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初恋シンドローム  作者: 花乃衣 桃々
◆第2章 疑惑
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第2話


 放課後、ひとりで校門を潜る。

 大和くんは担任と面談があるだとかで職員室に呼び出されていて、悠真には何となく気後(きおく)れして声をかけられなかった。


 何気なく足元の影を見下ろしたとき、ふと横からもうひとつの影が揺れて伸びてくる。

 はっとして顔を上げた。


「悠真」


 隣に並んだ彼の姿を認め、驚きながらその名を呼ぶ。

 彼の方から来てくれるなんて意外だったけれど、何だかほっとした。


「何かあった?」


 普段と変わらない声色で尋ねた悠真は、ちらりと窺うような視線を寄越す。


「ちょっと元気ない」


「そ、そんなことないよ! ……何か色々気持ちが追いつかなくて、混乱してるだけ」


 困ったように苦く笑いつつそう答えた。


 自分のあるべき姿も大和くんの望むところも分かっているのだけれど、心の部分がずっと置き去りになっている。


 それを無視して彼を優先できるほど、初恋に一辺倒(いっぺんとう)になれないでいる。


「……三枝に何か言われた?」


 心臓を鷲掴みにされた気がした。

 たまに、悠真は心が読めるんじゃないかと思うほど鋭いときがある。


「付き合って欲しい、って……」


 告白されたことを隠し通せる気がしなくて、早々に観念(かんねん)した。


 悠真だって薄々は、どころか明確に、大和くんの好意に気づいていただろう。

 果たして彼は驚かなかった。


「それだけ?」


「……結婚を前提に、とも言われた」


 戸惑いはしたけれど、予想の範囲内でもあった。

 あの約束が根にあるなら、その意思はいまも変わっていないはずだから。


「なんて、答えたの」


 彼の声にやや緊張が滲んだように思えた。


「いまはよく分からない、って正直に伝えた」


「……そう。曖昧(あいまい)だね」


「うん……でも本当に分からないの。大和くんにそう言われて、嬉しかったのかどうかさえ」


 不思議と考えるまでもなく、悠真には率直な気持ちを打ち明けていた。


 あのとき確かに心は揺れた。

 だけど、単純に“幸せ”だけで満たされたような実感はなかった。


 いまの大和くんのことを全然知らない、と告げたのは本心で、だからこそ素直に頷けないのかもしれなかった。


 手がかりになるはずの過去まで曖昧で、不安や罪悪感ばかりが膨らんでいくのだ。


 唯一覚えているあの一場面と照らし合わせても、彼はどこか、別人みたいで────。


「三枝、それでも諦めなかったでしょ」


「……うん。デートに誘われた」


 顔色を変えた悠真が、ぴた、と足を止める。


「……だめ」


「え?」


「行かないで」


 向けられた眼差しはあまりに切実で、図らずも動揺してしまう。

 傾いた日が射して、彼の輪郭(りんかく)は淡く染まっていた。


「ど、どうして……?」


 こんな悠真の表情は初めて見た。

 うろたえてしまいながらどうにか言葉を絞り出す。


「それは……」


 反射的に返そうと口を開いた彼は、けれど、その先に続く何かを飲み込んでしまった。

 勢いを(しぼ)ませたように口を結び、目を伏せる。


「……どうしても行く?」


「えっと……うん、そのつもり」


 ついためらいはしたものの、時間をかけたところで結局その答えを変える気はなかった。


 もう大和くんを傷つけたくないし、悲しませたくもない。

 そう思っているのも本心だ。

 だから、なるべく彼の意には添いたい。


 いずれ近いうちに、大和くんの想いには応じることになるのだと思う。

 それがわたしのあるべき姿で、彼の望むところだから。


 “運命”を軸にした初恋のシナリオは、10年前からずっと、わたしと大和くんを中心に進み続けている────。


