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初恋シンドローム  作者: 花乃衣 桃々
◆第3章 初恋
3/4

第3話


 ばたん、と自室のドアを閉めると力が抜けた。

 床に鞄が落ちたのもそのままに、背中を滑らせてへたり込む。


『俺を選べばいい』


 おさまる気配のない鼓動がどきどきと強く打っていた。

 胸に手を当て、深々と息を吐き出す。


(あれって……告白、だよね?)


 さすがにそれまでもを“忘れて”とは言わなかったけれど、返事を求められることもなかった。


 衝動的に口走ったわけじゃなくて、伝えることが目的だったのだろうか。


(でも、本当にそうだったんだ……)


 ここのところの意味ありげな態度や言葉は、勘違いなんかじゃなかった。

 悠真は本当にわたしを想ってくれていたんだ。


 戸惑いと照れに包まれる一方で、素直に嬉しいと感じている自分がいた。


 だけど、何かが引っかかったままで、感情がストレートに流れていかない。


「…………」


 “意味ありげな態度”の中には、そういう思わせぶりなもの以外も確かに含まれているのだ。


 終始何か言いたげなのに、結局は口をつぐんで背を向けてしまう感じ────そこに恋心が関係しているのかは分からないけれど、ずっと不自然だった。


『せっかく再会できたんだから、俺に構わずふたりで仲良くやればいいじゃん』


 当初そう言っていたように、大和くんへの遠慮だったのかな。


(それだけじゃない気がするけど……)




     ◇




「行ってきまーす……」


 一夜明けても、心は落ち着かないままだった。

 帰り道でのことを思い出すたび、鼓動が騒いで熱が舞い戻ってくる。


(ど、どんな顔して悠真に会えば……)


 包み込むように両手を頬に当てながら歩を進めた。


 ばったり会ってしまったらどうしよう?

 いままで通りに接せられる自信なんてない。


 どのみち教室で顔を合わせることにはなるし、学校へ着くまでに心の準備ができるわけもないのだけれど。


 あのとき、悠真はわたしの答えを欲していなかった。

 このまま、なかったことにするべきなのかな?




 昇降口で靴を履き替えていると、ふと視線を感じた。

 開け放たれた大きな玄関扉の前に悠真が立っている。


「あ……」


 どき、と心臓を()られた。

 思わず目を逸らすと、言葉を探すように視線を彷徨(さまよ)わせる。


「…………」


 そうしているうちに、すっと彼が横切っていった。


 喉に詰まった“おはよう”のひとことさえ押し出す勇気もなくて、黙って見つめることしかできない。


 わたしを視界から、意識から追い出すようにして靴を履き替えた悠真もまた、無言のまま歩いていってしまった。


(……やっちゃった)


 完全に元通りとはいかなくても、以前のような関係を保つことは不可能じゃなかったはず。


 わたしが普段通りに声をかけることができたなら、それをきっかけにすれば気まずくならずに済んだのに。


 一度タイミングを逃してしまったとなると、次に巡ってくる機会ではきっと倍以上の勇気がいる。


 それさえ掴めなかったら、もうこの先もずっとこのままになってしまう。


「……おはよう」


 ふと声をかけられて振り向くと、大和くんの姿があった。


「お、おはよう」


 何も気後(きおく)れする必要なんてないのに、なぜか彼にまで遠慮がちなおぼつかない態度になってしまう。


「なに、越智と喧嘩でもしたの?」


「喧嘩はしてないけど……もしかしてさっきの見てた?」


「たまたまね」


 そう答えた大和くんの顔からふと笑みが消える。


「普段は風ちゃんのことしか見てないあいつが、あんなにそっけないなんて珍しいなって驚いてる」


 ばたん、と彼は靴箱の扉を強く閉めた。

 ふいに響いた大きな音に、びくりと肩が跳ねる。


「……風ちゃんさ、喧嘩じゃないなら何があったの?」


 いつもの温和(おんわ)な雰囲気からはおおよそ想像もつかないような、冷ややかな眼差しだった。

 よっぽど機嫌が悪いのか、いらついて見える。


「え……?」


「様子おかしいよね、どう見ても。髪飾りもつけてないし」


 そう言われ、慌てて結び目に手をやった。

 いまのいままで気づかなかったけれど、今日はリボンをつけてくるのをすっかり失念(しつねん)していた。


「いつもつけてて、って言ったのに」


「ご、ごめん。忘れちゃって」


 詰め寄るよってくるような大和くんに怯み、逃れるべく一歩あとずさる。

 肌の表面がひりつくみたいな不穏な空気が漂った。


「ねぇ……まさか俺以外を選ぶつもりじゃないよね?」


「え……」


 小首を傾げた大和くんは微笑みをたたえていた。

 だけど、そこに温もりは感じられない。


「きみが俺を選ぶことは10年前から決まってるんだよ。俺たちは結ばれる運命にあるんだから」


 一歩、二歩、とゆっくり歩み寄ってくる彼は、わたしだけを捉えて恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべていた。


「や、大和くん……?」


 我を失っているようにしか見えない。ぞくりとした。

 彼の抱く理想と幻想の世界に引きずり込まれるんじゃないか、と怖くなった。


 尋常じゃない気配を感じてさらにあとずさるけれど、すぐに背中が靴箱に当たってしまう。


「それ以外はありえない。認めないから────」


 正面で足を止めた大和くんの手が、わたしのすぐ横に置かれた。


「ねぇ、風ちゃん。俺はね、きみの存在だけを心の支えにして生きてきた。思い出に(すが)って耐えてきたんだよ」


 そう言った彼からは余裕がなくなっていた。笑みが消えていた。

 切なげな色の滲む瞳に吸い込まれる。


「……なのに、やっと会えたと思ったら、きみはほとんど何も覚えてなかった。俺の気持ちが分かる?」


「……っ」


 覚えていなくても大丈夫、なんて言ってくれたのはやっぱり彼の気遣いだったんだ。


 その優しさに甘えて、わたしは大和くんを傷つけていた。

 彼の本心も知らないで、自分ばかりを優先して。


 いたたまれなくなって唇を噛み締めたとき、大和くんが口を開く。


「それでも、あの約束だけは諦めきれなかった」


 わたしの中にある唯一の思い出、その一場面が頭に浮かぶ。

 あのとき見ていた景色は同じだったのだろうか。


「きみを手に入れるためなら何でもする。いくらでも尽くすよ」


 先ほどまで胸を掠めていた不安や恐怖は消え去って、代わりに重たい罪悪感がのしかかってきた。


 脚に力を入れて立っていないと、押し潰されて崩れ落ちそうになるほど。


 彼を振り回しているのは紛れもなくわたしだ。

 覚えていないせいで。答えを先延ばしにしているせいで。何もかも曖昧なせいで。


 大和くんが本物だとか偽物だとか、いまはどっちだってよかった。

 どっちだって、わたしが目の前の彼を傷つけたことに変わりはない。


「大和くん、わたし……」


「……あの頃。一緒に過ごした最後の年の、夏休みの前。風ちゃん、俺の家に遊びにきてくれたでしょ」


 震える声で言いかけたことを(さえぎ)るように、彼がわざと上から言葉を被せた。

 す、と壁についていた手を下ろす。


「いつも喧嘩ばかりの両親だったけど、そのときだけは笑ってた。風ちゃんが持ってきてくれたフルーツタルトをみんなで食べてさ」


「…………」


「苺とかオレンジとか色々乗ってたけど、その中のメロンが────」


「……美味しかった、よね」


 とっさにそう口にしたのは、ちぎれるほど心が痛くなったからだった。


 大和くんの口にするその場面を、わたしはやっぱり思い出せない。

 そもそもそんな出来事が実際にあったのかどうかすら定かではないけれど。


 わたしを“あの頃”に引き戻そうと、繋ぎ止めようとする姿が、はびこる罪悪感に拍車(はくしゃ)をかけた。


 これ以上、傷つけたくなかった。


「風ちゃん……」


 彼ははっとしたような顔で、じっとわたしを見つめていた。

 そのうち眉を下げ、散りそうなほど儚い笑みをたたえる。


「……やっぱりきみは優しいね」


 そっと顎をすくうと、大和くんが顔を近づけてきた。

 呼吸が止まる。

 一緒に出かけた花畑でのことがよぎる。


 拒まなきゃ。拒まなきゃ……。

 高鳴る心音が脈打つたびに焦りへと変わる。


「……っ」


 ぎゅ、と鞄の持ち手を握る手に力が込もった。

 固く口を結んだまま身動きがとれない。


(でも……)


 たった一度のキスでいままでの傷が癒えるのなら。隙間が埋まるのなら。


 想いをまるごととはいかなくても、それだけは受け入れるべきなのかもしれない。


 それが、大和くんのためにできる罪滅ぼしなのかも。


「こんなことだろうと思った」


 意を決して目を閉じた瞬間、聞き慣れた声が空間を割った。


 ふたりしてそちらを向くと、そこには相変わらず淡々とした表情の悠真がいた。


「悠真……」


 驚いて目を見張る。

 先に教室へ行ったはずなのに、戻ってきたのだろうか。


 構わず歩み寄ってくると、ぐい、とわたしの手首を引いて背に隠すようにしながら大和くんと向き合った。


「何してんの?」


 うんざりしたように尋ねる悠真の後ろ姿を見る。

 表情までは窺えないけれど、非難めいた眼差しを向けているのだろうと想像がつく。


 大和くんは悠真からわたしに視線を移したあと、ふと何かを考え込むようにわずかに眉を寄せた。


「いや……」


 目を落としながら呟くように答える。


 いつものように挑発したり器用に誤魔化したりする余裕をなくしているみたいで、それ以上何かを口にする気配はなかった。


(……どうしたんだろう?)


