見えない少女の噂
“見えない少女”という噂は、この街ではよく知られていた。
街の出入り口に立つ門番の話によれば、その少女は姿こそ見えないが声だけははっきりと聞こえるという。
噂では、街の外れにある教会付近――そのさらに先の墓地辺りに現れるらしい。
だがしかし、この街の外れに墓地は存在しない。あるのは、ただ無駄に広い湖だけだ。
湖の中心には、錆びついた銅像が一つ。何年か前、ある金持ちが捨てたものらしく、特に怪しいところも見当たらない。
結局のところ、この話はただの作り話なのかもしれない。
“見えない少女”は、声は聞こえるが姿は見えない。
この国の人々は、その不可解な噂に日夜翻弄されていた。
本当に、この街に“見えない少女”と呼ばれる存在がいるのか──それは、誰にもわからなかった。
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「はぁ……はぁ……っ!」
シュリーナ・プルクフェルトは走っていた。
暗い、暗い空間の中を、ただ必死に。
「はぁ……はぁ……!誰か!誰か助けて!」
背後から、ヒタッ、ヒタッ……と、何かが床を踏みしめる音が聞こえる。
その音は、じわりじわりと彼女に近づいてくる。
「はぁ……っ、きゃっ!」
足元がもつれ、勢い余って地面に倒れ込んだ。
最初は転んだだけだと思った。だが、ゆっくりと上体を起こし、振り返った瞬間――
目の前に、男性の身体が横たわっていた。
暗がりにもかかわらず、その輪郭ははっきりと見えた。顔は反対側を向いていて、表情はわからない。
しかし、その体型と衣服――間違いなかった。
それは彼女の父親だった。
ぐったりと倒れた父の身体から、赤黒い血がどろりと流れ出す。
その生温い液体が、ドレス越しに彼女の足を濡らしていく。
「お……父さま……」
声が震えた。
そして、背後から再び、ヒタッ、ヒタッ……と、あの音が迫る。
その時、耳の奥に声が響いた。
『シュリーナはどこ?』
『シュリーナ様が居なくなった』
『家出をしたのか?』
『今頃、きっとどこかで泣いている』
『早く見つけなければ』
それは、家族や使用人たちの声だった。
必死に彼女を探している――はずなのに。
……けれど、どれだけ探そうとも、きっと彼らは彼女を見つけられない。
「……~~~~っ!」
ヒタッ、ヒタッ……。音が耳をつんざくほど大きくなる。
シュリーナは両手で耳を塞ぎ、頭を振った。
誰か助けて――。
誰か私を見つけて……。
何度も、何度も心の中で叫ぶ。
だが、その声は誰にも届かない。
音の正体は、もうすぐそこまで来ていた。
きっと、このままでは呑み込まれてしまう。
この国には、彼女を救える者などいなかった。