ミュレス・バーンズの呪い
ミュレス・バーンズは、冷たく湿った地下牢に居た。
牢の隅、膝を抱えて地べたに座るその姿は、まるで影のように細く、痩せこけた顔は今にも崩れ落ちそうだった。衣服は埃と土にまみれ、皮膚は不健康なほど白い。与えられる食事は、日に一度の、形の崩れた硬いパンとぬるい水だけ。
理由は単純で、しかし残酷だった。
彼女には"才能"がなかった。巫女としての力が備わらなかった彼女は、生まれて間もなくこの牢へ閉じ込められた。
ミュレスには双子の姉がいる。
姉の名はミュルス・バーンズ。彼女は巫女の才能を持ち、その力を村のために使える者として称えられ、両親から惜しみない愛情を注がれて育った。
ミュルスは妹の存在を知らなかった。両親から「お前は一人っ子だ」と教えられ、それを疑ったこともない。──ただ、ある出来事がきっかけで彼女は初めてミュレスと出会い、全てを知ることになる。
その日が来るまでは、ミュレスは暗く湿ったこの空間で、世界の広さも光の色も知らぬまま生きていた。
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時間の流れは、ここでは意味を持たない。
人工太陽の日の出も日の入りもわからず、ただ暗闇の中で呼吸を続けるだけ。
文句を言うこともない。
声を上げることもない。
目を閉じていても、開けていても、景色はほとんど変わらない。
──このまま息絶えるその時まで、きっと私はこうしているのだろう。
そう諦めきっていたミュレスの前に、ある日、一人の少年が現れた。
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『…おい、誰か居るのか?』
地下牢に、少年の声が響いた。
ミュレスは、何か遠い音を聞くようにゆっくり顔を上げる。
薄暗い通路の先、鉄格子の向こうで木の柱を握り、中を覗き込む少年の姿があった。彼はまだ十代前半ほどで、光を帯びた瞳が暗がりの中でも印象的に見える。
視線が合うと、少年は肩をびくりと揺らした。
『…っ、び、びっくりした…』
『………』
『って…女の子?こんな所に?』
怪訝そうに首を傾げる少年。
ここに女の子が一人でいることが、彼には信じられないようだった。
扉に手をかけ、開けようとする。だが、音を立てるだけで鍵はびくともしない。
『え、鍵掛かってる?』
『……無理だよ』
『!』
『そこは開かない。ずっと閉まってるの。鍵も存在しない』
『ずっと…って…。もしかして君、ずっとここに居るの?』
『……うん。生まれてからずっと』
『生まれてから──ずっと!?』
少年は、息を飲んだ。
自分と同じくらいの年頃に見える少女が、十年以上もこの暗闇に閉じ込められてきたなんて──あり得ない、と。
少年の眉間に皺が寄り、次の瞬間、扉を揺らす音が再び響く。
『……何してるの?』
『決まってるだろ、君をここから出すんだ!』
『どうして?』
『どうしてって…!こんなのおかしいじゃないか!』
『おかしい…?』
ミュレスには、その言葉の意味がわからなかった。
才能のない自分が外に出ても、何の価値もない──そう両親に言われてきたから。
『君の親は何してんだよ!娘がこんな所に閉じ込められてるのに!』
『……………』
自分を閉じ込めたのが両親だとは、彼女は言わなかった。
少年は何かを思いついたように走り去り、やがて先端が尖った木の棒を手に戻ってきた。
ガキン──!