 急に様子が変わった。

 どこか戸惑いを滲ませながら、大和くんはさっさと廊下を歩いていってしまった。


 掴まれた手首の感触が意識されると、また急に緊張が増してくる。


 大和くんからのキスを受け入れようとしていたところ、きっと見られてしまった。

 悠真はいったいどう思っただろう……?


「あの……」


「このまま来て」


 彼はこちらを向くことなく告げると、わたしの手を引いて教室とは別方向へ歩き出す。

 理由も意図も分からず困惑したまま、ただついていった。




 ひとけのない裏庭まで来たとき、悠真は足を止めて手を離した。

 振り返って向き直る。


「……昇降口でのこと、ちょっと聞いてた」


「えっ」


「ごめん、勝手なことして。さっきも……邪魔した?」


 てっきり告白のことを持ち出されるのかと身構えていたけれど、どうやらそうではないみたいだ。

 ふるふると首を横に振る。


「さっきのは……わたし、大和くんとはちがう気持ちだったと思う」


「どういうこと?」


 また色濃く蘇ってきた罪悪感が胸を締めつけてきて、ぎゅう、と両手を握り締めた。


「大和くんは昔の話を色々してくれるんだけど、全然思い出せなくて。そのせいで傷つけてたって分かって、それで……」


 いまになって思えば、ちゃんと拒むのが正しかった。

 中途半端な期待を抱かせてしまう方が、きっとずっと残酷だろう。


「ばか」


 悠真はぴしゃりと言った。


「自分より三枝の方が大事? そんなことも分かんなくなった?」


「そういうわけじゃ……」


 言い方はぶっきらぼうでも、彼なりの優しさだと分かる。

 もっと自分を大事にするべきだ、と言ってくれている。


 だけど、大和くんに対する罪悪感が残っている限り、わたしはまた彼の気持ちを優先してしまうかもしれない。


 次に同じようなことがあったとき、どんな選択をするかは自分でも保証できない。


「……ねぇ、悠真」


 少し考えてから口を開いた。


 いつまでも曖昧にはしておけない。しておきたくない。

 わたしの記憶に空いた穴を、見て見ぬふりはもうできない。


「あの頃のわたしたちのこと、何か知ってるよね?」


 そう尋ねたとき、彼の表情がわずかに強張ったのを見逃さなかった。


「お願い。何でもいいから教えてくれないかな」


 縋るように告げると、一拍置いて悠真が踏み込んだ。

 瞬いた次の瞬間、思いがけないことにわたしは彼の腕の中におさまっていた。


「ゆ、悠真……?」


「思い出さなくていい」


 そのひとことにどきりとする。

 この前もそう言われたけれど、それも同じ意味だったのだろうか。


「どうして……」


 抱き締められた衝撃よりも、強い困惑が渦巻いていた。


「どうしてそんなこと……。どうしてわたしだけが覚えてないの?」


 あの頃のことを知りたい。教えて欲しい。

 もしかしたら、疑惑の正体を掴むことだってできるかもしれない。


「悠真の様子もこの頃変だし、わたしが覚えてないと大和くんを悲しませることになっちゃう。だから────」


「三枝のためだって言うなら、なおさら思い出さなくていい」


 そう言いきった彼は一度わたしを離した。

 両方の肩に手を添えたまま、まっすぐな視線を注ぐ。


「それがきみのためにもなる」


 ────なぜだか頭の中に、ぼんやりとした光景が思い浮かんできた。


『ごめん……』


 耳に残っている、幼い男の子の声。

 それは病室でのささやかな出来事だった。


 あの夏祭りの夜、顔を含めた全身にひどい火傷を負って搬送(はんそう)されたわたしは、そのまましばらく入院することになった。


 その男の子がお見舞いに来てくれたのは、意識が戻って面会が可能になってからのこと。


 “ごめん”と何度も泣きながら繰り返していたものの、どうして謝るのかわたしには分からなかった。

 何言か話したはずだけれど、あまり覚えていない。


 きみは生きてる────ただ、そう言ってくれたことだけは思い出すことができた。


 この記憶は何なのだろう?

 彼は誰だったのだろう?


 過去の出来事が意識を満たしたとき、肩に触れていた温もりが消えた。


 はっと我に返ると、きびすを返す悠真の後ろ姿が目に入る。


「ま、待って」


 思わず慌てて声をかけた。

 彼はぴたりと歩みを止めてくれる。


「それって、悠真は何か……隠してるってこと?」


 これまでの態度や不自然なもの言いからして、いまさらわざわざ尋ねるまでもないことだったかもしれない。


 だけど、聞かずにはいられなかった。

 胸騒ぎのようなものが、じわじわと心を侵食していく。


「……うん、隠してるよ」


 彼は無視することなく答えてくれた。

 あっさりと認め、半分だけこちらを振り返る。


「でも、それは()()()が知る必要ないから」




 教室に戻って席に着くなり、にっこりと大和くんに笑いかけられた。


 何だか妙で、内心(いぶか)しみながら首を傾げてしまう。


 今朝の一連の出来事を思わせないほど普段通りの態度。

 むしろ居心地が悪いような気さえしてくる。


 ────昼休みになると、大和くんは身体ごとこちらに向き直った。


「ねぇ、風ちゃんの好きな食べものって何だっけ?」


「え……?」


 唐突(とうとつ)な、それでいて聞き覚えのある問いかけだった。

 思わず聞き返したものの、彼は浮かべた笑顔を崩さない。


「えっと……チョコ、かな」


「ああ、やっぱそうなんだ。昨日は俺に選ばせてくれたけど、それならあれで正解だったんだね」


 いっそう笑みを深める彼だけれど、一方でわたしは得体の知れない奇妙な感覚を覚えていた。

 ざわざわと胸の内が騒ぐ。


「…………」


「どうかした? 今朝のこと怒ってる?」


 ついまじまじと見つめてしまうと、不安気な顔で大和くんがそう首を傾げた。


「あ、ううん! そんなことは……」


「じゃあさ、仲直りの印にこれあげる」


 わたしの返答なんてもともとどっちだってよかったのか、彼はそう言って何かを取り出す。


 机の上に並べられたのはふたつの飴だった。ピーチ味とレモン味。


「風ちゃんの好きだった方選んでいいよ」


 ふたつの飴の間で視線を行き来させ、眉を寄せたまま大和くんを見上げた。

 やっぱりと言うべきか、優しい笑顔しか返ってこない。


(好き()()()方……?)


 妙な言い方だった。

 どういうことなんだろう。


 ひとまずそれをさしおいても、先ほどの質問だけじゃなくて、この流れにまで既視感(きしかん)があった。


 今度はわたしがかまをかけられているとでも言うのだろうか。

 いったいどうして?


 彼を疑っていたことに気づかれた?

 まさかその仕返し?


(確かにすごく微妙な、というか嫌な気持ちにはなるかも……)


 わたしは唇を噛み締めながら、また机の上の飴に視線を戻した。

 もう一度ふたつのそれを見比べる。


「じゃあ、こっち……もらうね。ありがとう」


 おずおずとピーチ味の方を手に取った。

 大和くんは「なるほど」とでも言いたげに頷き、またにっこりと笑う。


「うん、どうぞ」


 特に言及されることもなく、あっさりとした反応だった。

 それはそれでどう受け取るべきか分からない。


(どういうつもりなんだろう?)


 袋を開けて飴玉を口に放り込む。

 ますます彼の本心が見えなくなったような気がして、少しだけ息が詰まった。




 午後の授業が始まってから10分くらいが経った。

 何気なく隣を一瞥(いちべつ)したとき、大和くんの様子がおかしいことに気がつく。


(体調……悪いのかな?)


