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無敵ヒロインの学園始末記  作者: 桂木 玲
第二章  秋学期 ~俺様王子と悪役令嬢~
11/50

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 九月一日。ついにこの日がやってきた。

 私立星城学園における、私の高校生活がいよいよ始まる日だ。



 朝七時半。

 贅沢にも都心の一等地に広々とした敷地を占める学園の構内は、いまだひと気もまばらに静まり返っている。私は数日前に秋本会長から届けられたスマートな制服を着込んで、一人その校門の前に立っていた。

 自宅マンションからは、ゆっくり歩いて約二十分。ちょうどいい散歩コースだ。どうやら会長は、どちらも都心にある学園と病院、その双方へ歩いて通えるようなところに、ということであのマンションを見つけて下さったらしい。場所柄を考えれば、道理で呆れるほど豪華なお部屋だったわけだ。

 セレブ校の名に恥じず、学園の建物はどれも素晴らしく立派だった。上品な装飾で飾られた白亜の外壁は、正面玄関まで続く小径の両側に茂った木々の緑と見事なコントラストをなし、真夏の強烈さを未だ残す朝日の中、目にも鮮やかな清涼感をあたりに振りまいている。私が良く知る公立学校の、薄汚れたコンクリートの建物とは雲泥の差だ。寄付金、さぞかし高いんだろうなあ、と溜息が漏れる。


 足を踏み入れる前に、私はもう一度自分の身支度を点検した。初めて着る制服が夏服、というあたりに春から過ごしてきた激動の時間を感じる。白地にベージュのアクセントラインが入った多少ミリタリー風の半袖ブラウスと、それにマッチした淡いベージュのスカート。ちなみに冬服の方はこれとはまったく違い、紺色を基調としたスーツのように大人っぽいシルエットの三つ揃い、白地にピンストライプのYシャツ、それに学年ごとに色が変わるネクタイ、というデザインになっている。一年が深紅、二年が群青、三年は濃緑。入学時からの持ち上がりではなく、学年が変わるとネクタイそのものを交換する、金持ち学校らしいシステムだ。都内の高校の制服でも、常に上位の人気を誇っているというその服を、まさか自分が着ることになるとは夢にも思わなかったけど。

 私は小さく苦笑し、顔をまっすぐに上げて校内へと歩み入った。



「えー、こちらが君のクラス担任になる高杉先生です。先生、例の編入生ですよ」

「ああ、はいはい」

 玄関の受付から事務室、校長室、と巡って最後は職員室。私は教職員たちに連れられるまま、行く先々で出会う人々に挨拶して回り、ようやく最終的に出会うべき人の目の前までやって来ていた。校長の声に振り返ったのは、三十代くらいの男の先生。中肉中背、どこといって特徴のない、飄々とした雰囲気の人物である。

「ああ、君が八木沢君ね。俺は高杉(たかすぎ)(まこと)、一年B組の担任だ。よろしく」

「八木沢夏希です。どうぞよろしくお願いいたします、高杉先生」

 第一印象は大切だ。とりあえず、殊勝な顔つきで丁寧に頭を下げる。高杉先生はしばし無言で私の顔を眺めていたが、やがて唐突に自分の席から立ち上がった。

「んじゃそろそろ行くか。クラスの連中、きっと待ちかねてるぞ」

「はい……それでは校長先生、ありがとうございました」

 特に逆らう理由もないので、私はここまで連れてきてくれた校長にひと言断り、おとなしく担任の後について職員室を出る。


 私が入ることになった一年B組の教室までの廊下を歩きながら、私は今日、これまでに出会った人々の反応を改めて思い返していた。

 『例の編入生』だの、『待ちかねている』だのと言われると、嫌でも和樹さんに聞かされたことを思い出してしまう。私に関して、いったいどんな噂が流れているというのか。それを考えると、初っ端から少々憂鬱だ。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、斜め前を歩く高杉先生が、問わず語りに口を開く。


