13
秋学期が始まって三週間ほどが経過した。残暑もようやくおさまり始め、ひと雨ごとに大気が秋の気配を纏ってゆく。台風と快晴が交互に訪れる変わりやすい秋空の下、私は新たに得た仲間たちと共に、元気に学校生活を送っていた。
委員長も含めた名村君たち五人は、どうやら一学期……じゃない、春学期のうちからかなり仲が良かったらしい。「庶民同士、団結しなきゃ」とはクールで知的な香奈子の弁だが、確かに少数派の一般生徒がクラス内で快適な日常を維持するためには、何らかの同盟関係が必要だっただろう。
私が今いる席は、もともとは別の生徒の席だったようだが、その子は星城学園に馴染めず入学早々不登校となり、あっという間に転校していったそうだ。おかげで空いたその机をちゃぶ台代わりにして、前後左右の五人が話をしたり、お弁当を食べたり、交流を深めるには絶好の環境だったという。男子も女子もお互いに名前は呼び捨てだし、クラスにはびこる上流階級言葉とも、その一角だけは完全に無縁。今では私もすっかりそこの一員となり、女子同士だけではなく男の子たちからも、「夏希」と名前を呼び捨てにしてもらっている。
初っ端にクラスのお嬢様方からケチを付けられて以来、小さなトラブルは何度かあったものの、概ねは平和な学園生活だったと思う。あの最初の衝突も、結果から言えば決して悪いばかりではなかった。あの日初めて言葉を交わした香奈子たちや仲裁してくれた委員長とは、あんなことがあったせいでかえって親しくなれたし、あの時思いっきり言いたいことを言った私を見て、クラス全員が私に対する認識を新たにしたようだ。どうやらこいつは、普通のおとなしい女子生徒ではないらしい────その理解が、クラスメイトたちの中にもしっかりと浸透してしまった。
名家の援助を受けている一般生徒、という特異な私の立ち位置は、それだけでも人を警戒させる。そこへもってきて、この強気で怖い物知らずの性格。あれ以来、面と向かって直接私に何か言ってくる『名家出身者』はひとりもいなくなったが、陰で、あるいは聞こえよがしに嫌味を言うクラスメイトはかえって増えてしまったかも知れない。特に私の怪我のことや、一般人気質丸出しの言葉遣いについては、名村君言うところの『セレブの気取ったお嬢様』方に格好の攻撃材料を与える結果となった。イヤでも耳に入ってくる遠回しな悪口を聞くたびに、委員長の都築君はやんわりと注意してくれているらしいが、私自身がまったく気にしていないだけに彼には余計申し訳ないと思う。
そんなこんなで、表面的には穏やかながらも、水面下ではさまざまな駆け引きが繰り広げられていた九月の中旬。
ある放課後、私は学園の広い敷地内で、ひとり盛大に道に迷っていた。
発端は体育の単位について。休み明けの水泳の授業はもちろんのこと、今学期中はすべての体育で見学となることが決まっている私には、あらかじめかなりの量のレポートや課題が課せられている。そのうちのひとつ、春学期分の実技を代替する調査レポートが完成し、それを担当の先生に提出するため、私は教室からけっこう離れた特別教員棟へと向かっていた。まだ校内に不慣れな私を心配して、委員長が付き添いを申し出てくれたのだが、そういつまでもみんなに甘えてはいられない。校内地図を頼りに一人で行ってみるから、と強がったのがいけなかったか。行きは何とか辿り着いたものの、そこから一歩外に出たらもう、道がまったく判らない。いざとなったら近くに学生棟があるから、その中にある生徒会室に行けば、たぶん誰かが道案内をしてくれるよ────都築君のいつもながらの気遣いに溢れた言葉を思い出したのはいいが、そもそも、その肝心の学生棟がどこにあるのかさえよく判らないありさまだ。
だいたいこの学校、敷地面積が広すぎるんだ。保護者からどんだけ多額の寄付金を搾り取っているのかは知らないが、いろんなものがあまりに豪華すぎるだろう。広大な敷地、美麗な校舎、目的別に細かく分かれた数多くの学棟、どこのホテルの化粧室かと見紛うほどの高級感溢れるトイレ。学校なんてものは、基本的に教室と最低限の備品があればこと足りる。金持ち御用達の学園だからといって、たかだかガキどもを、学生のうちからあまりに甘やかすのはいかがなものだろうか。
学校内で道に迷うという間抜けをやらかした自分を棚に上げて、私はあちこちの庭園をウロつきながら胸の中でそんなことを毒づいていた。さて────この道はどっちへ行けばいいんだっけ?