 口元を手で覆ったままうつむいていた。

 不規則な呼吸を繰り返す彼の顔は、色をなくしているように見える。


「大和くん、大丈夫……?」


 小声でそう尋ねると、彼は首を横に振った。

 声を出す余裕もないみたいで、わたしは慌てて手を挙げた。


「せ、先生」


 ────授業中の静かな廊下を彼と歩いていく。

 隣の席だから、という理由でわたしが保健室まで付き添うことなった。


(大丈夫かな……)


 その間も彼の口数は少なくて、心配な気持ちが膨らんで止まない。


「失礼します」


 階段を下りてたどり着いた保健室の扉をスライドさせるけれど、中に先生の姿はなかった。

 ほかに人もいなくて、静まり返っている。


「大和くんはベッドで休んでて。わたし、先生呼んでくる」


 カーテンを閉めておこうと手をかけたものの、歩んできた彼はまっすぐベッドへ向かわなかった。

 ふわ、とふいに後ろから抱き締められる。


「え……っ」


 息をのむ。心臓が跳ねる。

 あまりに突然のことに、まともに動揺してしまう。


「風花」


「具合、悪かったんじゃ……」


 混乱をあらわにしながらも、とっさに()がそうと彼の腕に触れた。

 だけど、その前に身体が反転して向かい合う形になる。


「あんなの仮病だよ」


 確かに先ほどまでの蒼白(そうはく)な顔色ではなくなっていた。

 いつも通りの余裕に満ちた微笑をたたえ、触れていたわたしの肩を押す。


「え、え? ちょっと……」


 意思によらず後ろ側に体重がかかり、バランスを崩した。

 太ももの裏にベッドが当たって、とさ、と図らずも腰を下ろす羽目になる。


 それでも大和くんは止まってくれなくて、そのままマットレスの上に膝をついた。

 ぎし、とわずかに軋む音がする。


「こんなチャンス、逃すわけないでしょ」


 気づいたらわたしの背中もベッドに触れていた。

 彼に覆い被さられていて、さっきの比にならないくらいの動揺があとから追いついてくる。


「や……!」


 圧倒されて動けなかった身体に無理やり感覚を呼び戻して、押しのけようと手を伸ばした。

 だけど、それが及ぶ前にあえなく捕まってしまう。


「だーめ。暴れないで」


 両手首を頭上でまとめ上げられる。

 わたしの抵抗をおさえ込むのには、片手でこと足りるみたいだ。


「な、何の冗談……?」


「冗談なんかじゃないよ。ほら、力抜いて」


「やだ……っ」


 身をよじって抜け出そうともがいたけれど、力で敵うわけもなかった。


 焦りが募って、ばくばくと心臓が暴れる。

 感情に揺り動かされ、知らないうちに呼吸が浅くなっていた。


「……ここ、病室を思い出すね」


 ふと、懐かしむように彼がこぼしたひとことに思わず動きを止める。


「病、室?」


「風ちゃんは忘れちゃったかな。入院してたきみに毎日会いにいってたんだけど」


 そのことは、以前に悠真と話したことでわずかながら思い出した。

 確かにそのときの光景が記憶に残っている。


「覚えてる……。それは少しだけ思い出したから」


 そう告げると、大和くんは意外そうな顔をした。

 ふっと表情を和らげてわたしを見下ろす。


「本当? 嬉しいな」


「……っ!?」


 突然、腰のあたりに何かが触れた。

 彼の手がブラウスの下に滑り込んできて、脇腹のあたりの素肌をなぞる。


「やめて!」


 ぴた、とその手が止まったのは、けれどわたしがそう叫んだからではなさそうだった。


 両手首を掴んでいた力が緩む。


 今度はブラウスをまくろうとしたのが分かって、手首をひねるようにして拘束(こうそく)を抜け出した。

 渾身(こんしん)の力を込めて突き飛ばす。


 慌てて起き上がり、自分を抱き締めるみたいな形で両腕を掴んだ。


「最低……」


 肩で息をしていた。視界が揺れて滲む。


 強く(ののし)る気力も湧かず、どうにかぶつけたひとことさえ掠れてしまった。


「…………」


 彼は何も言わないで立ち尽くしている。

 その顔を見ることもできず、横を通り過ぎたわたしは逃げるように保健室をあとにした。




(何で……)


 大和くんはどうしてあんなことをしたんだろう。

 ひとまずどこかでひとりになりたくて、手近なお手洗いへと駆け込む。


 個室に鍵をかけると、目の端に浮かんでいた涙を拭った。


 怖かったし、ショックだった。

 あんなに優しかった彼が、わたしの気持ちを完全に無視してないがしろにするような行動に出るなんて。


 肌にはまだ感触が残ったまま。

 服の上から押さえつけるように触れたとき、偶然にもはたと思い至る。


「ま、さか……」


 ばっ、とブラウスをめくり上げた。

 そこには、脇腹には、消えなかった火傷跡が残っている。


 ────あの頃、怪我が回復したあと、わたしは両親の勧めで何度も治療を受けた。


 親は“顔を元に戻す治療”だったり“皮膚を元通りにする治療”だったりと(しょう)していた。

 脇腹も同じく処置を受けたものの、ここだけは元通りにならなかったのだ。


 当初に比べれば随分よくなったとはいえ、触れるだけで凹凸(おうとつ)を感じる。

 もちろん痛みは既にないけれど。


「…………」


 どく、どく、と心臓がものものしい収縮を繰り返す。


(大和くんはこれを確かめようとしたの……?)


 わたしが入院しているとき、ほとんど毎日お見舞いに来て、付き添ってくれていたのは確かだ。

 彼もそう言っていたし、そのことはわたしの記憶も証明している。


 そのとき、脇腹の火傷が一番ひどいというような話をしたのかもしれない。


 ほかは消えてもそこなら跡が残っているのではないか、と踏んで────。


「でも、何でそんなこと……」


 深く考えるまでもなく、その答えに見当がついてしまった。

 昼休みのことを思えば、(おの)ずと。


「……大和くんも大和くんで、わたしを疑ってる?」




 複雑な心境(しんきょう)で迎えた放課後、鞄を手に急いで席を立った。


 悠真とも大和くんともまともに話せる気がしなくて、教室から逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。

 ────けれど。


「待って、風ちゃん」


 すかさず引き止められてしまう。

 それを無視できるほどの度胸はなくて、その場で動けなくなる。


「……本当にごめん」


「…………」


 悠真ならまた“謝るくらいなら最初からするな”って怒るのかもしれないけれど。

 大和くんの真意を悟ってしまったいま、彼を責めたり突っぱねたりする気は起きなかった。


 ただ、少し動揺してしまう。

 大和くんがわたしを疑っている、という事実に。


 うろたえる必要なんてまるでないのに。

 だって、わたしに関しては紛れもなく本物で、疑われる筋合いなんてない。


「怖がらせたよね。嫌な思いさせて、本当に────」


「気にしないで。……もう、平気だから」


 だけど、どうして大和くんはわたしを疑い始めたんだろう。


 あの頃のわたしといまのわたしが別人なんじゃないか、と疑えるだけの理由や根拠がなにかあった?

 約束があってもいつまでも彼になびかないから、とか?


 もやもやと広がる暗雲に目の前が曇っていく。

 がた、と立ち上がった大和くんが正面に回り込んできた。


「……一緒に帰らない?」


 その顔にいつもみたいな甘い微笑は浮かんでいなくて、引き締まった態度が真剣さを帯びていた。


(いっそのこと、ぜんぶ話したい)


 彼もまた同じ疑惑を抱えているというのなら、もう遠慮なんて必要ない気がする。


 お互いに本心を明かすときが来たのかもしれない。

 そう思ったわたしは、こくりと頷いて答えた。




 日の傾きかけた道をわざと遠回りして歩いていく。


「あ、見て。あのお店寄ろうよ」


 学校を出るなり大和くんの態度から重々しさが消えたお陰か、いくらか呼吸が楽になってきた。


 指し示されたのはカラフルな店構えのジューススタンドだった。

 その場でフルーツなんかのジュースを作ってくれるお店だ。


「うん、行こ」


 笑顔を返して頷くと、大和くんは「やった」と顔を綻ばせる。


「俺はメロンにするけど、風ちゃんは何がいい?」


「あ、わたしも同じのがいい」


 ────テイクアウトしたジュースを片手に、近くの公園へ立ち寄った。

 大通りに面していて、それなりにひとけがある。


 ベンチに並んで腰を下ろした。

 噴水と花壇を眺められる位置にあり、のどかな空気が漂っている。


 ストローに口をつけたとき、大和くんが静かに口を開いた。


「風ちゃん。……保健室でのこと、本当にごめんね」


 何度もそう繰り返すということは、その件に関しては本気で反省しているようだった。


 適当に流してしまえる問題ではなかったけれど、いまは怒りも悲しみも息を潜めていて湧いてこない。


「それは……本当にもう平気だよ」


 あのとき、本当は火傷の跡を確かめようとしたんでしょ?