「この学校じゃそもそも、転校生自体が珍しいからな。加えてお前は、編入試験があの成績だっただろ? どんな奴が来るのか、ってみんな興味津々なんだ」

「はあ……もしかして、私の成績まで知れ渡っているんですか?」

「そりゃあもう。この手の話はいくら隠したって無駄だ。どっからか必ず漏れる」

 それはそうかも知れない。さらに私には、秋本会長絡みの噂がもともとあるし。

「しかもご丁寧に、秋入学を蹴ってわざわざ春クラスに編入、ときた。これじゃ噂にならない方がおかしいさ。秋学期ってのは一応、もう一つの一年開始の学期でもあるわけだからな」

「秋学期? 二学期のことですか?」

 彼の言葉にふと引っかかって問い返すと、先生は足を止めて私を振り返る。

「なんだお前、聞いてないのか?」

「……何をですか?」

「うちじゃ、『一学期、二学期、三学期』って言葉は使わないんだ。その代わり、『春学期、秋学期、冬学期』ってのが普通に定着してる」

「…………」

「秋入学の連中にとっては、最初の学期が通常の二学期に当たるだろ? 入学していきなり『二学期』じゃ座りが悪いらしくてな。だからそっちの言葉を使うことにしたんだと。なんでも、ちょっと前までアメリカの大学で一般的だったQuarter制 ってのから名前を取ったらしいぞ」

「……なるほど」

 言われてみれば確かに、なかなか合理的な呼び方ではある。一年に二度の入学を認めていると、こんなところでも問題が生じるわけね。


 それにしてもこの先生、セレブ校の教師にしては言葉遣いがかなりぞんざいだ。お上品な金持ち連中にこの口調、果たして問題にならないんだろうか。もっとも、雑ではあるが決して不快ではない。見た目の雰囲気にぴったりと合っていて、私にとっては肩の力が抜けて、かえってありがたく感じる。


「高杉先生。先生の担当教科は何ですか?」

「俺? 俺は社会科。主に現代社会とか、公民なんかの担当だ。もちろんお前たち一年にも教えてるぞ」

 良かった、私の得意科目だ。古文とか生物とかの先生じゃなくて助かったわ。

「現代社会、私も好きです。教科書面白いですよね」

「そりゃ満点だからな。っと、お前は全教科満点か。ああいう成績を取られると、こっちは『こいつ何が得意で何が苦手なんだ?』と疑心暗鬼になるが」

 しかめっ面の言葉に、思わず笑ってしまう。

「苦手教科だってちゃんとありますよ。そのうち、しっかりバレると思います」

「まあ何にせよ、お前さんは病み上がりなんだ。無理せず適当に頑張れ」

 まるで和樹さんの書き込みのようなことを言う。面白そうな先生だ。私は担任の気負いのない口調に、思いのほか安堵している自分を感じた。



 B組の前まで来ると、先生は私をいったん廊下に待たせ、自分だけ教室に入って行く。私は手持ち無沙汰に突っ立ったまま、部屋の中の声に耳を澄ませた。

「はい注目! さて、お前たちも聞いてると思うが、このクラスに転入生が来た。喜べ男子、女子生徒だぞ」

 今まで私が知っていた普通の学校だと、ここでひとしきり騒ぎが起こり、中には「先生、美人ですかぁ?」なんぞと抜かす輩が必ず現れる。だがさすがにこの学校には、そんなタワケは一人もいない。シーンと静かなものだ。

「先に言っとくが、彼女は春先に大きな交通事故に遭って、まだ身体が本調子じゃない。少なくとも今学期中は、体育はすべて見学になる。だから特に女子は、なるべく無理をさせないよう気をつけてやってくれ。いいな」

 そんな言葉の後、教室の扉が再び開いて、私はようやく中へ招き入れられた。


「八木沢夏希です。高杉先生が仰った通り一学期中はずっと病院にいましたから、これが初めての高校生活になります。なるべく早く、皆さんに追いつけるよう努力しますので、どうぞよろしくお願いいたします」


