背負わされることなく生きてきたのだろう。自分が何をしても、責任を負うのはいつだって親や使用人。考えてみれば、とことん情けない話だ。
「そんなものですよ、大金持ちのお嬢様なんて。夏希さんのようにご自分で考えて生きてきた方とは、根本的に違うんです」
「でも、それって本人のせいと言うよりは、まわりが悪かったのよね。誰だって、何が正しいかは教えられなきゃ解らないでしょう?」
「それはそうですけど……そう言って許されるのは、せいぜい小学生までですよ。家ではいくら甘やかされても、学校のお友達だっているわけですから。普通の感覚なら、中学生にもなれば周りの方々との付き合いから、いろいろと学ぶものです。それをして来なかったのはやはり、本人にも問題があるのですよ」
確かに。ああいうお嬢様にとっては、学校の友達というのもある意味、家族の延長のようなものなのかも知れない。家で甘やかされ、学校では取り巻きにチヤホヤされ……誰からも耳の痛いことを言われずに育ってきた結果がアレなわけだ。
「まあ私としては、言いたいことは全部言ったわけだし。それをどう捉えるかは、それこそ遥香嬢の人間性次第ね。花房先輩が言うような人だったら、少しは真面目に考えてくれると思うんだけど……こればっかりは私にも判らないわ」
「どんな形にせよ、きちんと反省して謝って下さるといいですね。もうこれ以上、夏希さんが酷い目に遭わされるのはご免ですから」
「うん。ありがとう、めぐみさん」
食後のお茶を飲みながらにっこりと微笑む。今日一日の出来事を事細かに話していたため、いつの間にかかなりの長時間が経過していた。ふと壁の時計を見ると、すでに九時近くを指している。私は慌てて食卓から立ち上がった。
「わあ、また遅くなっちゃった。ごめんなさい、いつも長話して」
「構いませんよ。今日は長くなると思っておりましたしね」
二人して食器をキッチンに運ぶ。テーブルを片付けていた時、居間のソファーに放り出していたスマホが鳴った。見ると、まったく見覚えのない番号である。
「……はい? どちら様ですか?」
『…………』
慌てて応答するも返事がない。誰だ? 今ごろ。
「もしもし?」
少し強めの声で何度か受話器に問いかけ、諦めてスイッチを切ろうとした瞬間、回線の向こうからようやく応答する声が聞こえてきた。
『あ、あの……八木沢さん?』
「はい、八木沢です。どなたですか?」
眉をひそめながら言った言葉は、少々強すぎたかも知れない。相手が女性だったせいで、こっちも気が大きくなっていたのだろう。おどおどと小声で囁かれた次の言葉を聞いた瞬間、私は文字通り顔色を変えて飛び上がった。
『あの、わたくし……鷺宮遥香です。お判りになりまして?』
「────はい!?」
どういうことだ。なんで遥香嬢が私に? っていうか、どうして彼女が私の番号を知ってるわけ!?
「ちょ、ちょっとすみません。ホントに鷺宮先輩────なんですか?」
『ええ。夜分に突然ごめんなさい……』
「いえ、それはいいんですけど。なぜ先輩がこの番号をご存知なんでしょう?」
『それは……』
誰が教えたんだ? それとも、鷺宮家の諜報部隊かなんかが探り出したのか?
とっさに振り返り、めぐみさんと顔を見合わせる。彼女もひどく驚いた様子で、片付けの手を止めてこちらを凝視している。私は再び、電話の向こうに意識を集中させた。
「誰かからお聞きになったんですか?」
『え、ええ。申し訳ないとは思ったのですけど……無理を言ってある方から教えて頂きましたの』
誰だろう。まさか花房先輩が教えるわけないし、他は皆目見当もつかない。
『どうしてもあなたとお話ししたくて。もう二度とお電話しませんから……相手の方のお名前は、どうか勘弁して頂けませんこと?』
可愛らしい涙声で頼まれては、無下にダメだとも言えない。それに、何を言ったところですでに電話がかかってきているのだ。今後の対策なら着信拒否という手もあることだし、と私は早々に諦めて頷いた。
「判りました、そのことはもう結構です。それで、私にお話というのは?」
『あ、あの……』
どうやらひどく怯えているようだ。いつも言われることだけど、私の話し方ってテキパキしすぎていて、気の弱い人には鬼門なんだそうな。傷つく言われ方だが、自分でもそうかなと思わないでもないから、ここは多少穏やかに行くべきか。
「先輩、落ち着いて。ゆっくりでいいですから、言いたいことがあるのなら何でも仰って下さい。ちゃんと聞いていますから」
『あの、わたくし……あなたに謝らなくちゃいけないと思って……』
「へ?」
予想外の言葉に、私は小さく驚きの声を上げた。こんな簡単に謝ってくれるの?