 そう続ける前に、彼の言葉が先を越す。


「俺、風花のことが好きだった」


 思いもよらない発言だったけれど、内容そのものに驚いたわけじゃない。


 前にされた告白を抜きにしても、その想いは身に染みて分かっていたことだ。


「本気だった。でも、うまくいかなくて……どうしてかきみには届かないし、全然伝わらない」


「分かろうとしなかったわけじゃないよ。ただ、わたしが意気地(いくじ)なしだっただけで……」


「そう? でも正直、あの頃の風ちゃんはもういないのか、ってがっかりしてた」


 大和くんはそう言って肩をすくめた。

 全然気がつかなかったけれど、もしかしたらそれが疑惑の糸口だったりしたのかもしれない。


「きみ、変わったよね。もう俺の知ってる風ちゃんじゃない」


「え……?」


「そう思って考えたんだ。風ちゃんってどんな子だったっけ、って。ほら、少なからず過去って美化されるものでしょ」


 冷たいジュースで満たされたプラスチックカップの外側を、水滴がゆっくりと伝い落ちた。

 じわ、とスカートに雫が染み込んでいく。


「考えれば考えるほど、いまのきみには惹かれなかった」


 大和くんの言葉はあまりに予想外で衝撃的なものだった。

 置いていかれそうになる中、どうにか理解が追いつく。


 それなら、これまでの時間は何だったのだろう?


 先ほどの言葉は────と思いかけてひらめく。

 そういえば、それがそもそも過去形だった。


「それでやっと気づいたんだ」


 切なくて(もろ)く見える、やわい笑みが浮かべられた。

 そんな彼を斜陽(しゃよう)が照らす。


「俺は初恋だとか運命だとか、そういうものに恋してただけだったんだ、って」


 合点がいった。

 だからわたしに疑いを抱き始めたのだ。


 大和くんが求めていたのは、幼い頃のわたしだった。


 その幻想を逸れたいまのわたしを、それでも変わらず想い続けてくれていたわけじゃなかった。


 結婚の約束をして離れ離れになった幼なじみと、運命的な再会を果たして結ばれる────彼が焦がれていたのは、そんなシナリオ。


「……ねぇ、それ美味しい?」


 ふと、大和くんがわたしの手にするジュースを指しながら首を傾げる。


「え……。あ、うん。美味しいよ」


 半ば状況に圧倒されてはいたけれど、その答えに嘘はなかった。

 香りまでみずみずしくて甘い。


(でも、それどころじゃ────)


「そっか。……でも変だな」


 ジュースを味わっている場合じゃない、と思ったけれど、大和くんは引っかかりでも覚えたように声色を変えた。


 というか、その反応は用意していたようなわざとらしささえ滲んでいる。


「変、って?」


 たまらず聞き返すと、彼はわたしの手からカップを取り上げた。


「昇降口でメロンの話をしたとき……まあ、あれはとっさのことだったんだけど。“美味しかった”って言ってたよね」


「……言ったよ」


「それ、本当は覚えてないけど優しい嘘ついて合わせてくれたのかなって思った」


 どきりとする。

 実際その通りだったけれど、見透かされていたとは思わなかった。


「でも、あとから違和感に気づいちゃって……。それがいま確信に変わった」


 どこかもったいつけるような口ぶりに思わず身構えてしまう。

 大和くんの双眸(そうぼう)がわたしを捉えた。


「風ちゃんは小さい頃からメロンアレルギーだった。こんなの飲んだら、下手したら呼吸困難で死んじゃうかも」


 言葉の意味を理解するのに数秒要した。

 ううん、しっかりと理解することなんて何秒かかっても無理だった。


「どういうこと……?」


 聞き返した声は震えてしまった。

 動揺ばかりが波のように押し寄せてきて、混乱の渦へ放り込まれる。


「それを聞きたいのはこっちなんだけどな。……俺も諦めはついたけど、違和感は無視できなくてさ」


 困ったように笑いながら手元を眺めていた大和くんは、カップをふたつともベンチの端の方に置いた。


 笑みを消すと、身体ごとわたしに向き直って鋭い眼差しを注ぐ。


「きみは誰?」


 全身を困惑が突き抜けていった。

 座っているのに足元がぐらぐらと揺れているような錯覚(さっかく)を覚える。


(わたし……?)


 アレルギーなんて持っていなかったはずだ。

 少なくともいま、メロンを口にしても身体に異常は(きた)していない。


 大和くんがかまをかけている可能性も低かった。

 疑惑を直接ぶつけたにも関わらず、いまさらそんな遠回しなことをする必要はないから。


『三枝は三枝だよ。本物』


 ふいに悠真の言葉が蘇ってきた。

 彼はそう断言していた。……三枝()、と。


(わたしは……?)


 本物じゃなかったのは、わたしの方だった?

 大和くんの疑いは正しかったということ?


(おかしい。そんなはずない)


 わたしは「風花」だ。

 ちがうというなら、いったい誰?


「……っ」


 無意識のうちに呼吸が止まって、目の前が遠く(かす)んでいく。


 わけが分からない。

 だけど、頭の片隅にいるひときわ冷静な自分が分析していた。


 大和くんからすれば、確かに違和感だらけだ。


 偶然再会を果たした初恋相手は、自分との記憶をほとんどなくしていて、さらには気持ちまでかけらほども返ってこない始末。

 約束だけが宙ぶらりんで────。


 昇降口で明かされかけたあのエピソード、もしかするとアレルギーは“そのとき”に発覚したのかもしれない。


 昔はそれで口にできなかったはずのメロンを摂取(せっしゅ)しても何の問題もないときたら、それは別人だと疑いたくもなる。


 “確信に変わった”と言っていた通り、そう結論づけないと納得できないほど決定的だ。

 辻褄(つじつま)が合う。


「……ない……」


 声も、息も、両手も、全身が震えていた。


 心臓が重たい音を立てるたび、体温が奪われていくような気がする。


「分かんない……」


 半ば錯乱(さくらん)状態に陥りながら、わたしは(すが)るように大和くんの両腕を掴んだ。


「わたし、誰なの……?」


 底知れない不安が這い上がり、泣きそうになってしまう。


 これまでずっと「鈴森風花」として生きてきた。

 あの事故を生きながらえて────。


 頭の中に過去の出来事が流れ込んでくる。

 走馬灯(そうまとう)のように駆け巡り、病室で目覚めたところまで(さかのぼ)った。


 そのとき、ふいに思い至る。

 事故より前のことはどうだっただろう……?


「…………」


 わたしに誰だと尋ねた最初こそ、怒りのような警戒のような油断ならない態度を差し向けてきた大和くんだったけれど、だんだんとその色が薄まっていった。


 ただ戸惑うようにわたしを眺めている。


 「鈴森風花」を(かた)る別人が何かを企んでいるんじゃないか、と踏んでいたのが、予想と反して拍子(ひょうし)抜けしたみたいだ。


 当然といえば当然だけれど、わたしに悪意があるようには感じられなかったからだろう。


「風花じゃないって……認めるの?」


「……分かんない」


 結局はそう繰り返すほかなかった。

 あらゆる前提が崩れかけているいま、確かなことなんてひとつもない。


 大和くんは考え込むように眉を寄せ、顎に手を当てた。


「……風花じゃない、と俺は思う。けど、そんなことありえるのかな」


 彼自身も困惑しているみたいだった。

 わたしの混乱を半分背負ってくれたお陰で、少しだけ落ち着きを取り戻す。


(わたしの中での大きな出来事は、やっぱりあの事故……)


 転機となりえるほど衝撃的なものだった。

 その夏祭りの夜に関して、悠真が前になにかを言いかけていた。


『あのとき、おまえと────』


 その日なにがあったのか、わたしはやっぱり覚えていない。


「……あの頃の夏祭りの日、何か特別なことあった?」


「夏祭り?」


 大和くんは記憶をたどるように視線を彷徨わせた。


「俺は引っ越しの準備が忙しくて、お祭りには行ってなかったんだよね。風花が火事に巻き込まれたって知ったのは、入院から何日か経ってからのことだった」


 しばらくは面会謝絶(しゃぜつ)の状態で、わたしの意識もなかなか回復しなかったと聞いている。


 快方(かいほう)に向かいかけてお見舞いが許可されてからは、時間の許す限り彼が付き添ってくれていたのだ。


 火傷の具合のことはやっぱり、そのとき話したにちがいない。


「でも、あとから聞いた話だけど……あの火事で亡くなった子もいたんだって」


「え……」


 思わずこぼれた声はひび割れた。

 そんな話は知らなかった。


 けれど、悠真と話したときに思い出した光景が脳裏(のうり)をちらつく。

 薄れゆく意識の中、血の染みた浴衣と投げ出された下駄を、わたしは確かに目にしていた。


「何か目撃者がいたらしくて、発見は早かったみたい。ただ、その子は手遅れだった」


 やっぱり、あの浴衣と下駄の持ち主がそうなんじゃないだろうか。

 というか、そうなのだろう。


 まるで不鮮明で断片的なわたしの記憶は、火事の炎に焼かれてしまったみたいだ。


 ────大和くんは夏休みが明ける前に、この土地を離れることになっていた。

 わたしが退院するより前ということになる。


『ぜったい迎えにいくから』


『待ってる』


 いま、ようやく思い出した。

 その約束は、病室で大和くんと最後に会った日に交わしたものだ。


 ぼんやりとしていたそのときの記憶に光が(とも)ったみたいな感覚があった。

 滲んでいた世界の輪郭(りんかく)が、はっきりとした線でふちどられていく。


(あれ……?)