「どうした? さっきから何をうろうろしている」
「……へ?」
案内図を睨みながら首を傾げていた私に、その時誰かが声をかけてきた。それも何だか、かなり地面の近くから。
「お前、一年か。この時期になってもまだ、迷子になる輩がいるとはな」
「…………」
恐る恐る振り返り、声が聞こえた辺りに目を遣る私に、腹の底までズシンと響くほどの魅惑的な男の声が追い打ちをかける。笑いを含んだその言葉と共に、小径の脇の木陰から誰かが立ち上がるのが見えた。なに、この人。こんな真っ昼間から、学校の芝生でお昼寝か?
「お言葉ですが、私、秋学期からここへ転校してきたんです。この時期と言われましてもまだ三週間しか経ってませんから、自分の教室以外はほとんど知りません」
言われた言葉に少々カチンと来て、思わず言い返す。胸の校章を見るとどうやら三年の先輩らしいが、仮にも同じ学生とは思えない横柄な口調だ。
「何だ、転校生か。珍しいな」
「ええ、よく言われます」
「それで? その不慣れな転校生が、こんなところで何をやっている」
迷っていることは明白なのに、意地の悪い言い方だ。さすがに、初対面の先輩をいきなり睨みつけるわけにはいかないので、密かに深呼吸で気持ちを落ち着けた。
「ご覧の通り道に迷いました。すみませんが先輩、一年のクラス棟へはどう行けばいいのか、教えて頂けませんか?」
「ああ、いいぞ。ついでだ、俺が連れて行ってやろう」
観念して頼んだ私に、彼はニヤニヤ笑いながら近づいて来た。反射的に断りたくなったが、ここで断ればまたしばらくは迷子状態から脱却できない。金曜の放課後ともなると、日頃は誰かしらが行き交う構内もシーンとしていて、私たちの他にはろくに人影も見当たらないのだ。
「よろしいんですか?」
「ああ、構わない。ちょうど退屈していたところだからな。お前、名前は?」
「一年B組の八木沢と申します」
「八木沢……? どっかで聞いたことがあるな。下の名前は何と言うんだ」
「……八木沢夏希です」
万が一あの噂が三年生にまで浸透していたら、と思うと言いたくはなかったが、訊かれたものは仕方がない。低い声で渋々答えた私に、目の前に立った先輩はまたニヤリと笑い、私の顔を覗き込むようにして言葉を続ける。
「俺は三年の桜庭雅臣だ。どうぞよろしく、迷子の転校生くん」
「!」
────桜庭雅臣、だって? まさか……攻略対象その2か!?
とんでもない人に見られてしまった。よりにもよってこんなところを。
そういえば……莉子が言ってたっけ。「編入生が校内で道に迷って助けてもらう ってのは、出会いイベントの定番なのよ」と。
イヤだ。そんなイベント、全力で関わりたくない!