「じゃあ、俺ともどっか出かけよう」


 ぼんやりと(ふけ)っていた思考が弾けて割れた。

 喉元から「へっ?」と()頓狂(とんきょう)な声がこぼれる。


「なに……。ど、どういう……?」


「デート、しよ」


 控えめだけれど退く気もないようで、悠真ははっきりとそう続けた。

 跳ねた心臓が痺れ、体温が上がっていく。


「今週末、空いてるよね。……嫌とは言わせないから」


 照れたように顔を背け、彼は先にすたすたと歩き出してしまう。

 色白の頬はどことなく色づいていて、そのことに気づいたわたしまで照れくさくなってくる。


(ま、まさか悠真とデートする日が来るなんて……)


 それも、大和くんよりも先に、だ。

 もちろん嫌なはずがないけれど、ただただ戸惑いばかりが存在を増していった。


 どきどきと高鳴る鼓動は、痛いくらいなのに甘い響きをしていた。

 彼を見つめたまま目を逸らせない。


『……少しでも長く一緒にいたいから』


『誰にでも優しいわけじゃないよ』


 意味ありげな言葉の数々が頭をよぎった。


『ねぇ、風ちゃん。越智ってやっぱりきみのことが好きなんじゃないのかな』


 そんな大和くんの言葉まで蘇ってくる。


(まさか、本当に……?)




     ◇




 週末まではあっという間だった。


 あとで着替えることになるから、なんて言われたから服装には迷わなかったけれど、待ち合わせ場所へ向かうという流れそのものが何だか緊張を高めてくる。


 指定されたところへ着くと、既に悠真の姿があった。

 見慣れない私服姿は何だか新鮮で、つい声をかける前に見つめてしまう。


「ごめん、悠真。待った?」


「別に。俺が早く着きすぎただけ」


 ありがちな会話だな、なんて思わず小さく笑った。


「それで、どこ行くの? 着替えるって……」


 行き先や何をするのかさえ、彼は教えてくれようとしなかった。


 休日ということもあって、あたりは人通りが多く賑わっている。

 観光地の近くだからか、外国人の姿も珍しくない。


「こっち」


 そう先導してくれた彼は、滅多に見せない笑みをたたえていた。

 たったそれだけで、一瞬にして意識のすべてを(さら)われた。




(着替えるってそういうことか……!)


 悠真の決めていた行き先は、まさしくその観光地だったみたいだ。

 下町情緒(じょうちょ)あふれる参道の両端には屋台が並んでいて、そこらじゅうが活気に満ちている。


 レンタルした着物に袖を通して身だしなみを整えると、何となくどきどきしながら、外で待っている彼の元へ向かった。


 淡い色合いがかわいらしい、レースの着物。気持ちまでふわふわしてくる。


「あ……お、お待たせ」


 最初に待ち合わせ場所で合流したときの倍くらい、心臓が激しく打っていた。


 たけど、彼の姿を見た途端に緊張は別のどきどきへと変わる。


 おかしくないかな、どう思うかな、なんて不安は消え去って、思わず息をのんだ。


 着物をまとった悠真をじっと見つめてしまう。

 喉元だとか筋張った腕だとか、普段は気に留めないようなところまで不思議と意識される。


(か────)


 不覚にも見惚れそうなほど、よく似合っていた。


 しばらくお互いに視線を交差させたまま、ふたりして言葉をなくしていた。

 周囲の喧騒(けんそう)も遠のいて、彼の存在だけが世界から切り取られる。


 ふわ、と吹いた穏やかな風に吹かれて我に返った。

 誤魔化すように視線を彷徨わせ、忘れていた瞬きを繰り返す。


「……なに、見つめすぎ」


「そ、そっちこそ」


 どうにかいつも通りに返したものの、わたしたちだけじゃなく状況までもが“いつも通り”とはかけ離れているせいで、どうしたって心が落ち着かなかった。


「……行こ」


 そう言って差し出されたてのひらを見下ろす。

 悠真の意図を推し量るように、その瞳と手の間で視線を行き来させた。


(つ、繋ぐってこと……?)