 思い出した、ということは、ちゃんと「風花」としての記憶には残っているということだ。

 それなら、やっぱりわたしは「風花」なのだろうか。


「そのお祭りがどうかしたの?」


「ううん……。前に悠真がちょっと意味深なこと言ってたような気がして」


 だけど、どうなっているのだろう。

 夏祭りの日を振り返ってみても、余計に謎が深まっただけのような気がする。


「……俺とのことは何を覚えてる?」


 疑問に包まれる中、おもむろに大和くんが尋ねる。


「保健室でも言ったけど、お見舞いに来てくれてたことは思い出した。あとは結婚の約束をしたこと……その場面だけだけど、それもはっきり覚えてる」


 当初はその思い出しかなかった。

 わたしたちのすべてとも言えるほど大切な記憶だ。


「あれは……俺と、風花と、ほかにも何人かの同級生と一緒に出かけたんだよね」


 そんな中、晴れた昼下がり、大和くんに誘われてふたりだけで輪を抜け出した。

 シロツメクサで花かんむりと指輪を作って、あの約束を交わして────。


「何人かっていうか、クラスの半分以上来てたっけ。遠足みたいだったな」


 懐かしむような眼差しで回顧(かいこ)した大和くんは、そう言ってふと小さく笑う。


 ぱちん、とその日の記憶に蓋をしていた泡みたいな膜が唐突(とうとつ)に弾けた。


「……あ、思い出した」


「何を?」


「確かその中に悠真もいたよね」


 普段はもの静かで、いつもひとりで過ごしていた彼。


 何を考えているのかよく分からない、なんてクラスメートにからかわれることもたびたびあるくらいで、積極的に遊んだりするタイプじゃなかった。


 それなのに、なぜかそのときは自分から「おれも行きたい」なんて言い出したのだ。


「そうだ、そういえば……。意外だったけど越智も来てたね」


 そう頷いた大和くんと目を見交わす。

 考えついたことは恐らく同じだ。


『それって、悠真は何か……隠してるってこと?』


『……うん、隠してるよ』


 それぞれの空白部分や埋まらないパズルのピース。

 もしかすると、悠真ならぜんぶ持っているかもしれない。




     ◆




 少し早めに登校すると、昇降口の柱部分に背を預け、目当ての人物が来るのを待った。


 予鈴(よれい)の10分前、予想より早く彼が姿を現す。


「越智」


 身体を起こして呼びかける。

 俺に気づいた彼は眉をひそめ、目に見えて迷惑そうな顔をした。


「……なに?」


「話がある。ちょっと付き合って」


 転入してきて日は浅いけれど、ひとけのない場所は何となく把握(はあく)していた。


 朝の早い時間帯なら割と選択肢も多いが、ひとまず裏庭へ向かうことにする。


 越智は何も言わずに後ろをついてきた。

 積極的に従う意思はないものの、ここで断る理由もないといったところだろう。




「……それで? 牽制(けんせい)か何か?」


「しないよ、いまさらそんなこと」


 ふっと思わず笑ってしまいながら答えると、越智は怪訝(けげん)な表情を浮かべた。


 そんなに小さい人間だと思われているのか、と少しショックですらある。


 だけど茶化すのはやめておき、まじめな話だと訴えかけるべく頬を引き締めた。


「彼女のことを教えて欲しいんだ」


「彼女?」


「そう……。10年前の風花といま風花として生きてる彼女は、本当に同一人物?」


 越智の双眸(そうぼう)が一瞬だけ揺らいだように見えた。

 ここぞとばかりに言葉を続けて畳みかける。


「俺が離れたあとは、きみがずっと一緒に過ごしてきたはずだ。一番近くで見てきたはず。きみなら知ってるでしょ?」


「…………」


 彼は口をつぐんだまま、目を伏せるようにして視線を逸らした。

 後ろめたいことがあるというよりは、ただ億劫(おっくう)そうな反応だ。


 たとえば隠しごとがあって、それが公然(こうぜん)となっても、その内容だけは絶対に明かさない。

 そんな固い意思さえ窺える。


「越智、頼むから教えてくれよ。彼女は本当にあの風花なのか?」


 声色に焦燥(しょうそう)が乗ったのを自覚しながら、同じ問いかけを繰り返した。


 (もく)していた越智は、ややあって数度頷くと顔を上げる。

 目を見てはっきりと答えを口にする。


「……そうだよ」


 相手をするのが面倒になった、というような投げやりな雰囲気はなかった。


 けれど、予想に反する言葉を受けて戸惑ってしまう。

 そうしているうちに、彼の顔に警戒の色が滲んだ。


「どういうつもりで何を疑ってるのか知らないけど、彼女は鈴森風花で間違いない」


「……本当に?」


「分かったら余計なこと吹き込むな」


 図らずも気圧(けお)されてしまう。

 それほどの気迫(きはく)をもってして越智は言った。

 牽制しているのはどちらだろう。


 彼女は風花だ。

 そう越智の口から聞いても、納得がいかなかった。


 答えはもう自分の中で出ていて、だけど明らかにそれと反しているから、どうしたって引き下がれない。


「越智は……何を知ってるの?」


「関係ない」


 淡々と突き放され、さすがに二の句を継ぐ気が()がれてしまう。


 真横を通り過ぎて校舎へ戻っていく彼を、とっさに引き止めることもできなかった。


 もどかしさに唇を噛んだとき、後ろで越智が足を止めた気配があった。

 振り向くと、その肩越しに彼女の姿が見えた。


「待って」


 毅然(きぜん)と言い放ち、越智の行く手を阻むように立っている。


(いつから……)


 俺が彼を連れ出すところを、もしかしたら昇降口にいた時点で見ていて追ってきたのかもしれない。


「わたしには関係あるでしょ?」


「それは────」


「お願い。ぜんぶ教えて」




     ◇




 悠真は困ったように言葉を探す素振(そぶ)りを見せたあと、少し怒った調子で言葉を返してくる。


「関係はあっても知る必要ないって言っただろ」


 また、そうやって拒絶されるだろうことは予想していた。


 当事者をさしおいてまで隠さなきゃならないことって、いったい何なのだろう。

 彼はどれほど重い真実を背負っているのだろう?