私はとっさに視線を泳がせ、何とかしてこの状況から逃亡を図ろうと試みるが、長身で体格のいい彼に目の前に立ちはだかられては逃げるに逃げられない。そっと視線を上向けると、確かに『攻略対象』の名に恥じぬ迫力ある美貌が、相変わらず口元に歪んだ笑みを湛えてこちらを見下ろしている。
「どうした、八木沢夏希。俺の噂でも聞いたのか?」
「……噂、ですか? いいえ」
どんな噂かは知らないが、別にそんなものを聞いたわけじゃない。今の私の頭にあるのはただ、あの乙女ゲームの中でも最も厄介な攻略対象だ、と嘆いていた親友の言葉だけである。どう厄介なのか、そこまでは残念ながらまったく覚えていないんだけど。ああ………こんなことならもうちょっと真面目に、莉子のアドバイスを聞いておくんだった。
「まあ、知らないならそれもいいさ。────さあ行くぞ。こっちだ」
そう言うと、彼はあっさり私に背を向けて、さっさと歩き出した。都築委員長のような気遣いとは、百八十度真逆の尊大さ。置いて行かれては堪らないとばかり、私は慌ててその後を追う。
「それにしても、転校生がこんなところにいったい何の用事だったんだ」
「特別教員棟の先生に提出物を届けに行ったんです」
「提出物?」
「ええ。体育の授業を見学したので、その実技代わりのレボートを」
正確に言えばちょっと違うが、この面倒そうな人に詳しく話す気にもなれない。
「誰かに連れて来てもらえば良かったのにな。まだ友達ができないのか?」
「いいえ。クラスメイトが付き添うと言ってくれたんですが、迷惑をかけたくないので断りました」
「無謀なことを。それで道に迷っていたら世話はないだろう」
いちいち失礼なことばかり口走る。もしかして俺様か? サイコパスか?
「このあたりは特に方向がわかりにくい。毎年必ず、ここで遭難する新入生が出るくらいだ。だいたい、お前はいったいどこを歩いてきたんだ。特別棟から普通棟へ行く道は、こことは完全に逆方向だぞ」
「え!? そうなんですか?」
どうやら特別棟から戻る際に、来た時とは反対側の出口から外へ出てしまったらしい。道理で委員長が言っていた学生棟も見当たらなかったはずだ。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「構わないさ。どうせ暇だったんだから」
嘯くようにそう言うと、桜庭先輩は私には頓着せず、ずんずん先へ進んでゆく。暇だの退屈だのって、この人大丈夫なんだろうか? 大学受験を控えた三年生が、この時期に放課後の校庭で昼寝してる方が、私にはよほど謎なんですけど。
しばらく歩くと、ようやく私たちは出発点であるはずの特別棟まで戻って来た。中を通り抜けるのかと思ったら、彼はそのまま特別棟の外壁に沿って、建物を迂回するように進み始める。中に入れば、後は私にも帰り道が判ると思うんだけどね。文句を言うわけにもいかず、仕方なく私も先輩の後に続く。
「そういえば……思い出したぞ。八木沢夏希────確か、秋本聡一郎氏の養女になった娘だよな」
「はあ? 違いますよ、養女じゃありません。彼は単なる後見人です」
どこでどう暴走したのか、いつの間にかあの噂には尾ひれ背びれ、胸びれまでがついてしまったらしい。しかもこの人、他人の話をロクに聞きゃしない。だいたい名字が八木沢から変わっていない時点で、養女のはずはないと思うのだが。慌てて否定してみても、果たしてどこまで通じたんだろう。
「確かに一度はそういうお話も頂きましたが、すぐにお断りしましたから」
「なんだ、もったいない。あの家の養女になれば、贅沢三昧できるだろうに」
「そんなものに興味はありません。第一、秋本会長にも失礼です」
会長の厚情をお金に換算するかのような発言に、私は和樹さんの言葉を聞いた時以上の怒りを覚えた。いったいどういう神経をしてるんだろう。この私が、会長の財産目当てで養女になりたがるような人間に見えるんだろうか。
「まあ養女にはならなくとも、女ならあの人と繋がりを持った時点で、将来は保証されたようなもんだよな。社交界にも出入りできるし、金持ちの御曹司がより取りみどりだ。むしろ、今はまだ養女とか息子の婚約者なんぞにならない方が、好みの男に好きに手を出せる。上手くやったな、お前」
その言葉を聞いたとたん、私はそれまで以上の怒りで目の前が真っ赤になった。あの乙女ゲームのヒロインじゃあるまいし、金持ち男を捕まえるために私が会長に取り入った、とでも言うつもりか?