 先生に促され、教壇の前で型通りに一礼して頭を上げると、無言のままじっとこちらを見つめているクラスメイトたちの顔が目に入った。一クラスは約三十五人。これも私のいた中学に比べると若干小さい。それでも、秋クラスはこれよりさらに十人ほど少なくなるらしいから、それに比べれば遙かにマシだ。

 私は教室の中の三十人超を見渡しながら、その目の中にあるさまざまな色合いを瞬時に読み取ろうと努めた。概ね『好奇心丸出し』といった視線が多いが、中には平静な顔や無関心な顔、好意的な笑顔や同情の目つき、さらには一般家庭出身者である私をそこはかとなく蔑むような視線まで、まさに種々雑多だ。それらの視線を詳細に分析しただけで、『七割対三割』と言われる二つのグループの、誰がどちらに属する人間なのか、そこまで判りそうな気がする。


「八木沢、お前の席はあそこ。教室のど真ん中だから、サボったらすぐに判るぞ」

「はい、サボりません」

 高杉先生の冗談だか本気だか判らないような言葉に苦笑しながら、私は示された空席に歩み寄った。わずかに窓側後方へ寄っているが、本当に教室の真ん中あたりだ。ホッとしたことにその席の周囲には、敵意を含んだ目つきの人間が若干少ないような気がする。

「よろしくお願いします」

 前後左右のクラスメイトに小声で断り、私はその席に座った。さすがというか、一人一人の机までが、大きさも質も、見慣れた普通の学校の机より遙かに立派だ。ゆったりと座れるし、材質もちゃちなスチール脚じゃない。内心で驚きながら脇のフックに鞄を掛けたとたん、間髪を入れず先生が口を開いた。

「よし、そんじゃ全員、講堂へ移動。始業式が始まるぞ」

 まさに席が温まる暇もない。私はすぐさま立ち上がり、皆の後について始業式の会場へと向かう。



 初日は始業式のみで解散。翌日から授業が開始されたが、みんなはまだ私を警戒しているのか、特に話しかけて来る人もいない。幸いこの二日間は体育などの面倒な授業もなく、おとなしく席に座って講義を聴くだけだったから良かったものの、いずれはそんなことも言っていられなくなるだろう。そろそろ誰かと、話くらいはしてみたいものだ。


 そんなことを思いながら、私は二日目の授業を終え、放課後の校庭に出た。

 九月に入って少しくらいは涼しくなっても良さそうなものなのに、今年はとにかく残暑が厳しい。衰えを知らぬ真夏の太陽が、校庭の片隅で活動を続けるわずかな運動部員たちの頭上から、ギラギラと容赦なく照りつけている。今日は病院に行く予定もないし、帰る前にちょっと、部活動の様子でも見ていこうか。

 そう思い立つと、私は真っ先に野球部の練習場を目指した。初日に高杉先生から貰ったオリエンテーション資料によると、一応この学園にも野球部は存在しているらしい。ただ、判ったのは「存在している」ということだけで、部の規模も成績もまったくどこにも記されていなかった。ということはつまり……話にならないほど弱いか、あるいはこのセレブ学園では野球なんか誰も見向きもしない、ということなのか。どちらにしても、実際に練習を見に行ってみないことには何も判らない。


 目当ての野球部は、昇降口から一番遠いグラウンドの隅っこ、芝生の土手に二方を囲まれた場所で細々と練習を行っていた。部員たちに気づかれぬよう少し離れた芝生の上に座り、そちらを眺めると、何となく部の様子が掴めてくる。

 思った通り、どうにも弱そうな野球部だった。まずはとにかく部員数が少ない。こうして眺めただけでも、果たして試合に必要な九人がいるのかどうか。敷地面積が有り余っている学校だけあって練習場の広さは十分あるものの、コーチや監督の姿も見えないし、用具類も立派とは言い難く、しかも部員たちの練習態度そのものが非常に注意散漫だ。一般にはあまり知られていないが、野球のボールというのは扱いようによっては立派な凶器になる。前世での私の死因を改めて引き合いに出すまでもなく、頭を直撃されれば生命に関わる場合もあるのだ。だから、そんな硬球や、金属バットのような危険物を扱う練習で気を抜くというのは、まともな活動をしている野球部ならまず考えられない。