 今回ばかりは引き下がるつもりなんてなかったわたしは、怯むことなく彼を見つめる。


「じゃあ、悠真の隠してることと知ってることって同じなんだね」


「……そうだけど」


 同じ調子で堂々と返してくる彼には、まだ余裕が窺えた。

 突き放しさえすれば追及を(かわ)せる、と信じているにちがいない。


「それって、わたしが本物かどうかってこと?」


 はっと悠真が目を見張る。

 誤魔化しきれない反応を、わたしも大和くんも見逃さなかった。


「何でそれ……。おまえまで」


「大和くんと接するうちに気づいたの。疑うべきは大和くんじゃなくてわたしの方だった」


 覚えた違和感も不信感も疑惑も、帰着(きちゃく)するべき場所をずっと間違えていた。

 最初から、あの頃とちがっていたのはわたしなのだ。


「おまえ……」


 彼の視線が大和くんに向いた。

 睨みつけるみたいな眼差しは鋭く責めるようでもあり、大和くんは困ったように逸らす。


 余計なことを吹き込むな、という言葉は聞こえていたけれど、悠真にとっては手遅れだったみたいだ。


「ねぇ、悠真。それならわたしにも大和くんにも聞く権利はあると思う」


 わたしも大和くんも、一番知りたいことはきっと重なっている。

 そしてその答えを持っているのは悠真だけなのだ。


「だから、お願い」


 望みを懸けた最後のひと押しに、彼はしばらく黙り込んだ。


 その瞳はわたしを捉えているようで、わたしじゃない誰かを見ているようでもあった。

 長い長い沈黙のあと、悠真がため息をつく。


「……分かった」


 ────ようやく、時が動き出した。


「10年前の夏祭りの夜、事故が起きた」


 悠真の語り口は重たかったけれど(よど)みなかった。


「それは……火事だけじゃない」


 わたしと大和くんの知らない真実が紐解かれていく。


「火事、だけじゃない?」


 戸惑うように大和くんが繰り返す。


 ちかちかと頭の中で光が明滅(めいめつ)していた。

 血の滲む不鮮明な記憶が色と線を濃くしていく。


 悠真の瞳がわたしを捉えた。


「あのとき、おまえはひとりじゃなかった」


「……うん、誰かと手を繋いでた」


「その“誰か”は高野(たかの)結衣(ゆい)。おまえの親友だった子だよ」


 その名前を聞いた途端、ひときわ胸のざわめきが増した。

 ぶわっと猛烈(もうれつ)な爆風に煽られるように、動揺が全身を駆け巡っていく。


「高野、結衣……」


 なぞるように反復して呟いた大和くんを見やり、悠真は尋ねる。


「三枝も覚えてるだろ? 小学生のとき、同じクラスだった」


「何となくは……。あんまり話したことなかったけど、風ちゃんと仲良かったのは知ってる。あの日も公園に来てたよね」


 こく、と悠真が頷く。

 クラスの大半と緑地公園へ出向いた日のことだ。

 あの約束を交わした日のこと。


「わたし、その子とお祭りに……」


 小さく呟くと、悠真がわたしに目を戻した。


 学校近くの裏山にある神社。

 参道(さんどう)に並ぶ色とりどりの屋台。


 断片的な記憶から徐々にノイズが晴れていき、かちりかちりとパズルのようにはまっていく。


『行こ!』


 おそろいの浴衣、おそろいの髪型で、手を繋いだわたしたちは石階段を駆け上がっていった。

 神社の境内(けいだい)は高台にあり、あたりは木々に囲まれている。


「……っ」


 ふらりと目眩(めまい)を覚えた。

 力いっぱい押さえていたはずの記憶の蓋が開いていく────。


『……風花ちゃんばっかりずるいよ』


 心臓が早鐘(はやがね)を打つ。

 ゆらゆらと焦点(しょうてん)も定まらない。


「……そのとき言い合いになって、足を滑らせた彼女は境内から落ちていった」


 喉が渇いて、枯れ果てて、言葉が出てこなかった。

 大和くんは衝撃を受けたように「え」と引きつった声をこぼす。


 悠真の語る光景がありありと頭に浮かんだ。

 それは決して想像でも妄想でもない。


「パニックになったおまえも下を覗き込もうとして落ちたんだ。……俺は、それを見てた」


 悠真が表情を歪めた。

 ふと、大和くんの言っていたことを思い出す。


『何か目撃者がいたらしくて、発見は早かったみたい。ただ、その子は手遅れだった』


 その目撃者とは悠真のことだったのだろう。

 一度息をついた彼は顔を上げ、静かに続きを口にする。


「どうしようもなくて、大急ぎで誰か大人を呼びにいった。火事が起きたのはこの合間の出来事」


 熱い空気が肌に触れた。

 幻だと分かっていても、ぞっと粟立(あわだ)つ。

 熱いのに寒い、奇妙な感覚に包まれる。


「……俺がその場に戻ってきたときには火の手が回ってて、ふたりとも炎の中だった」


「じゃあ、まさか亡くなったのって────」


「……そう。高野結衣」


 大和くんは神妙(しんみょう)な面持ちになった。

 わたしも青ざめた顔で彼の言葉を受け止めた。


「でも、生き残った鈴森のショックは強くて、不安定な状態だった。唯一心の支えだったのは三枝の存在だけど、引っ越して転校していったでしょ」


「…………」


「よりどころを失った鈴森はストレスで記憶を失ったんだ。その記憶はいまも戻ってない」


 はっとしたように大和くんがこちらを見る。


 いつになく饒舌(じょうぜつ)な悠真の姿は、これまでたったひとりで背負ってきたものの重さを物語っていた。


「そういう、こと……?」


「……うん、三枝が求めてたあの頃の“風花”はもういない。いまの鈴森の中に、あの約束が残ってるとは言えない」


 それを受け、愕然(がくぜん)とした様子の大和くんが再びわたしに向き直る。


「何で……。何で言ってくれなかったの?」


 わたしが言葉を探すより先に、間髪(かんはつ)入れずに悠真が声を張る。


「言えるわけないだろ!」


 知る限りでは、彼がこれほどまでに感情をあらわにしたのは初めてのことだった。

 わたしも大和くんも圧倒されて息をのむ。


「おまえに、あんなふうに言われて……」


 悠真は怒っていた。

 何のことを言っているのかは、悲しいくらいに分かる。


『風ちゃん。あの約束は忘れてないよね』


『なにを迷ってるの? 俺のこと好きじゃないの? あの頃は頷いてくれたのに……』


『ねぇ、風ちゃん。俺はね、きみの存在だけを心の支えにして生きてきた。思い出に縋って耐えてきたんだよ』


 大和くんはことあるごとに過去を持ち出して、10年前へ連れ戻そうと躍起(やっき)になっていた。


 思い出も、春も、“風ちゃん”と呼ぶ声も、本当は鎖でしかなかったかもしれないのに。


「鈴森はただ、おまえを傷つけたくなかっただけ。……責めるのはお門違いだ」


 芯の通った声で凛と悠真は告げる。


 大和くんはうつむきかけたものの、ふいにはっとひらめいた様子で彼を見やった。


「アレルギーは?」


「アレルギー?」


「風花は昔からメロンが食べられなかった。なのに、いまは何ともなくなってたんだよ」


「……治ったんじゃないの」


 怪訝(けげん)そうに大和くんが眉をひそめる。


「そんなことある?」


「発症したのが子どもの頃なら治ることもある、って何かで聞いたことある。ていうか、そもそも本当にアレルギーだったの?」


「え……」


「だって検査したわけでもないんでしょ。少なくとも俺は、いまのいままで鈴森がアレルギーなんて聞いたことなかった」


 かちり、と最後のピースがはまった瞬間、頭の中のパズルは跡形(あとかた)もなくばらばらに砕け散った。


 ふたりの声が遠くへ霞んでいき、足元が傾いて思わずたたらを踏む。


 目眩がする。頭痛がする。

 粟立った肌はまだ元に戻らない。


「風ちゃん……?」


 異変に気づいた彼に呼ばれるけれど、答える余裕はなかった。

 明かされた真相に、この場で反論することもできなかった。


(うそ……)


 ────くぐもっていたあの夜の記憶が、光景が、鮮烈(せんれつ)脳裏(のうり)を裂いて明瞭化していく。


 10年の歳月をまるごとひっくり返すような衝撃が、わたしの全身を貫いた。


(嘘だ)


 悠真は嘘をついている。

 滔々(とうとう)と語った話のぜんぶがぜんぶ、真実と重なっていない。


 いまのわたしには、それが分かってしまった。


「……っ」


 ────あの日、わたしと一緒に倒れていた少女。

 血の染みた浴衣と投げ出された下駄。


 亡くなったのは、高野結衣じゃない。


(わたし……)


 両手が震えて止まらない。

 血の気が引いて、呼吸すらままならない。


(わたしの目の前に倒れてた、あの子……)


