第八話 フィクションをフィクションと見抜けないと(小説を楽しむのは)難しい。
アインシュタインは相対性理論の説明の一環として、「好きな人といるときは時間が早く過ぎるように感じるが、退屈な時は時間がゆっくりと流れているように感じる」と言った。人伝に聞いた話なのでうろ覚えだが確か内容はこのようなものだったと思う。
さて、これに関してだが。私もまったくもって同感である。
例えば昨日、私がゆうちゃんと帰っていた時はそれこそ楽しくて、今思えば一瞬だったようにも感じられる。反面、ゆうちゃんを見送った後、一人で帰り始めた時には時間がゆっくりと、それこそ主観的には数か月単位で時間が過ぎたようにも感じる。
また反面、カケル君戦の時はそれなりの疲労感はあったものの、一人で帰っていた時に比べれば早く時間が過ぎた……と思う。それこそ体感的に数か月位の差はあったと思う。ワル子さん戦に至ってはもはや記憶がない。
はてさて、どうしてこのような話から始めたのかというと、私が今朝寝坊した理由をそこにこじつけるためである。
昨夜、数か月とも思えるほど長い時間を過ごした私は、その最中にゆうちゃんと「一緒に登校する」という約束をすっかりと忘れてしまっていた。これが真正ボッチ時代のように一人で真っ直ぐ家に帰っていれば、そんな約束も思い出したのかもしれない(もっとも、あの頃の私にそのような約束ができるわけないのだが)。しかし、昨日の私はカケル君、ワル子さんとの激闘の末、家にたどり着いた瞬間、夕食も食べずに寝てしまった。
そして今朝、アインシュタインが云々の話をする直前、ゆうちゃんとの大事な約束を思い出したというわけである。
そんなこんなで私は現在、ゆうちゃん家へと向かう坂を駆け上っている。
「もう、僕がせっかく何回も起こしたのに」
と、お怒りになっていらっしゃるのは何を隠そう我がパートナーのスー様である。先ほどから正論ばかりしかおっしゃらないので非常に耳が痛い。
「ちょっと……この坂……きつ過ぎ」
「ふん、自業自得だね」
いえ、まあ……全くその通りなわけなのですが。
人間には必ず盲点というものが存在する。もちろんここで言いたいのは視神経的な話ではなく、もっと抽象的な話である。
私は確かに昨日、ゆうちゃん家は意外に近いと言った。しかし、それは帰り道のことである。そして私は現在、坂をかける少女と化している。ここで注意したいのは、昨日の私の言葉は「帰り道では『体感的』に近く感じた」ということであって、「登校時に『体感的』に近く感じる」ことは保証してなかったわけである。
ああ、もしこの「体感」と「現実」との間にギャップがなければ、私は今現実でこれほどの苦労を体感することはなかったのだろう。
「ほら、そんな愚痴を言ってる暇があったら走る走る」
と言って急かしてくるスー。いや言ってはないよ……思ってるだけで。と反論したくはなったものの、私もいよいよポテンシャル(位置エネルギー)の高まりとともに運動エネルギーの減少を痛感することとなったので、口を紡ぐことにした。
今朝の教訓。やはり力学的エネルギーは保存する。
前半のアインシュタインの話で「数か月」を強調してる意味が分からないって人は、お手数ですが掲載日を見比べてください。
大変申し訳ないですが。