 私はふと、前世の記憶にあった弱小野球部のことを思い出した。あそこでは、私という監督の言葉は絶対だったなあ。ケガしたくなかったらマジメにやれィ! と私がひとこと吠えれば、男の子たちは皆、ケツバット怖さに必死で走り回っていたものだ。連戦連敗だったけど、部員たちはみんな仲が良くて、毎日が楽しかった。前世を思い出してからも懐かしさを感じたことはほとんどないが、あの高校の野球部だけは、もし戻れるものならもう一度戻ってみんなに会いたいと思う。



「あれ? お前……もしかして八木沢じゃねえ?」

「へ?」

 突然、後ろから男子生徒の声が私を呼んだ。驚いて振り返ると、どこか見覚えのある少年が、ユニフォーム姿で土手の上に立っている。

「あれ、あなた……」

「なんだ、まだ覚えてねーの? 俺だよ、隣の席の名村良一(なむらりょういち)

「名村君……あ!」

 思い出した。1Bの教室で、私の右隣の席に座っている男の子。何せまだろくに話したこともないから、いかんせん記憶が薄い。

「名村君、野球部だったの?」

「ああ、今年唯一の新入部員だ。これでも一応、期待の新星なんだぜ」

「……あらま」

 自分で言うな、と思う。期待なんてものは、まわりの人間がその人を評して言う言葉だろう。最近流行りの「成長できたと思います」なんていう表現もそうだが、当の本人が口にすると、いささか滑稽に感じるのは私だけだろうか。


 私の間抜けた声の反応に、彼は気を悪くするでもなく笑って近寄ってきた。

「八木沢、お前こんなとこで何やってんの? 一人で」

「野球部の練習を見てたのよ。まさか、知り合いがいるとは思わなかったから」

「え? もしかしてお前、野球好きなのか!?」

「うん。大好き」

 その答えを聞いた瞬間の、彼の顔こそ見ものだった。とたんにパッと嬉しそうな表情になり、満面の笑みを浮かべて隣にしゃがみ込む。

「いやあ、感激だな! この学校で野球好きの女の子に会えるなんてさ」

「そうなの?」

「そりゃそうだろ。何しろ周りは、セレブの気取ったお嬢様だらけ。一塁と三塁の区別も付かないような奴らばっかりなんだから」

「それもそうか」

 実に的確な表現だ。私は盛大に噴き出した。


「そういうことを言うってことは、名村君は『セレブ』の一員じゃないわけね?」

「当ったり前だろ! 俺は立派な平民たぜ。中学で仲良かった先輩に誘われてこの学校を受験したんだけど……まさかマジで受かるとは思わなくてさ」

「受かっちゃったんだ? すごいじゃない」

「お前ほどじゃねえよ。春学期丸ごと欠席したくせに、編入試験全教科満点だったんだって? すげー噂になってるぞ」

「うわ、やめてよ! まぐれまぐれ」

 もうこれ以上、あの試験のことは言われたくない。這々の体で逃げを打つ私に、名村君は可笑しそうに笑いながら問いかけてくる。

「そう言うお前はどうなんだよ? 聞いた話だと、大金持ちのオッサンが後見人になってるそうじゃないか」

 ────オ、オッサンだと? あの秋本会長が!?