 彼女こそが「風花」だった。


 力が抜けて、靴の底から感覚が消える。

 頭が真っ白になって、そして目の前が真っ暗になった。




     ◇




『風花ちゃん!』


 肩を叩かれて振り向くと、そこにいた女の子たちは慌てた顔をする。


『あ……ごめん、結衣ちゃん。うしろ姿が似てたから風花ちゃんかと思った』


『うしろ姿だけじゃなくて、顔も声もすごく似てるよね』


『うんうん。ふたりって仲良しだし、双子みたい』


 口々にそう言われて、悪い気はしなかった。

 わたしにとって「鈴森風花」という女の子は、親友であり憧れの存在でもあったから。


 実際に双子なわけでも血縁があるわけでもなく、見た目や声が似ていたのはあくまで偶然だったけれど。


『ねがおが一番似てるんだよ』


『どうして知ってるの?』


『授業中に見ちゃった!』


 なんて話しながら遠ざかっていく彼女たちの背中を、どこか満たされたような気持ちで見送る。

 風花ちゃんかと思った、という言葉が純粋に嬉しかった。


 もっと彼女に近づきたい。似ていると言われたい。

 いっそのこと、彼女になりたい。


 そんなことを考えていると、またしても誰かに肩を叩かれた。


『結衣ちゃん』


 わたしの後ろ姿を見て正確にそう呼べるのは、もしかしたら彼女だけなんじゃないかと思う。

 とっておきの笑顔を向けて振り返った。


『風花ちゃん!』


『夏休み、いっしょにお祭り行かない?』


 神社で(もよお)される夏祭りのことだ、とすぐに分かった。

 毎年家族で出かけていたけれど、友だちと回るなんて初めてのこと。

 わたしはこの上ないくらいに舞い上がっていた。


『行きたい! ねぇねぇ、おそろいの浴衣着ない?』


『わぁ、楽しそう!』


 ────そしてあっという間に迎えた当日、わたしたちはおそろいの格好で神社へと向かった。


 ひとけのないところへは近づかないこと、何かあったらすぐに連絡すること、遅くならないようにすること……。


 お互いの親に再三(さいさん)釘を刺されたけれど、意識はもうお祭りにばかり向いていて、ほとんど聞き流していたと思う。


 同じ浴衣、同じ髪型、同じ帯に下駄と揃えたのに、髪飾りだけ合わせるのを忘れていた。

 案の定、彼女のものとは色も形もちがっていて、心底がっかりしてしまう。


『……髪飾り、交換する?』


 わたしがそればかり見ていたからか、風花はためらいがちにそう提案してくれた。


『ううん。それじゃおそろいにならないもん』


『交換しようよ! 今日はわたしが結衣ちゃんで、結衣ちゃんがわたしになるの』


 半ばすねていたところだったけれど、彼女の明るい笑顔に救われた。


 いま考えたら本当に幼くて些細なことだ。

 でも、あのときのわたしは本気で彼女になりたいと望んでいた。


 だから、風花のその言葉が嬉しかった。

 このお祭りの間だけでも、憧れの彼女になれるのなら。




 ふたりで屋台を回って食べたり遊んだりと満喫(まんきつ)しているうちに、親に言いつけられた門限が迫ってきていた。


 帰りたくないなぁ、なんて考えながら、少しでも遠回りしようと境内の端の方を歩く。


 ひとけのないところへは近づかない、なんて言われていたことはすっかり頭から抜け落ちていた。


 ふと、彼女が静かに口を開く。


『……大和くんね、夏休みの間に引っ越しちゃうんだって』


『え……』


 思わず聞き返した声は音にならないほど掠れて、お祭りの喧騒(けんそう)に飲み込まれてしまった。


『もう会えないかもしれない』


 (なまり)が落ちてきたみたいに心が重たくなった。

 焦燥(しょうそう)にも似た暗い感情が湧く。


 ────わたしたちは似ている。

 見た目も、性格も……好きな人も例外じゃない。

 風花もわたしも、大和くんのことが好きだった。


『でもね、約束したの! おとなになったら結婚しよう、って』


 風花には内緒にしているけれど、その瞬間のことはわたしも直接目にしていた。


 クラスのみんなと緑地公園で遊んだとき、ふたりだけでどこかへ行くところをたまたま見かけてしまって。

 こっそり覗いてみたら、飛び込んできた光景に胸を焼かれた。


 あたたかく晴れた春の日。

 大和くんから花かんむりと指輪をもらって、幸せそうに笑う彼女。

 それを見てもっと幸せそうな彼。


 どうにか痛みに耐えられたのは、それでも風花と親友でいたい、という気持ちの方が大きかったからだ。


 そうやって奥へ奥へ押し込んで見ないようにしてきた重苦しい感情が、嫌でも這い出てきそうになる。


『だからわたし、離れ離れになってもずーっと大和くんを好きでいるって決めたんだ。そしたらいつか────』


『……よ』


『えっ?』


『……風花ちゃんばっかりずるいよ』


 そう言った瞬間、(たが)が外れた。

 (せき)を切ったように感情があふれて止まらなくなる。


 そのあと彼女に何を言ったのか、正確には覚えていない。

 はっと我に返ったときには、風花の瞳に涙が浮かんでいた。

 傷ついたような顔でわたしを見つめている。


 心臓を鷲掴(わしづか)みにされたような気分になった。

 ごめん、と口にしようと息を吸ったのに、言葉がつかえて出てこない。


『……っ』


 それ以上この場に留まる度胸なんてなくて、逃げるようにきびすを返した。


『ま、待って。結衣ちゃん────』


 引き止める声も無視して行こうとしたけれど、ふいに背後から甲高い悲鳴が響いてくる。


 反射的に足を止めて振り向く。

 ちょうど風花の身体が宙に投げ出されようとしていた。


 つまずいてバランスを崩したのか、大きく後ろに傾いていった。

 足が地面を捉え損ね、境内のふちを滑ったのだろう。


 ガサガサガサッ! と葉っぱの擦れる音や枝の折れる音がして、一瞬のうちに風花の気配が消えてしまった。


『え……?』


 さっき以上に声にならなかった。

 瞬きも呼吸も忘れ、虚空(こくう)を見つめる。


 がく、と膝から力が抜けた。

 逆にそれで金縛りが解けたわたしは、四つん這いのままふちへ寄って身を乗り出す。


 心臓が耳元で鳴っていた。

 不安定な浅い呼吸を繰り返す。


 眼下(がんか)には真っ黒い木々の海原(うなばら)が広がっているだけだった。

 彼女を飲み込んでからは、うんともすんとも言わない。


『ふう、か……ちゃん……?』


 震える声で呼びかけてみたけれど、当然反応はなかった。


 まさか、まさか……と悪い想像に(さいな)まれ、だんだん息が苦しくなってきた。

 すくむほど怖くて涙が滲む。


 目眩を覚えたわたしの腕が一瞬、感覚と力を失った。

 そのたった一瞬、自分の身体を支えられなかっただけで、平衡(へいこう)感覚をすべて奪われる。


 浮遊感に包まれたわたしの脳裏に、先ほどの風花の姿がよぎった。

 とっさに身を縮める。

 肌を鋭い何かが引っかいていく。


 ────地面に落ちた瞬間の記憶はない。

 一旦意識を失って、目覚めたときには熱くて熱くてたまらなかった。


 あたり一面がぼんやりとオレンジ色に染まっていて、焦げくさいにおいが充満している。


(風花、ちゃん……)


 倒れているわたしの横に、下駄が転がっているのが見えた。

 少し視線を動かすと、浴衣も目に入る。


(よかった、ここにいたんだ……)