『今日仰っていた嫌がらせのこと……わたくし知っていたんです。皆様があなたの机に落書きをなさったこと……それから、上履きのことも……』
ああ、そっちか。初日のアレは、確かに彼女も知っていたんだろう。話していた時の表情で、それは私にも察しがついていた。
『あの日の放課後、お友達が何人か、ひどく怒ってあなたのクラスへ行かれましたので。わたくしお止めしたんですけど、聞いて頂けなくて……』
「そうでしたか」
『ええ。お兄様にも叱られましたわ、きちんと謝りなさいと。今更ですが、上履きはちゃんと弁償いたしますので……』
尻すぼみになる言葉に、私は思わず苦笑を漏らした。いつだったか、花房先輩が言っていた「根はとても善良な方です」という言葉が脳裏をよぎる。
「それはもういいですよ、お気持ちだけで。秋本会長もそこまで細かいことを要求なさるとは思いませんし」
私としては、謝ってくれればそれでいいのだ。この様子なら、今後はもうあんなことを繰り返す恐れもないだろう。
「そのためだけにお電話下さったんですか?」
『いえ、それは……』
言い淀んでしまう。やはりこれは単なる前振りか。電話番号を調べてまで本当に言いたかったことは、何か他にあるのだろう。
しばし続いた沈黙に、私は覚悟を決めた。これは相当長くなりそうだ。
「先輩、少しお待ち頂けますか? ちょっと家政婦さんとお話ししてきますので」
『え? ええ、どうぞ』
私は電話を保留にし、キッチンのめぐみさんを振り返った。
「めぐみさん、すみませんけど、一段落したら勝手に帰って頂けますか? どうも彼女、私に何か言いたいみたいなのよ。聞き出すのに手間がかかりそうだから」
「それは構いませんけど……大丈夫ですか? 夏希さんお一人で」
「ええ、たぶん大丈夫。落書きのこと、第一声で謝ってくれたし。そうそう無茶なことを言われるとも思えないわ」
そう言うと、彼女は納得したように頷いた。
「そうですか。では、後片付けが終わりましたら失礼しますね。何か、他にやっておくことはありますか?」
「そうねえ……あ、できればコーヒーを湧かしといて貰えるかな。あの様子じゃ、本腰入れて聞いてやらなきゃならなそうだし」
「かしこまりました。では夏希さん、頑張って下さいね!」
ニヤリと笑い、彼女は仕事に戻った。私は居間のソファーに座り、クッションを一つ抱え込んで電話を繋ぎ直す。
「お待たせしました、鷺宮先輩。もう大丈夫ですよ」
『ご、ごめんなさい。こんな時間に』
「いいえ、構いません。私、けっこう夜更かしなんですよ。晩ご飯もお風呂ももう済ませましたので、今日はしばらくお付き合いできますから」
我ながらアホなことを言ってるなあ、と思いつつも、相手を少しでもリラックスさせられるよう、おどけた口調で話しかける。なんで私がこんな気を遣わなくちゃならないんだ、と思わなくもないが……あるいはこれが、和解へのラストチャンスになるかも知れない。この機を逃す手はないだろう。
「それで、先輩。話して下さる気になりましたか?」
『…………』
「何だろ、篠塚先輩のことでしょうか。それとも……桜庭先輩のこと?」
『……っ!』
わ、図星を当ててしまったらしい。電話の向こうで息を呑む気配が、こちらまではっきりと伝わってくる。
『な、夏希さん。本当なんですの? その……あの方を警察に訴える、って』
「いいえ。ウソです」
『……え?』
そんなに心配していたのか。戦術の一つとはいえ、悪いことをしてしまった。
「ごめんなさい、あれはあの場の方便です。ああでも言わないと、先輩が私の話を聞いて下さらないと思いましたので」
『そ、そうでしたの……』
肩すかしを食らったような、ホッとしたような、複雑な溜息が聞こえる。
