わたしだけの王様
彼はきっと、どこにも行けない。国中の富を集めた王宮の、その中でも一段と豪華な大広間。聖人の像と絵画、太古の森のように立ち並ぶ重厚な石の柱。その全てに囲まれてなお人々の目を引き付ける玉座の前で、彼が法王の前に跪き、王冠を授けられたとき、一瞬彼の口の端に浮かんだ皮肉げな微笑を見つめながら、わたしはそう思っていた。
「僕は生き残ったんだよ、アンジェリカ。これはその証だ。そして」
これからも生き延びてみせる。
全ての式典が終わり、二人きりになったとき、彼はそう言った。赤い宝石で飾られた王冠をかぶったまま。いとしいひとに、愛を誓うように。
あれから五年。十六で成人の儀と同時に王座についた彼を侮る者は、もうこの国にはいない。彼の敷く政治は苛烈なものだった。彼を憎むものは多い。わたしの父すらも。
生き延びると言ったのに、まるで殺してくれと言わんばかりに、彼は自らの肩に人の恨みを積み重ねていく。国は豊かになり、人心の乱れはなくなっても、王宮の中に渦巻くのは――
もう限界だと、父は言った。わたしが身ごもっているのを知ったとき。
「殺せ」
と。
誰を、とは言わなかった。言う必要もないことだった。これは決まっていたこと。わたしが彼に嫁いだその日から。この日のために、父はわたしを彼に嫁がせたのだから。父がわたしの返事を聞くこともなかった。それも、必要のないことだから。
それからどうやって部屋へ戻ったのか、わたしは覚えていない。ただ苦しくて、泣きたかった。
迷わずにいられたらよかったのに。彼に嫁いだときのまま、ただ父の言うことを聞いていればいいと思い込んだ、こどものままでいられたらよかったのに。
気付かなければよかった。彼がわたしの前でだけ、初めて出会ったときの屈託のない少年の笑みを保っていられることに。わたしにふれる手が、他の誰よりもやさしいことに。そのたびにわたしの鼓動が告げる真実に。
気付かなければよかった。それでも彼は王様で、わたしひとりのものにはならないということに。そして彼もそれに気付いているということに。
気付かなければよかった。彼を失ったあと、彼がわたしにくれた命さえ、この手の中から奪われてしまうということに。
生き延びてみせると言ったのに。そう、言ったのに。
彼はどこにも行けない。わたしのところへ、来てはくれない。自分の意思でそうすることはできない。だって彼は、王様だから。
わたしはこの国が憎い。わたしは彼を縛り付けるすべてのものが憎い。彼に授けられた王冠の輝きが憎い。
父が幾重にも策を巡らせていることは知っていた。わたしはその中のひとつ。それほど期待もされていないたったひとつ。もしもわたしが動かなくても、彼は死ぬ。それを彼も望んでいるから。責任を放り出すことができない彼が、たった一つ放り出したもの。
気付いた瞬間にこみ上げてきたのは、嗚咽のような笑いだった。それは絶望で、希望だった。
そうだ。父の言うことを聞けばいい。何も知らないこどものように。そうすれば、そうすれば――彼の願いも、父の願いも、わたしの願いも叶えることができる。誰にも渡さない。彼も、彼がわたしにくれたものも。全部、ぜんぶ連れて行く。
そして夜のとばりの中で、彼は笑った。
「君が僕の死か」
こんなときなのに、彼は笑っていた。少年のような笑みではなく、愛しいと、褥の上でささやくときのように、艶やかに。その目に映るわたしも笑っていた。笑いながら、泣いていた。
「ずっとこうなることを望んでいた気がする」
わたしも望んでいた。彼が生きている限りどこにも行けないのなら。自ら王冠を投げ捨てることができないのなら。彼の胸から溢れ出した暖かい命が、わたしの手を濡らす。
誰にも渡さない。彼が瞳を閉じる前に、同じ刃を自らの胸に突き立てて、枕元のランプを褥の上に倒した。
誰にも渡さない。彼も、彼がわたしにくれたものも。
最期に目に映ったのは、彼の髪が燃え上がる瞬間だった。赤い宝石で飾られた王冠よりも、ずっと美しい。
「一緒に行こう、アンジェリカ」
耳元で彼が囁いた。
「一緒に行くわ。わたしだけの……」
王様。