 もしちがっていたら、なんて恥ずかしい勘違いだろう。

 そうだとしても照れくさいけれど────なんて、おずおずとわたしも手を差し出す。


 触れるなり優しく包み込まれた。

 溶け合った温もりが浸透していく。


 満足そうに口角を上げた悠真の表情を目にして、いっそう胸が高鳴るのを感じた。


 いまこの瞬間は、彼以外の何も見えない。




 賑わう参道を手を繋いで進み、気の向くままにしばらくふたりで食べ歩いた。


 甘いものから塩気(しおけ)のあるものまであらゆる食べものを存分に楽しんで、最後に団子を頬張る。


 真っ赤な苺とクリームのような(あん)が載っていた。

 見た目もカラフルでかわいらしい。


「ん、美味しい」


「よく食べるね」


 驚き半分、感心半分といった具合でそうこぼした悠真に眉を下げて笑う。


「でも、もうさすがにお腹いっぱいかな」


「俺も。……満足したならよかった。楽しかったね」


「うん!」


 十分すぎるほど堪能(たんのう)できたし、お腹も心も満たされた。

 団子を食べ終わると、彼とともに少し人混みから逸れる。


 歩速を落とした悠真は、ふと気遣うような眼差しをわたしに向けた。


「疲れてない?」


「ううん、楽しいよ! 何か新鮮」


 最初の緊張はすっかり息を潜め、慣れないと思っていた左手の温もりも、いつの間にか境界(きょうかい)をなくしている。


 きっと、悠真に深い意図なんてない。

 はぐれないように繋いでくれただけ。

 そう思ったら、いくらか気が抜けた。


「…………」


 ふと黙り込んだ彼が視線を前に戻す。

 一歩、二歩……半ば惰性(だせい)で押し出すようにして動かしていた足がやがて完全に止まる。


「悠真?」


 何となく(いぶか)しみながら、わたしも足を止めた。

 (うれ)うような横顔を見上げていると、彼が口を開く。


「……祭り、みたいだよな」


 何気ないひとことの割には硬い声色だった。

 頷くことさえ気軽にできないような重厚さを感じて、わたしの言葉は喉に詰まる。


(“祭り”……)


 その単語を耳が吸収すると、脳裏(のうり)にぼんやりとした光景が広がった。


 屋台と提灯(ちょうちん)で彩られた神社の境内(けいだい)

 人混みを歩くわたしは、いまと同じように誰かと手を繋いでいた────。


(誰だろう……?)


 思考が記憶の中へ枝を伸ばしかけたとき、ふいにそれが断ち切られた。


 ぱっと悠真の手が離れたのだ。

 意識が強制的に現実世界へと引き戻される。


「……ごめん」


 そう言った悠真は目を伏せる。

 考えが巡っていくのを遮るように、彼の手がわたしの両頬を包み込んだ。


 蘇りかけた思い出がまた暗がりに溶けていく。

 (とも)った蝋燭(ろうそく)の明かりが消えたみたいに、光を失って(つい)えた。


 目の前の出来事だけが、完全にわたしの意識を奪い去る。


「な、に……?」


「いまの、忘れて。本当に何でもないから。思い出さなくていい」


 惑うような瞳と切実な口調にただただ困惑する。

 いまの、というのは、祭りみたいだと口にしたことだろうか。


(……何か、やっぱり変)


 ここのところ、悠真の態度は明らかに以前とちがっていた。

 その真意を掴むことも測ることも叶わない。


(あの夏祭りの日、何があったっけ……)


