カイストとサリカ
カイスト・オベイロンは貧乏だった。
彼が生まれ育った「スラム」と呼ばれる場所は、街の外れにひっそりと存在する、貧困にあえぐ人々が肩を寄せ合って暮らす小さな集落である。
この集落では、ほとんど毎日のように誰かが“飢え”によって命を落とした。
だが亡骸は埋葬されることも、火葬されることもなく、死んだその場に放置されてしまう。
それほどまでに住人たちには余裕がなく、皆が「今日をどう生き延びるか」だけに必死だった。
カイスト・オベイロンもまた、その一人だった。
今日も彼は、集落から離れて街の商店通りへと足を運び、盗みを働く。
飢えをしのぎ、明日へと繋ぐためには、盗みで食料を得る以外の道は残されていなかった。
今日を生きるために盗む。明日も、そのまた明日も――。
カイストは商店通りで、誰にも悟られることなく日々盗みを繰り返していた。
そんなある日。
彼は商店通りの出入口付近で、一人の少女と出会う。
名はサリカ・レスター。裕福街からやって来た、黒髪の可憐な少女だった。
カイストは、その姓に聞き覚えがあった。
幼い頃、母親から教わった記憶が脳裏によみがえる。
レスター家――古の時代より伝わる“魔封術”を操る、由緒ある貴族の一族。
この街でも特に名の知れた家柄であり、財力も桁違いだった。
カイストにとって、それはまさしく格好の獲物だった。
彼の心には、サリカを見過ごすという選択肢など、初めから存在していなかった。
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「闘技会…?」
「うん。今年は私、それに出なくちゃいけなくなっちゃって…」
商店通り。出入口近くの噴水広場。
噴水のそばに置かれたベンチに腰を下ろし、カイストとサリカは話していた。
サリカの口から出た「闘技会」という言葉に、カイストは思わず首をかしげる。頭の上に「?」が浮かんでいるのが見えるようだった。
闘技会――。
それはこの街で年に一度だけ行われる一大イベント。
その年に開催を宣言した者が主催者となり、事前に名を連ねた挑戦者たちと一対一の戦いを繰り広げる。街全体を巻き込み、熱狂させるための娯楽の祭典である。
「本来ならお兄ちゃんが出るはずだったんだけど…今は他国に行っちゃってて。だから代わりに私が、ってお父さんが」
「サリカ、戦えるのか?」
「一応ね。これでも魔封術師の端くれだもん。少しくらいなら戦えるよ」
そう言って、サリカは懐から一枚の札を取り出す。
淡く光を帯びた、魔法陣の描かれた札――魔封術師の証。
「それは?」
「魔封術師の札だよ」
カイストはそれを覗き込む。
円陣の周囲には、見慣れない文字が刻まれていた。
だがスラム育ちの彼に文字を読む習慣はなく、眉をひそめて難しい表情を浮かべるしかない。
そんなカイストを見て、サリカはふっと笑った。
「ふふ。…そこにはね、私の名前と、その子の名前が書いてあるの」
「名前?」
「うん。…その子の名前は“春風”。少しだけ色がピンクっぽいでしょ?だから春風」
「……………」
名前を聞いても、カイストにはいまいちピンとこない。
札を返しながら、頭を悩ませる。
「なんで名前なんて付けるんだ?」
「術師に認識させるためだよ」
「認識?」
問い返すと、サリカは札を高く掲げてみせた。
「春風と私は“一心同体”。これはね、どの術師も同じなの。最初、この札には何も描かれていない。でも、術師の精神力を注ぐことで初めて魔法陣が浮かび上がるの。精神力が強いほど形は複雑になって、より強力な魔封術を使える。そして“札の声”を聞いて契約を結ぶことで、術師を認識するの。『あなたの主は私』ってね」
そう言って、彼女は札を懐に戻した。「難しい話しちゃったかな?」と眉を下げるサリカに、カイストは慌てて首を横に振る。
――だが彼の頭の中は、完全にパニックだった。
「…え、えっと、その闘技会ってのは、人はたくさん来るのか?」
「うん。毎年すごい人だよ」
「それは、サリカみたいな貴族の人も?」
「うーん、詳しくは分からないけど…たぶん来てるんじゃないかな」
「……そっか」
カイストはこっそりと頷く。
闘技会の会場には、金を持つ人間が大勢集まる。
貧困にあえぐ彼にとって、それはまさしく絶好の機会だった。
「闘技会って、いつあるんだ?」
「…興味あるの?」
「え!? あ、いや…その、サリカも出るんだろ? お、応援しに行きたいなって…」
肩をびくりと震わせ、引きつった笑顔を浮かべる。
本心は絶対に悟られてはならない。いくら話を交わしていても、サリカは結局“盗む相手”にすぎないのだから。
「…やっぱりカイストくんも男の子なんだね」
「戦いは好きだぞ」
――戦い。と書いて、泥棒。と読む。
「……はぁ」
サリカは小さくため息をこぼす。
それでも彼女は、闘技会の日取りと会場を教えてくれた。
「さんきゅー、サリカ! 絶対に行くからな!」
「うん…。 (不甲斐ない姿だけは見せられない…)」
闘技会の話を聞いて、目を輝かせるカイスト。
そんな彼を見つめながら、サリカの胸には不安が広がっていった。
――この時、カイストは十五歳。
――サリカは十歳。
そして今年もまた、闘技会は変わらずに幕を開けようとしていた。