 状況も自分のこともそっちのけで真っ先に安心したものの、直後、心臓が冷えた。


 倒れている風花の胸のあたりを、鋭い枝が貫いていたのだ。

 染み出した血で浴衣がじわじわと赤く染まっていく。

 彼女はぴくりとも動かない。


『……っ』


 名前を呼ぼうとして思いきり息を吸い込んだ。

 その瞬間、焼けるように喉が痛くなる。


 あまりの苦しさに耐えきれなくなって、わたしは再び意識を手放した。




 次に目が覚めたとき、病室のベッドの上だった。


 身体が動かないのは包帯のせいで、妙に圧迫感があるのは酸素マスクのせいだと遅れて思い至る。


 わたしが息を吹き返したことで病室はしばらく慌ただしくなったけれど、現実感が追いついてこなかったから、目の前の光景を遠くに感じていた。


『風花ちゃん、分かりますか?』


 最初に“おかしい”と感じたのは、先生や看護師さんがわたしをそう呼んだことだ。


 だけど、ぼんやりとしながら暢気(のんき)に構えていた。


 包帯でぐるぐる巻きにされているから間違えてしまったのかも。

 それなら風花も助かっていて、同じように処置を受けているのかも。


 でも、世界は思わぬ方向へ向かいかけていた。


『風花!』


 お見舞いに来てわたしをそう呼んだのは、紛れもなく風花の両親だった。

 誰も彼もがわたしを「風花」だと思っている。


 ちがう。

 わたしは風花じゃない。


 死のふちを彷徨(さまよ)うような目に遭ったけれど、わたしの記憶はしっかりしていた。

 だから、自分が“高野結衣”である認識はちゃんと残っていたのだ。


 わたしが目を覚ましたことを、風花の両親は泣いて喜んでいた。

 母親の手には、一部分が黒く焦げてすすだらけになった髪飾りが握られている。


 頭の中に弾けるような彼女の笑顔が蘇る。

 あのとき、交換なんてしなければ────。


『……っ!』


 何か言おうにも声が出なかった。

 気道熱傷(ねっしょう)によるせいかもしれない。


 火傷を負った手はペンを握ることも叶わず、わたしが意思を伝える手段は完全になくなってしまった。




 なす術もないまま混沌(こんとん)に放り込まれて数日経ったある日、お見舞いにきた風花の母親が言った。


『風花、落ち着いて聞いてね。……結衣ちゃんが亡くなったそうよ』


『!』


『境内から落ちたんだってね。そのときには、もう……』


 彼女の身体に突き刺さった樹枝(じゅし)と染みていく血が、鮮明に思い出される。

 その状態で火に焼かれてしまったのだろうか。


『……風花』


 彼女の母親はそっとわたしの肩を抱き寄せた。

 本当は抱き締めようとして、だけど怪我を気遣って断念したみたい。


『……ちがう』


 掠れた声を無理やり喉から押し出した。


『わたしじゃない』


 わたしは風花じゃない。わたしは死んでいない。

 じわ、と涙が滲んだ。


 彼女が大好きだった。憧れていた。彼女なりたい、とさえ願っていた。

 だけど、わたしは彼女じゃないのだ。


『……分かってる。あの子が、結衣ちゃんが亡くなったのは風花のせいじゃない』


 浮かんだ涙があふれた。

 包帯が濡れても、傷に染みても、止まらなかった。


 まともに反論を続ける気力を()がれてしまい、ただ泣きながら「わたしじゃない」とばかりひたすら繰り返していた。


 ────その件について目撃証言がとれている、とあとから聞かされた。

 彼女の死は事故だと証明されている、と。




 その夜、初めて家族以外の人がお見舞いに来てくれた。


『悠真くん……』


 意外な人物だった。

 挨拶を交わしたり一緒に帰ったりしたことはあるけれど、せいぜいその程度だ。

 真っ先に来てくれるなんて思わなかった。


 悠真は包帯だらけの痛々しいわたしの姿を眺め、衝撃を受けたみたいだった。

 じっと驚いたような顔で見つめてくる。


 病室の扉が閉まってふたりきりになった途端、我に返ったようにうつむいて肩を震わせる。


『ごめん……』


 理解が追いつかなくて困惑した。

 そのうち、ぽた、と彼の瞳から涙が落ちる。


『何で、泣いて……?』


『……おれのせいだ。おれが、もっと早く────』


 泣きながら何度も“ごめん”と繰り返し、自責(じせき)の念に駆られているようだった。


 何を謝られているのか、どうして自分を責めているのか、どうして泣いているのか、ひとつも見当がつかない。


『これからは……おれが守るから』


 しばらくしてそう言った悠真は、毅然(きぜん)と顔を上げる。

 もう涙は止まっていた。

 そっと歩み寄ってきて、優しくわたしの手を取る。


『大丈夫。きみは生きてる』


 ふいに喉の奥が締めつけられて、思わず顔を歪めた。

 その言葉に泣いてしまったのは、ほとんど反射のようなものだった。


 混乱の中に差し込んできた一筋の光みたいにあたたかく感じられる。

 悠真だけが唯一、わたしを「風花」と呼ばなかった。




 包帯の外れた自分の顔を見たとき、やっぱり、となぜか思った。

 まじまじと鏡を見つめる。


 火傷の傷を除けば、見慣れた顔をしていたからだ。

 やっぱり、わたしは風花じゃない。


 当たり前だけれど、いくら似ていても「結衣」としての面影や特徴がある。

 だけど、両親は火傷の影響で以前とは顔立ちが少し変わった、と思っているようだった。


 それを“元に戻す”ため、あらゆる治療を受けることになったわけだけれど────。


 わたしがいくら否定しようと、周囲からすればわたしは「鈴森風花」以外の何者でもない。

 むしろ疑いの余地がない、そんなふうにねじ曲がった認識が事実を作り上げていった。


 「風花」として接せられるうちに、わたしもわたしでだんだんわけが分からなくなっていった。


 すべてを抱えて真実と向き合っていくには、そのときのわたしはあまりに幼かった。


 自分は、本当は風花なのかもしれない。

 結衣は、本当に死んだのかもしれない。


 いずれにしても“彼女”が目の前で転落していったことは確かだった。

 その強烈なインパクトに気圧(けお)され、ずっと頭から離れない。


 そのせいで記憶もぐちゃぐちゃになった?

 パニックになって混同し、認識が歪んでいるのかもしれない。


 ────誰もが死んだのは「結衣」だと言う。

 それなら、生きているわたしは「風花」だということになる。


 きっと、それが正しい。


 いつの間にか虚構(きょこう)と誤解に染められ、わたしは自分のことを本当に「鈴森風花」だと思い込むようになっていた。


 それからは、(おの)ずと「結衣」の記憶を頭の奥底に閉じ込めて生きてきた。

 鍵をかけて、出てこられないようにした。


 「風花」として生きるなら、必要なかったからだ。


 ────悠真はあれ以降一度も来なくなり、ほとんど毎日のように来てくれていた大和くんもまた、引っ越してしまって会えなくなった。


『ぜったい迎えにいくから』


『待ってる』


 そんな最後の約束は「わたし」じゃなくて「風花」が交わしたものだった。

 消えてしまった未来を、風花の信じていた“いつか”を補うために。




     ◇




 うっすらと目を開けたとき、まだら模様の白い天井が見えた。

 手足の先に感覚が戻り始める。


「……起きた?」


 ふと横を向くと、ベッドの(かたわ)らに悠真がいた。


(そっか、わたし……)


 パンドラの箱ともいえる、封印したはずの本来の記憶を取り戻して錯乱(さくらん)状態に陥ったんだ。


 意識を失ったところを保健室まで運んでくれたみたいだった。


「大和くんは……?」


「教室戻ってもらった。先生もいまは外してる」


 そっか、と頷きながら身体を起こした。

 悪夢から覚めたみたいに、不思議と軽やかに感じられる。


「大丈夫?」


 案じてくれる悠真の表情が、なぜかあの頃の彼と重なった。

 頷いて答えると、小さく笑う。


「……あのとき、悠真が何を謝ってたのか分かった気がする」


 彼が助けてくれた、その事実は変わらないのに。

 謝ることも自分を責めることも、何ひとつとしてない。


 さっきだって大和くんに嘘をついて、ひとりであの夜の真相を抱えながら、ずっとわたしを守ろうとしてくれていた。


 ────いまになって、ひとつ気づいたことがある。


 あの日、風花と仲(たが)いした原因は、ふたりして大和くんを好きになったからだと思っていた。

 だけど、実際のところはちがったのだ。


 「風花」に心底憧れていて、彼女になりたいとまで思っていたわたしは、好きな人まで同じじゃなければならない、と必死で恋に恋をしていただけだった。


 初恋に(とら)われていたのは大和くんだけじゃなくて、わたしも同じだったのだ。


「悠真……色々とありがとう」


 真っ先に伝えるべき言葉を、ようやくかけることができた。

 悠真は一拍置いてうつむく。


「本当はきみにもぜんぶ隠し通すつもりだった。……この真相は、何もかもを壊しかねないから」


 彼の言う通りだった。

 「わたし」の正しい居場所は、いったいどこなんだろう。


 いまさら結衣として生きられるだろうか。

 このまま風花として秘密を抱え続けるべきなのだろうか?


「でも、どうするかはきみが決めればいい。正しいも間違いもないから」


 悠真のあたたかい手が頭に乗せられた。

 肩の荷を下ろしたように澄んだ微笑みを向けられる。


「きみが誰だって、俺の気持ちはあの頃から変わらない。これからも……結衣のことは俺が守るから」


 じっとその目を見返していたら、ついまた笑みがこぼれてしまった。


 彼が頑として名前を呼んでくれなかったわけが、ようやく分かった。


「……そう呼ぶの、迷惑?」


 少し不安そうに眉を下げた彼に、わたしはゆるりと首を横に振ってみせる。


「ううん。悠真にだけはそう呼んで欲しい」




 教室に戻ると、大和くんに心配そうな眼差しを注がれた。

 席について彼と向き合う。


「……色々、忘れちゃってごめんね」


 結局、大和くんには何も言わないことにした。

 悠真のついてくれた嘘に合わせて、記憶喪失という(てい)を貫く。


 ふたりでの思い出がまったくと言っていいほどなかった理由にも合点がいった。


 今朝、大和くんの言っていた通り、そもそも当時のわたしは彼と直接的な関わりがほとんどなかったのだ。


 それでも彼の情報を持っていたのは、風花から大和くんに関する話を常々(つねづね)聞いていたから。


 唯一覚えていたあの結婚の約束は、風花として実際に受けたのではなく「結衣」であるわたしが見聞きしていたからこそ、克明(こくめい)に残っている記憶だった。


「ううん。俺も自分のことばっかりで、風花の気持ち全然考えられてなかった。前に進めないのをきみのせいにしてたね」


 そう言ったのは等身大の大和くんだった。

 悔いるようではあるけれど、口元にはやわく優しい微笑が浮かんでいる。


「疑ったり強引なことしたりしてごめん。……越智にも、嫌な態度とってたことちゃんと謝らなきゃな」


 そこには意地や対抗心、思い通りにならない現実への八つ当たりなんかが含まれていたのかもしれない。

 ともあれ、そう言ってくれてほっとした。


「ねぇ、大和くん」


 もうひとつ、はっきりさせておかなければいけないことがある。


「告白と結婚の話、だけど……ごめんなさい。わたし、大和くんとは付き合えない」


 彼にはもうそんな気持ちはないかもしれないけれど、()()()()()丁重(ていちょう)に断っておく。


 わたしの返事を受け止めた大和くんは、ややあって小さく笑うと数度頷いた。


「分かった」


 ようやく胸のつかえがとれたような気になった。

 こんなにも晴れやかに前を向けるなんて思わなかった。


「────風花」


 一拍置いて穏やかに彼が呼ぶ。


「確かに俺は、初恋とか運命とかそういうのに惹かれてた。でも、それがすべてじゃなかった」


「え……」


「ふたりで出かけたり一緒に過ごしたりして……楽しかった。そう思ったのも事実なんだよ」


 予想していなかった言葉に、素直に驚いてしまう。

 大和くんは優しい語り口のまま、いっそう笑みを深めた。


「いまからでも遅くない。だから、改めて“初恋”始めようか?」


 彼と過ごした時間、彼がくれた言葉、それらは確かにきらきらと輝いていた。

 少しもときめかなかったと言えば嘘になる。


 だけど、わたしの心は既に決まっていた。

 頬を(ほころ)ばせながら迷いなく告げる。


「わたし、好きな人がいるから」


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