硬い音が響く。
何度も叩きつけられる棒。形を変えていく錠前。そして、ついにそれは壊れ、足元に転がり落ちた。
『……やった!』
開いた扉の向こうから、少年が一歩、牢の中へ入ってくる。距離が縮まり、暗闇の中で互いの顔がはっきり見えた。
『大丈夫か?』
『…………』
『…俺、アレスっていうんだ。君は?』
『……ミュレス』
『ミュレスか。可愛い名前だな!』
『! ……アレスくんの名前も、かっこいい…よ』
『へへ、さんきゅ!』
アレスは歯を見せて笑った。その笑顔を、ミュレスは戸惑うように、それでもほんの少し見つめ返した。
アレスは慎重にミュレスを牢から連れ出し、外へ導いた。
──そして、彼女は生まれて初めて外の空気を吸った。
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『はぁ、もう最悪。なんであいつばっか褒められんだか…』
『ふふふ』
「笑い事じゃねぇって!」
アレスは声を荒げ、眉間に深い皺を寄せた。
その日を境に、彼は毎日のようにミュレスのもとを訪れるようになった。
地下牢から外へ出たあの日、アレスは「しばらくうちに泊まろう」と誘った。しかし、ミュレスは小さく首を横に振り、
「戻らないと、私が逃げたってバレる」
そう言ってその提案を断った。
それでも彼女はすぐには牢へ戻らず、村の道をゆっくりと歩いた。陽の光に細めた瞳や、遠くの山を見上げる横顔。その姿を、アレスは忘れられなかった。けれど最終的には、彼女は自らの足で地下牢へと戻っていった。
──あのまま帰すのは、やっぱりもったいねぇよな。
家に戻ったアレスは、椅子に腰を下ろして腕を組み、しばらく考え込んだ。そして結論は一つ。
また会いに行こう。
次の日、彼は牢の前に立っていた。外に連れ出すつもりだったが、ミュレスは「一度出られたから、もういい」と静かに答えた。拒む声はやわらかく、それ以上は押し切れなかった。
ならば──せめて話し相手になろう。
アレスは外の景色や村の出来事、時には最近の失敗談まで、なんでも話した。彼女が少しでも笑ってくれれば、それでいい。
外の話をたくさんすれば、いつかきっと、また出たいと言ってくれる。そう信じて。
それからも、彼は毎日地下牢を訪れ続けた。
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『……遅いな。アレスくん』
いつしかミュレスは、アレスが地下牢に来るのを心待ちにするようになっていた。
彼が訪ねてくるたび、少しずつ食料を分けてもらい、やせ細っていた身体は年相応の少女らしい姿に戻っていた。
扉はいつでも開け閉めできる。
この地下牢に来るのはアレスだけ。鍵が壊れていることも、この場所が二人きりの秘密であることも、ミュレスにとっては何より嬉しいことだった。
……だが、その日。
時間が刻々と過ぎていく。
アレスが持ってきてくれた時計の長針は、静かに、しかし確実に動いていく。
──午後二時。
二時半。三時。三時半。四時。四時半。四時四十五分。
……いくら待っても、アレスは現れなかった。
『……っ』
胸の奥に、ちくりとした痛み。
会いたい。その気持ちは膨らむばかりで、ついに痺れを切らしたミュレスは牢を抜け出した。
階段を駆け上がり、外へ出る。夜の鐘が鳴り、空は夕焼けに染まって世界が赤く揺れている。
──アレスくんの家は、確かあっち。
迷うことなく足を向ける。だが、家の前に立った瞬間、彼女は立ち止まった。
突然訪ねれば、驚かれるだろうか……そんな不安が胸をよぎる。
そっと家の周りを回り込み、窓を見つけた。
覗き込むと、部屋は空っぽ。だが、奥から微かに声が聞こえる。
アレスの声だ──すぐにわかった。
……だけじゃない。もう二つ、楽しげな声が混じっている。
目を凝らすと、奥の部屋でアレスと、年の近そうな少年と少女が笑い合っていた。
三人とも、とても楽しそうだった。
ミュレスは視線を落とし、窓から離れる。
背を向け、静かにその場を去った。
地下牢へ戻る道の途中。胸の鼓動が速まる。
アレスの笑顔を見た瞬間から、どうしようもなく悲しい気持ちが押し寄せていた。
『……ひっく……』
頬を伝う涙。理由はわからない。
それでも、止まらない。
──そのとき。
『おや、どうしたんだい?』
声に顔を上げると、そこに老婆が立っていた。
白い髪を後ろで束ね、深い皺の間から優しい笑みを覗かせている。
『こんな所にいたら風邪をひくよ。お家にお帰り』
『……家なんて、ない……』
『……?』
『私、ずっと一人なの。一人で、牢に……ひっく…』
涙をこぼし続けるミュレスに、老婆はふっと口元を緩め、懐から小さな黒い箱を取り出した。
『……これは?』
『その箱はね、開けると幸せになれる不思議な箱だよ。お前さんにあげる』
『幸せに……?』
蓋を開ける――中は空っぽ。
顔を上げたときには、もう老婆の姿はなかった。
翌日。
ミュレスの周囲で異変が起こった。
姉・ミュルスから、巫女の力が失われたのだ。
激怒した両親は、ミュルスをミュレスと同じ地下牢に閉じ込めた。
鉄格子の向こうで、二人の視線が初めて交わる。
『あなたは……?』
『私はミュレス。あなたは?』
『ミュルス……』
ミュルスは戸惑っていた。巫女の力は本来、一生消えることのないもの──それがなぜか、跡形もなく失われた。
そして両親の怒りの理由も、牢に入れられた理由もわからない。
彼女が泣き出すのを、ミュレスは黙って見つめる。
口元には、ほんの僅かな笑み。
──わかっている。
力は消えたのではなく、自分の中へ移ったのだと。
胸の奥で、黒い渦が囁く。
「欲しいものがあるなら、どんな手を使ってでも手に入れろ」
『ねぇ……ミュルス』
『……?』
その日、ミュレスは初めて巫女の力を使った。
──彼女の傍らにあった黒い箱の存在を、知る者はいない。
そして数年が過ぎ、ミュレスは十九歳になった。