「ちょっと、『オッサン』はないでしょ? 私にとっては大恩人なのよ。それに、そこらへんのオヤジとは全然違って、すごくカッコいいおじさまなんだから」

「へえ、そうなのか。で、お前はその娘代わりかなんかなわけ?」

「どうかしらね。亡くなった両親の友達だったらしいけど………別にそれだけよ。それ以外はあなたと同じ、私だってただの庶民育ちですとも」

「それ聞いて安心したよ。じゃあ、この喋り方でも別に構わないよな?」

「今さら何言ってんのよ。もちろん構わないわよ。私だって、お上品なお嬢様言葉なんか使えないもん」

 よし、これで庶民の友達一人ゲットだ。


 名村君は、助かった、と呟くと私の横に座り込んだ。改めて眺めてみると、美形とまでは言いがたいが、けっこう爽やかな、男らしい顔立ちをしている。朗らかで気さくな表情も見ていて気持ちがいい。どう見てもこの学校の制服より、公立校の量産型学ランの方が遙かに似合いそうな男の子だ。


「名村君、練習行かなくていいの?」

「いいのいいの。どうせ誰もマジメにやっちゃいないんだ。いつもは俺が率先してやってるんだし、今日くらいはサボったって文句は言わせねえ」

「なんかそれ、先輩方に対して言う言葉じゃないよね。ホントに大丈夫?」

「平気だって。それより八木沢、お前どこのチームのファン?」

 来た。野球好き同士ならまず真っ先に出る、お約束の質問だ。

「プロ野球? 特にどこっていうのはないかな、野球なら何でも好きよ。だけど、一番好きなのは高校野球なんだ」


 私たちはそれからしばらくの間、土手の草むらの上で野球談義に花を咲かせた。

 私の大好きな高校野球のこと、そろそろ大詰めを迎えるペナントレースの行方。何年前の甲子園でこんなすごい試合があったとか、今年メジャーに行った誰それは最終的に何本ヒットを打てると思うか、とか。前世のおぼろげな記憶までを総動員しながら、話はいつ果てるともなく延々と続く。野球オタクを舐めちゃいけない。こんな話なら、それこそ一晩中だって続けていられるんだ。


 彼曰く、この学校の野球部は私が睨んだ通り、超が付くほど弱いらしい。というか、春からまだ一度もメンバーが九人揃ったことがなく、夏の公式戦にも出場できなかったそうだ。彼をこの学校に引っ張った先輩も野球部員だったそうだが、部の実態を丸隠しにして勧誘したことを悪びれもせず、名村君が入学した後になって、堂々とこう言い放ったという。

「良一、我が部を立て直すのはお前の天命だ。俺は来年卒業だから、あとのことはよろしく頼むぞ」

 勝手だよなあ、と溜息をひとつ漏らし、入学直後に実情を知って愕然とした時のことを面白おかしく話してくれる。彼の話を聞きながら、私は久々に笑いが止まらなくなった。


「なあ、八木沢。そんなに好きなら、お前も野球部に入らないか? マネージャーならいつでも大歓迎だぞ」

「うーん、入りたいのは山々なんだけどねえ。しばらくの間は無理なのよ」

「どうして?」

「私、まだ通院が当分かかるから。運動もまともにできなくなっちゃったしね」

 そう言うと、彼は急に笑顔を消して心配そうな表情になる。どうにも調子が狂うほど、まっすぐな男の子のようだ。

「マジ? まだ完治してないのか」

「うん。リハビリも続けなくちゃならないし、傷跡の処置も残ってるし」

「傷跡って?」

「大きな傷は皮膚移植で隠すの。今のところ、予定はこの腕だけだからもう少しで終わるはずなんだけど」

 私は未だに包帯で覆われたままの右腕を彼に差し出して見せた。最も目立つ腕の傷は、退院直前に皮膚移植手術が行われ、目下のところその回復を待っている状態だ。他の傷に関しては、私の希望で来年以降に回すことになったが、いっそのこともう、これ以上の移植はしなくてもいいかと思ってしまう。


