第1話 勇者?いいえ、パン屋です
――気がつくと、真っ白な空間に立っていた。
天井も床もない。ただ白の中に俺一人。いや、一人ではない。
「勇者よ!」
澄んだ声が響く。目の前に現れたのは、金髪に純白の衣をまとった女神のような存在だった。
目が覚めるような美しさ。けれど、その口から出た言葉に俺は思わず固まった。
「この世界は今、魔王の脅威にさらされています。選ばれし者よ、どうか勇者となり、魔王を討伐してください!」
「……は?」
俺はぽかんと口を開ける。何を言っているんだ、この人。
「ちょっと待て、俺はただのパン屋だぞ」
「……え?」
「しかも前世、パンが売れなくて借金まみれ、過労で倒れて死んだんだ。勇者なんて柄じゃない」
女神は困惑したように眉をひそめる。俺は続けた。
「でも……パンを焼くこと自体は、大好きだった」
そう。俺は前世で、街角の小さなパン屋を営んでいた。
客は少なく、流行りのふわふわスイーツパンには太刀打ちできず、結局は生活も苦しくなり、働きすぎて心臓が止まった。
――悔しかった。パンそのものは、決して悪くなかったのに。
「もう一度やりたいんだ。今度はパンで人を幸せにしたい」
「ですが……あなたは“勇者”として召喚されたのです!」
「勇者? いや、俺はパン屋だ」
「…………」
女神の笑顔が引きつった。
すまんな、女神様。あんたの期待には応えられない。俺の道は勇者じゃない。
「……仕方ありません。では少なくとも、この世界で生き抜くための加護を授けましょう」
女神は杖を振ると、俺の体に光が宿った。
胸の奥に、底なしの泉のような感覚が広がる。
「“魔力無限”。あなたに与えるのは、このスキルです」
「……は?」
「どれだけ魔力を使っても尽きない――世界でも稀に見る力です。勇者としてはもちろん、日常生活にも役立つでしょう」
「……火加減が安定するな」
「は?」
「窯の温度を一定にできる。パン焼きにぴったりだ」
「…………」
女神が完全に固まった。勇者スキルをパン屋利用とか、想定外なのだろう。
だが俺にとっては最高の力だ。
「ありがとう女神様。俺、今度こそパン屋としてやり直すよ」
「ちょ、ちょっと……世界はどうするんですか世界は……!」
「俺の世界は、パンの中にある」
そう言い残した瞬間、白い空間がかき消え、俺の意識は闇に沈んだ。
目を開けると、そこは石畳の通りだった。
木造の家々が並び、見慣れない服を着た人々が行き交っている。馬車の音、露店の掛け声、漂う香ばしい匂い――。
「……本当に異世界に来ちまったな」
気を落ち着け、俺は辺りを歩く。
門を抜けると、活気ある町並みが広がっていた。
商人が荷を運び、子供たちが追いかけっこをし、通りにはいくつもの店が並んでいる。
胸の奥で、わずかに高揚感が芽生える。
――ここなら、俺のパンを広められるかもしれない。
前世で果たせなかった夢を、今度こそ。
「よし……まずは店を探すか」
そう呟いた俺の異世界パン屋ライフが、ここから始まったのだった。