 10年近く前の日のことだ。

 記憶は()せて、不鮮明で断片的だった。


 火事に巻き込まれたという事実のインパクトが大きくて、ほかの出来事が頭から抜け落ちているのかもしれない。

 あるいは、それは大怪我を負ったわたしの防衛本能が働いた結果かも。


『事故があったの、覚えてる?』


 そういえば、彼は以前にもその日のことに触れていた。


『あのとき、おまえと────』


 何かを言いかけていた気がするけれど、結局最後まで聞けずじまいだったのだ。

 聞き直しても、彼には既に取りつく島がなかった。

 きっといま聞いても同じだろう。


 だけど、なぜか彼はその夏祭りの日にこだわっているみたいだ。


 様子がおかしくなったのと何か関係しているのだろうか。

 思えばそれは、大和くんが現れてからのこと────。


(大和くん……)


 ふと彼に思いを()せると、胸騒ぎが舞い戻ってきた。

 わたしに大和くんとの思い出がほとんどないことも、ずっと引っかかり続けている。


 何かあったのか、と尋ねてくれた悠真の言葉を思い出した。

 そのときは言えなかったけれど、気にかかっていたのは告白やデートのことだけじゃない。


『……でも、そっか。あいつの方から近づいたんだ』


 垣間(かいま)見た、大和くんの一面が頭から離れないままなのだ。


『あーあ、完全にノーマーク。こんなことなら、もっとちゃんと釘刺しておくんだったなぁ』


 あの冷たい瞳ともの言いは“対抗心”の範囲内だったのだろうか。


 頭ごなしに悠真を否定して、あんなふうに(おとし)めるなんて、少し度を越してはいないだろうか。


 幼少期や普段の優しい彼とは別人のようだった。


 ────とはいえ、それが嫉妬から来るものだとあの切なげな表情で言われようものなら、きっとわたしは何も言えない。


「……ねぇ」


 ふっと彼の手が離れていくと、静かにそう呼びかけられた。


「ごめん」


 悠真は再びその言葉を繰り返す。

 けれど、しおらしくはあるものの、今度はどこか吹っ切れているようにも見えた。


「自分のことしか考えてなかった。今日のぜんぶ、俺のわがままだ」


 どういう意味だろう?

 また、彼の本心が雲に覆われて遠のいていく。


「わたしは……楽しかったよ」


 今日のこと、悠真とふたりで過ごした時間は、わたしにとっては何にも代えがたい満たされたものだった。


 笑い合って、美味しいものを食べて、手を繋いで歩いて。

 単純かもしれないけれど、純粋に楽しかった。

 先ほども頷いたように、その感情に偽りはない。


 悠真は一瞬、驚いたように目を見張ったあと、ほっとしたように表情を緩めた。


「……でも、リベンジさせて」


「リベンジ?」


「今度はきみの行きたいとこに行こう。また、ふたりで」




     ◇




 週明け、悠真と過ごした日の余韻(よいん)から抜け出せないまま学校へと向かう。


 少し迷いはあったものの、髪の結い目にはリボンをつけてきた。


「おはよう、風ちゃん」


 教室へ入って席につくなり、大和くんに声をかけられる。


「……あ、おはよ」


 反応が一拍遅れてしまい、自分が無意識に悠真の姿を捜していたことに気がついた。

 とっさに頬が熱くなる。

 彼はまだ来ていないみたい。


「やっぱいいね、それ。似合ってる」


 わたしの内心など知るよしもない大和くんが微笑む。

 ふと伸びてきた手が頭に触れた。

 リボンを眺め、嬉しそうに目元を和らげている。


「ひと目で分かる“特別”だからね。俺だけの────」


 その瞳がひときわうっとりと甘くなった。

 満足そうで、幸せそうな表情をたたえている。


「…………」


 本当なら、わたしも同じ感情を抱くはず。抱くべき、とも言えるかもしれない。

 大和くんの自信ありげな態度と惜しみなく与えられる“好き”の気持ちが、そう物語っている。


 それでも、わたしの心はまだ動かないで置き去りになっていた。


(大和くんって……)


 目の前の彼の笑顔と、記憶の中の彼の笑顔が、歪んで混ざり合う。


(こんな人、だったっけ?)


