魔王の城
「…………ん、」
ぼんやりと目を開けると、そこは暗く、湿った匂いの漂う部屋だった。
視界の端には簡素なベッドと、底の乾いた空のバケツ。かすかに鼻を刺す刺激臭が、眠気をじわじわ追い払ってくる。
正面には古びた木製の扉。塗装は剥がれ、金具はくすんで所々に錆が浮いていた。
「………あー……ここ、どこ?」
喉の奥から思わずため息が漏れる。
──僕は、どこに送られてしまったんだ?
試しにドアノブを回す。ガチャリ、と固い音。内側には鍵穴はなく、外からしか開けられない造りらしい。
「出られないなら……壊すしかないよね」
扉から数歩下がり、手を伸ばす。
掌に集めた風が渦を巻き、次の瞬間──
どーん!
扉は吹き飛び、反対側の壁にぶつかって激しい音を響かせた。
「……うん、緊急事態だし、弁償はいらないよね」
石造りの無機質な廊下に出ると、奥に階段が見えた。駆け寄って登ると、赤い絨毯が敷かれた長い廊下が広がる。
窓の外に目をやると、紫色の空が広がっていた。雲は不自然に渦を巻き、まるで空全体が魔力で染まっているようだ。
「……なんか、すごく紫……」
その異様さに顔をしかめた瞬間、廊下全体にビーッ!と警報のような音が響き渡る。
肩が跳ね、心臓が一拍遅れて早鐘を打った。
音の方向を見ると、遠くから丸い何かがコロコロと転がってくる。近づいてくるそれは、歴史書で見たボーリングの球ほどの大きさの鉄球のような物体──ただし、前面に目があった。
「な、何……?」
[ボクヲサガシテル?]
無機質な声が響く。
思わず首を傾げる。
「……いや、君は探してないよ?」
[ジャア、ナニサガシテル?]
「探してるっていうか……ここがどこなのか知りたい」
すると、鉄球の一部がパカリと開き、そこから淡い光が走った。光は途中で左右に分かれ、空中に立体的な地図を投影する。
「……ちょ、なにそのハイテク……!」
[ココ、マオウノシロ。ボクタチ、イマココ。ココ、マオウイル。マオウ、チカヅイテクル]
投影された地図には、赤い点がゆっくりとこちらに向かって動いている。
「……え、魔王?……近付いてくるって言った!?」
あたふたと視線を走らせるが、廊下には隠れられる場所などない。
[マオウチカヅク。コマル?]
「……そりゃ困る……!」
脳裏に、もし見つかった時の会話パターンを必死に探す。
──"巫女様の力でここに飛んできました"、なんて正直に言えるわけがない。
その時。
「おい、誰だ?俺の城に土足で踏み込んだのは?」
背後から低く響く声。反射的に振り返ると、黒いマントを羽織った紺髪の男の人が立っていた。
彼の視線が僕をとらえる。鋭く、しかしどこか訝しげに。
鉄球はコロコロと僕の周囲を回る。その様子を見て、男の人は眉をひそめた。
「……なんだ、子供か。その足元にいるのは……なんだ?」
どうやら、この丸いのは彼の持ち物ではないらしい。
「あ、あの……ここは、あなたの家ですか?」
「ん? ……まぁ、家といえば家か。住んでるわけだしな」
──この人が、魔王……?
そういえば、ここに飛ばされる前、巫女様が確かに言っていた。"魔王に──"と。
「お前、名前は?」
「え?」
「だから、名前だよ。名前。あるだろ?」
「あ、ああ。はい。僕は…」
言われるがまま、僕は男の人──いや、目の前の“魔王”に自分の名前を告げた。
名前を聞いた魔王さんは、短く息を吐き出す。
「……そうか。お前、どうしてこんなとこに居るのか知らんが、早く城から出て行け。下手すりゃ俺の仲間だと勘違いされる」
腕を組んで言う口調はぶっきらぼうだが、その眼は妙に真剣だった。
言葉の裏に、何か事情があるのが伝わってくる。
その時、足元でコロコロと転がっていた丸い機械が、僕と魔王さんの間まで転がってきて、突如として宙に地図を映し出した。
急な光に、思わず目を細める。
「おわっ、なんだ!?」
[ユウシャ、クル。コッチ、チカヅク]
「……勇者?」
勇者──。
首を傾げる僕の脳裏に、巫女様の言葉が浮かんだ。
たしか、アレス……シャーリーさんの幼馴染だと言っていた名前だ。
「……アレス」
魔王さんは低く呟く。その声音には、険しさと何か別の感情が混じっていた。
そして、こちらを一瞥すると短く「ついてこい」とだけ言い、背を向けて廊下を駆け出す。
長いマントが翻り、足音が石造りの床に鋭く響く。
出口もわからない僕は、逆らうより従う方が安全だと判断し、慌てて丸い機械を抱き上げて後を追った。
廊下はやたらと広く、天井は高いのに薄暗く、どこからか冷たい風が流れ込んでくる。
やがて辿り着いたのは、天井まで届く巨大な扉の向こう──荘厳な広間だった。
正面の玉座には、一本の剣が飾られている。
魔王さんは迷いなくその剣を手に取り、鞘を足元に放り捨てた。
金属音が床に響き、空気が一層張り詰める。
僕の腕の中で丸い機械は相変わらず地図を映し続けていて、その光点がゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてきている。
──そして、数秒後。
広間の扉が勢いよく開かれ、一人の青年が飛び込んできた。
「ようやく見つけたぞ!」
腰の剣を抜き放ち、切っ先をまっすぐ魔王さんに向ける。
その瞳は、燃えるような怒りと決意でぎらついていた。
声の方へと視線を向けた魔王さんは、一瞬だけ眉をひそめ、相手の顔をじっと見つめる。
そこには、戦いの前にしか生まれない沈黙があった。