「どういう意味ですか!?」
足を止め、前を行く桜庭先輩に向かって怒鳴り声を上げる。ちょうど、特別棟の裏手から建物の端を廻って、表側に戻ってきたあたりだ。近くに学生棟の二階部分が、木々の間越しに垣間見える。
「……は?」
「誰が社交界なんぞに出入りするっていうんです? 私がお金持ちの間で男漁りをするとでも言いたいんですか? バカにしないで下さい!」
誰がそんな不毛なことをするか。私はそれほど安っぽい人間じゃない。
「秋本会長は、私がこの学校に入るためにいろいろと支援して下さっただけです。それ以外のことで私があの方のお世話になることはありませんから、あなたが仰るような『金持ちの御曹司』と知り合う機会なんて絶対にあり得ません」
「この学校に入れてもらっただけで十分だろうが。ここには金持ちの男がゴロゴロしてるからな。だからお前だってここへ来たかったんだろう?」
バカにしたように鼻で笑われて、私はいよいよ怒髪天を衝く。
「失礼な! 私がここへ来たのは、この学校が秋からでも入学を認めているから、ただそれだけの理由です。事故でまるまる一学期棒に振った私を受け入れてくれる学校が他にもあれば、当然そっちへ行ってましたよ!」
私だって好きこのんで、こんなお金のかかる学校へ来た訳じゃない。地元の高校に行けなかったことがどれほど悔しかったか、あんたなんかに解るもんか。
「秋入学? 何だ、男目当てで来たんじゃないのか」
「当たり前です!」
「だがここへ入った以上は、お前だってすぐにその気になるさ。そういう女ばかりだからな、ここは」
「あなたの知っている女性たちはそうなのかも知れませんが、私はそんなことにはまったく興味がありません。秋本会長だって、私にそんな気がこれっぽっちもないことはよくご存知です。侮辱するのも大概にして下さい」
その瞬間、黒曜石のように印象的な彼の瞳が、ギラリと嫌な光を放った。
「何を綺麗ごとを言ってる。女なんかみんな、いつだってその手のことしか考えてないじゃないか。顔と金でしか男を見ない。偉そうなことを言っても、お前だって結局は同じなんだろう? え?」
そう言うと、桜庭先輩はいきなり私の肩を押してすぐ傍にあった特別棟の外壁に身体を押しつけた。そのまま、のしかかるように顔を近づけ、片手を私の顔の横の壁につく。
「俺の顔を見てどう思った? どうせお前もイケメンだのカッコいいだの、そんな下らないことしか考えてなかったんだろうが。どうだ? 試しにお前と付き合ってやろうか。お前はなかなかの美人だし、秋本の関係者なら外聞も悪くないからな。何なら特別に、俺の女にしてやっても構わないぞ?」
「…………」
あまりのことに私は混乱し、珍しく言葉に詰まって口を噤んだ。
これはもしかして、噂に聞く『壁ドン』というヤツだろうか。俗に、世の女の子たちが胸キュンするというシチュエーションだが、実際にされてみると、こんなののどこがいいのかまったく解らない。男性からこんな非礼な振る舞いをされたことなんて初めてだし、はっきり言って恐怖しか感じないのだ。
「やめて下さい、桜庭先輩。あなたのどこがカッコいいって言うんです? 初対面の女の子に無理矢理こんなことをする時点で、あなたは間違いなく最低です!」
「こんなことって何だ。キスしたわけじゃあるまいし」
ニヤニヤ笑っている。明らかに、自分が優位に立ったことを確信している顔だ。
「いいから本音を言ってみろ。俺に付き合ってやると言われて心が動いただろう? 女どもの考えることなんか俺にはお見通しだ。俺に取り入って、あわよくば桜庭の家名と財産をぶん捕りたい。だからああやって、のべつまくなし俺に付きまとって来るんだ。違うか?」
「お気の毒に。先輩の周りには、今までそういう薄っぺらい女の子しかいなかったんですね。まあ、先輩ご自身が紙切れ並みに薄っぺらいですから、仕方ないのかも知れませんけど」