 現実と過去が入り乱れるように、頭の内側にノイズが走った。

 入り乱れるほども思い出を持ち合わせていないはずなのに。


『風ちゃん、ぼくのおよめさんになって』


『俺と付き合って。結婚を前提に』


 胸を掠めた不安が尾を引いて、心に染み込んでいく。

 底冷えするような寒気を感じた。


(わたしたちって、どんなだったっけ……)


 思い出もなくて、記憶も曖昧(あいまい)で、いまになって根本的な恐れが浮かんできた。


 記憶というのは、自分やそれを取り巻く人、関係、あらゆるものの(かなめ)になる。

 それがなければ、自他を確立できないほど。


 当たり前の工程すぎて普段は意識しないけれど、目の前の人物が誰なのか、という判断をするためには(おの)ずと記憶を参照している。


 だけど、わたしのそれはごっそりと抜け落ちていた。

 彼に関わる重要な部分が、特に。


 そのせいで“手がかり”が足りなくて、いまの大和くんと向き合う段階にすら及べていないわけだ。


 ────彼があの大和くんであるという前提を、確信を、持てずにいるから。


 きっとそれが、彼のひたむきな想いを受け入れることを躊躇してしまう理由なのだと思う。

 恋心ごと蘇ってこないのもそのせいだ。


 こんなことでは、もし大和くんが大和くんじゃなくても気づけない。


 それはほとんど無意識に湧いた考えだった。

 自分で自分に戸惑う。


(……ありえない。なに考えてるんだろう、わたし)


 かぶりを振ってみても、否定しきれなかった。

 絡みついて離れないのは、萌芽(ほうが)した小さな違和感を見逃せないでいるからだろう。


 わたしたちにある共通の記憶は、結婚の約束をした日の思い出だけ。

 彼はちゃんと覚えていた。


 だから、大和くんとの再会が夢のようだった。

 気持ちが変わっていないと分かって嬉しかった。


(でも、悠真も知ってた……)


 どれほどかは不明だけれど、少なくともわたしたちの仲や大和くんの想いは以前から知っていたみたいだった。


 あの日のことや約束のことは、わたしや大和くんじゃなくても知っている可能性がある。

 ということは、その思い出を口にできたからって“彼”が大和くんとは限らないのだ。


(……なに、それ)


 感情が思考に追いつかない。


 動揺して瞳が揺らいでしまう。

 沈み込むように鳴った心音が重たく響いた。


 ありえない、ともう一度思ったけれど、違和感は居座ったままだ。

 むしろ先ほどよりも存在感を増している。


 眉を寄せたまま、彼を見上げた。


(だって、それなら……この人は誰なの?)


 具体的になにが引っかかっているのか、まだ疑惑の底の部分までは見通せない。

 だけど、やっぱり何やら違和感がある。それは確かだった。


 記憶の中にいる幼い大和くんの姿を思い起こす。


 離れ離れになってから10年近くが経っている。

 それだけの月日が流れれば、多少なりとも顔立ちは変わるだろう。


 面影(おもかげ)はあると思うけれど、確信は持てなかった。

 パーツごとに見ると、確かにこんな感じだったかもしれない。

 目の前の大和くんは、記憶の中の彼の特徴を兼ね備えていると思う。


(……だめだ)


 純粋に比較しようとしても、なかなか叶わなかった。


 どうしても、いまの大和くんの姿で上書きされてしまう。

 見るほどに昔の大和くんの記憶が薄れていくような気がした。


 性格はどうだろう?