「秋本会長も、さすがにそこまでは言ってませんから安心して下さい。でも、彼に脅迫されたというのは事実ですよ。今現在も私と仲間の女の子たちには、秋本会長が雇って下さった護衛が付いている状態です。男の子たちは完全に無防備なので、私はそれでも心配なんですけどね」
『そんな……』
ショックだろう、と思う。自分の婚約者が他の女の子に熱を上げ、脅迫までして近づこうと躍起になっているのだ。これで平気な女性がいたらお目にかかりたい。
『では……あなた、雅臣様とお付き合いをなさるの……?』
「は? まさか。そんなことしなくて済むように苦労してるんですから」
おずおずと言われた言葉を一蹴すると、彼女はとたんに、電話の向こうでか細い泣き声を上げた。
『お願いです、夏希さん……雅臣様をわたくしから取らないで……』
「はあ? ちょっと先輩、落ち着いて下さい。ご心配なさらなくても、間違ってもそんなことはしませんよ。ていうか、私はあんな人真っ平ですから!」
まずい、本格的に泣き出してしまった。まったく、あんな男のどこがいいんだか理解に苦しむが……早とちりにも程がある。
「ねえ、鷺宮先輩。ひとつお訊きしてもよろしいでしょうか」
『はい……』
「先輩は、桜庭先輩のどこがお好きなんですか?」
ズバリ聞いてやる。掛け値なしに謎なのだ、私にとっては。
「顔ですか? 声ですか? それとも、家柄や資産……いえ、そんなはずはありませんよね。だって、鷺宮先輩のおうちの方がずっと名家なんでしょ?」
知恵を振り絞って考えるも、それ以外の長所がまったく思い浮かばない。仮にも婚約者に向かって失礼だとは思うが、ないものはないのだから他に何とも言いようがないのだ。
『ずいぶんひどいことを仰るのね。雅臣様はステキな方よ』
「だから、どこが?」
あくまで冷静に尋ねる私に、遥香嬢はとうとう癇癪を起こしたらしい。突然声を張り上げ、彼女が思い描く『雅臣様』像をキンキン声でまくしたてる。
『顔やお姿もお美しいし、お声だってとても魅力的よ。でもそれ以上に、わたくしにいつも優しくして下さったわ。小さい頃から、お誕生日のたびにステキな贈り物を下さるのよ。パーティーではわたくしを上品にエスコートして下さって、とても楽しい時間を過ごしたわ。ダンスも素晴らしくお上手なの。あの方と踊ってると、いつだって会場中の皆様が羨ましそうにわたくしを見るのよ。わたくしの知らないことをたくさんご存知だし、お仕事に関してもとても有能だわ。わたくし、ずっとずっとあの方に夢中だったのよ!』
────はあ……別世界だ。
パーティー、ダンス、プレゼント。そりゃあ婚約者なんだから誕生日プレゼントくらい贈るだろうし、パーティーでエスコートだってするだろう。問題は、それを彼が心から望んでやっていたのかどうか、である。他人任せで用意したプレゼントを渡すくらいなら、あの男にだって簡単にできるんだから。
「参考までにお尋ねしますが、プレゼントってどんな物をもらったんですか?」
『それはいろいろよ。一番多かったのはドレスかしら。いつもわたくしのために、流行の最先端のものをわざわざ選んで下さるの』
「ちなみにそれ、いつ頃まで続いてました? 今でも毎年もらってます?」
『それは……最近はあの方もお忙しくて、ドレスの贈り物はなくなりましたけど。それでもこの三年間、誕生日には必ずバラの花束が届きますのよ。ステキな言葉が書かれたカードを添えて』
なるほど。十やそこらのガキんちょが、女性の服の流行なんぞ知るわけがない。そんな子供なら、巨大なカブトムシを得意満面に差し出して、相手の女の子に悲鳴を上げさせた、なんて贈り物の方がまだしも心がこもっている。花束はもちろんのこと、ドレスもおそらくは使用人に丸投げだな。