「何だと!?」
にわかに形相が変わった彼を、私は臆せずまっすぐに睨み返した。今や恐怖にも増して、怒りの方が遙かに強い。その気持ちが私から気後れを拭い去ってゆく。
「そこをどいて下さい、先輩。女性を侮辱するのもいい加減にして。あなたと付き合うなんて、百億円積まれたってお断りです!」
「何だと、この生意気な小娘が! 俺に逆らう気か!?」
「いいからさっさとどきなさい!!」
負けじと腹の底に力を込め、腹式呼吸を使って凜とした声で一喝する。
その、瞬間だった。
「……夏希さん? それに────何をやってるんです、桜庭さん」
前方から歩いてくる見覚えのある人影。ああ……助かった。
「秋本先輩……」
思わず声に安堵が滲む。いや、通常ならとても安堵できるような相手ではないのだが、この際そんなことは言っていられない。私の表情に何かを感じ取ったのか、和樹さんは急に歩調を早め、こちらへ近づいてきた。すると桜庭先輩は壁についた手をサッとどけて、和樹さんを振り返り軽く睨みつける。
「夏希さん、血が出てるよ」
「……え?」
「ほら、右腕。肘のところ」
唐突に指摘され、私は我に返って自分の右腕を点検した。つい先週、皮膚移植の傷跡がほぼ完治し、ようやく包帯が取れたばかりの腕だ。傷跡の位置とは違うが、肘の辺りに僅かな出血がある。きっと、桜庭先輩から壁に押しつけられた時にでもすりむいたんだろう。
「女生徒に怪我をさせるとは感心しませんね、桜庭さん。彼女は交通事故の被害者で、つい最近腕の包帯が取れたばかりなんですよ」
「それは悪かったな」
バツが悪そうに和樹さんから目を逸らし、ボソッと呟く。私は特別棟の壁際から離れ、いささか不本意だが、和樹さんの手が届く位置まで退避しながら言った。
「桜庭先輩。道案内をして下さったことには感謝いたしますが、私は先輩の友達でも恋人でもありません。今日のあなたの無礼な言動には、厳重な抗議をさせて頂きます。今後またこのようなことがあれば、学校側の然るべき方にご報告し、問題を公にするつもりですので────もう二度とこのような真似はなさらないよう、今ここで警告しておきます。よろしいですね?」
「……ふん。やはりこいつがお前の男か。俺をバカにしやがって」
とんでもない勘違いだ。私は思いっきり脱力した。
「何を仰っているのか解りませんが。この方は、私の恩人の息子さんです。三年生にもなって、あまり非常識なことばかり仰らないで下さい」
このド阿呆、いい歳こいてバカ言ってんじゃねえよ────それを丁寧な言葉で言うとこうなる。私は最後にもう一度、桜庭先輩を蔑むような目で見やり、サッと踵を返して歩き出した。すぐ後ろから、和樹さんが黙ってついてくる。
「もう行ったみたいだよ、夏希さん。大丈夫かい?」
しばらく無言で歩いたあと、背後から響いてきた和樹さんの声で、私はようやく足を止めた。ふーっと大きく息をつく。
「ありがとうございました、秋本先輩。おかげで助かりました」
「いや、僕は声をかけただけで特に何もしてないけど。いったい何があったの?」
「あの勘違い男が、いきなり難癖をつけて絡んできたんです。何が気に障ったのか私にも良く解りませんが」
「…………」
おおかた、「お前の口が原因だろう」とでも思ってるんだろう。後ろを振り向くことなく、彼の顔を見ないままで話していた私に、背後からふと失笑じみた気配が届く。
「とりあえず、何ごともなくて良かった。ちょっとあっちで休んでいこうか。もしよかったら、この後うちの車で自宅まで送るよ」
「……はい。ありがとうございます」
そうか、この人は正真正銘のセレブだから、通学は運転手付きの車なわけね。
逆らう気力もなく、私は和樹さんに促されるまま、おとなしく視界の隅に映ったベンチへと足を向けた。