「そうか、女の子だもんな。でも、顔に傷が付かなくて良かったな」

「それがねえ、笑っちゃうんだけど……私、車の中でたまたまヘルメットを被ってたんだよね。そのせいで、頭と顔だけは無傷だったんだって」

「ヘルメット? なんでまたそんなものを」

「へへへ……何でだと思う?」


 実はあの旅行、私のリクエストで、関西に野球を見に行くための旅だったのだ。ちょうど春の甲子園大会が終盤を迎える時期だったし、プロ野球の公式戦もすでに始まっていた。高校野球ファンの私と、タイガースファンの父の思惑がぴったりと一致し、昼は甲子園、夜は大阪ドームで野球三昧だ! という脳天気なコンセプトのもと、父がせっせと集めていたタイガースのユニフォームやら帽子やらが、後部座席で私と同居していた。高速に乗って間もなく、母にそそのかされてヘルメットを被り、ユニフォームを羽織って三人で『六甲おろし』の大合唱を繰り広げていたまさにその時、あの事故が起こったのだ。


 その話をすると、名村君は一瞬ポカンと呆気に取られ、次の瞬間大爆笑した。

「何だよ、じゃあ顔が無事だったのも野球のおかげか? 面白いご両親だな」

「うん。正真正銘のアホ家族だね」

 言ってて自分でも可笑しくなり、二人してひとしきり笑い合う。ちょっと深刻な雰囲気になりかけていたところだったが、また空気が明るくなったようだ。まさに野球サマサマである。


「だからたぶん、今学期中の部活はまだ無理。でも来年くらいなら、もしかすると入れるかも知れない。そうなったら、マネージャーとして入れてくれる?」

 ようやく笑い収めてそう言うと、名村君は大乗り気で頷いた。

「ああ、もちろんいいよ。ってか、入ってくれると助かる。俺一人じゃ、部の立て直しなんて不可能だからな。有能なマネージャーがいてくれれば俺も心強い」

「だけど、以前やってたみたいなシートノックとか、バッティングピッチャーとかはもうできないよ。それでもいいの?」

「そんなことまでやってたのか? 中学で?」

「あ、いや……そうじゃなくて……」

 まずい。マネージャーだの監督だのをやっていたのは、あくまで前世での話だ。中学時代はバスケ部のレギュラーで、野球とはまったく関わりがなかった。だけどそんな話を今、彼にするわけにはいかないし。

「中学じゃなくて、近所の草野球チームで監督みたいなことをやってたのよ。学校では別の運動部にいたの。でももう、そういうのは無理らしいから」

 どうにか誤魔化すと、名村君は気の毒そうな顔になった。

「スポーツ、得意そうなのにもうできないのか。ごめんな、変なこと頼んで」

「い、いや、全然構わないよ。名村君が気にすることじゃないし。それにプレイはできなくても、情報の収集とか、分析なんかはけっこう得意だから。そっち方面で良ければ、いつとは約束できないけど……そのうち必ず協力するわ」

「おう、頼むぞ。それにもう一年もすりゃ、運動だってできるようになるかも知れないだろ? 野球部に入れば少しずつでも始められるし。諦めるなよ、な?」

「……うん。ありがとう、名村君」

 楽観論だが、こんな意見を聞くのは嫌いじゃない。私には彼の精一杯の慰めが、何だかとても嬉しく感じられた。


「とりあえず、明日からは教室でも話をしてくれるかな? 私まだ、クラスの人とろくに喋ってないんだ。なんか避けられてるみたいで」

 恐る恐る言ってみると、名村君はびっくりしたように目を瞠る。

「そんなことないぞ。みんな、お前がどんな奴か判んなくて戸惑ってるだけだろ。あの席の周りは庶民が多いしな、鈴谷とか委員長とかはお前並みに頭もいいから、すぐに仲良くなれると思う。明日、俺からも言っておくよ」

「わあ、助かる! ありがとう名村君、よろしくお願いします」

「ああ、任しとけ。────じゃあ、俺はそろそろ行くから。また明日な」

「うん。練習頑張ってね!」


 先輩方に睨まれてようやく練習に向かう名村君を見送り、私は土手の草むらから立ち上がった。初めて話したクラスメイト。彼とはきっといい友達になれる───そんな確かな予感がする。明日からが楽しみだ。


 私は傍らに放り出していた鞄を掴み、ひとり帰宅の途についた。




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