冷め切った私の心中など知るはずもなく、遥香嬢は半泣きの声で、桜庭先輩との思い出を切々と述べ立てている。五歳の時、鷺宮家のパーティーで初めて出会ったこと。お祖父様にねだって八歳の時に婚約を結んだこと。十歳の誕生日には、彼女の部屋を埋め尽くすほど大量の花が届けられたこと。彼が中学に上がった時、その制服姿が凜々しくて、言葉を失くして見とれてしまったこと。中学までは違う学校だったため次第に会えなくなり、淋しくて仕方なかったが、だからこそ高校で一緒の学校になれた時は飛び上がるほど嬉しかったこと……等々。
どれもこれも子供の頃の────せいぜいが小学校時代までの話だ。昔は確かに優しかったのかも知れないが、おそらくは中学校の三年間あたりで、人格が完全に変わってしまったのだろう。ここ数年は私たちが見た通り、彼は遥香嬢のことなどほったらかしで女遊びに興じている。
子供時代の思い出を宝物のように大切にして、一途に相手を想い続けている幼いお姫様。可愛いといえばこれ以上ないくらい可愛いが……悲しいかな、あまりにも現実が見えていない。思い出だけに目が眩み、今現在の彼の姿をまるで認めようとしていないのだ。
遥香嬢に聞こえないよう、私は心の中だけで深い溜息をつき、キッチンへ行ってコーヒーを注いだ。こんなイタい話、コーヒーなしじゃ聞くに堪えないわ。
「判りました、鷺宮先輩。あなたがどれだけ桜庭先輩のことをお好きなのかは」
『判って下さるの? なら……』
「ええ、ご心配なく。頼まれなくても、あんな人絶対取ったりしませんよ」
『本当に? 夏希さん、あなた本当に、雅臣様とは何もありませんでしたの?』
こうなるともう、溜息だけしか出て来ない。いったい誰が、あんなロクでもない噂をこのお嬢様に吹き込んだんだろう。
「ええ、誓って。信じて頂けるかどうか判りませんが、私は最初から彼を徹底的に拒否してきました。やましいことは何もしていませんし、この件に関しては証人も大勢います。何より私、あの人が大っ嫌いですから」
『……き、嫌い?』
「ええ。あの男───すみません、正直に言いますね───たとえあいつが世界でたった一人の男だったとしても、あんなヤツと付き合うくらいなら一人でいる方を選ぶでしょう。そのくらい嫌いだし、軽蔑しています」
『……!』
この際、言葉を飾っても仕方がない。自分自身の名誉のためにも───そして、願わくば遥香嬢の将来をまともなものにするためにも、歯に衣着せず本当のことを言ってやるしかないのだ。
「鷺宮先輩。こんなこと言うのは大変失礼ですが、もう一度だけ言わせて下さい。もっと現実をよく見て下さい、と」
『現実……?』
「ええ。あの男が私の気を惹くために、あなたに関してどれだけ失礼なことを並べ立てたか、お教えしましょうか? それと、学園の中で彼が何と噂されているか。正真正銘、傲慢で救いようのない女ったらしなんですよ、あいつは!」
素直に信じてくれるとは思わないが、いざとなれば委員長が録音したあのテープだってある。どんな盲目な女の子でも、あれを聞かされれば目が醒めるはずだ。
「お願いですからもっとご自分を大切になさって下さい。あんな男にこだわって、この先一生、ずっと泣きながら暮らす羽目になってもいいんですか?」
『うそ……うそよ、そんなの……どうしてそんなひどいことを仰るの?』
可愛らしい泣き声の合間、途切れ途切れに漏れる呟き。私は苦笑して、自分でも思ってもみなかった言葉を口にしていた。
「あなたを平然と裏切った彼が許せないからですよ。遥香先輩……私はあなたに、不幸になって欲しくはないんです」
『夏希さん……』
秋の夜が更けてゆく。さめざめとした遥香嬢の泣き声を聞きながら、私は受話器を耳に当て直し、すでに一時間を越えた電話に腹を括って向き直った。