 大和くんは優しかった。目の前の彼もそんな感じ────。


「……どうかしたの? そんなに見つめて」


 さすがに(いぶか)しんだように、彼が首を傾げる。

 はっとしてとっさに貼りつけた笑顔はぎこちなくなった。


「な、何でもないよ」


「そう? 言いたいことあるなら、遠慮しないで何でも言ってね」


 柔らかい物腰、穏やかな声、いつも通りの大和くんのはずだけれど、不穏なことを考えたせいか、妙に落ち着かない。


 彼のたたえた笑みにも(かげ)りが垣間見えた。

 苛立ちのような、焦りのような、いずれにしても彼らしくない感情が見え隠れしている。


「……?」


 理由は分からない。そもそも勘違いかもしれない。

 だけど、何となく少しだけ気が楽になった。

 彼も彼で、完璧ではないのだと分かったから。


 もし、直感が正しいとしたら。

 抱いた違和感や疑惑を信じるとしたら。


 10年近い時を経て再び現れた大和くんは、あの頃の大和くんとは別人ということになる。

 誰かがどうしてか、大和くんのふりをしているわけだ。


 わたしの思い出がほとんどないのをいいことに、つけこもうとしている?

 そうも思ったけれど、恐らくそれはちがう。


 記憶が曖昧だと正直に打ち明けたとき、彼は心底驚いてショックを受けていた。

 あの反応は本物だったと思う。


 それに、もし彼が大和くんじゃないとしたら、彼の方から思い出話を振るのはリスキーすぎる。

 辻褄(つじつま)が合わなかったとき、訝しがられるのは自明(じめい)だ。


 だから、きっとわたしたちふたりの記憶については穴なんてないのだろう。

 そうでないと早々にぼろを出すことになる。


 ただ、わたしの記憶があてにならないと分かったいまなら、でたらめな思い出話をしても問題ないということになる。


 つまり、大和くんの語るそれが事実とは言いきれなくなった。


 何気なく視線を流したそのとき、視界の端に悠真の姿を捉えた。

 いつの間にか登校してきていたみたいだ。


 わたしよりずっと不安そうな面持ちで、こちらを眺めていた彼と目が合う。


 その表情の意味を掴めないうちに、大和くんがため息をついた。


「……また」


 普段より低められた声は物々しくて、つい窺うように顔を上げる。


「え?」


「あいつ、昔からあんな感じだよね。なに考えてるか分かんなくて不気味」


 目で悠真を捉えたまま容赦のないもの言いをした。

 彼の冷たい横顔を目の当たりにして怯んでしまう。


「そのくせ、風ちゃんのことは一番分かってるみたいな顔して生意気。うっとうしいって思うのも仕方ないよね?」


 不満や否定的な感情をあらわに、彼は悠真を露骨(ろこつ)嫌悪(けんお)した。

 この間の帰り道での態度と同じだ。

 よっぽど悠真のことが気に食わないみたい。


 そっと伸びてきた右手が、さら、とわたしの髪をかき分けて首に触れた。

 親指が愛おしげに肌を撫でる。くすぐったい。


「……風花は俺のなのに」


 伏せた睫毛が影を落とし、彼の顔はもの憂げな雰囲気に染まる。


(大和くんって、本当にこんな人……だった?)


 ただ知らない一面が露呈(ろてい)したに過ぎないのだろうか。


 だけど、数少ない記憶の中にいる大和くんは、誰かを(おとし)めてまで自分を優先する人とは思えない。

 そうであって欲しい、という願望かもしれないけれど。


 いずれにしても、渦巻く疑惑は降って湧いたわけじゃなかった。


 些細な違和感が少しずつ蓄積して昇華(しょうか)したのだ。


 別人みたい、とは以前から少し感じていた。

 “みたい”なのか実際にそうなのかでは、レベルやベクトルがまったくちがうとはいえ。


 目の前にいる大和くんがあの頃の大和くんと同一人物なのかどうか、わたしは信じきれなくなっていた。




     ◇




 土曜の午前中、身だしなみを整えるといつものようにリボンをつけて家を出た。

 今日は大和くんとの約束の日だ。


 待ち合わせ場所へ着いたとき、彼の姿はまだなかった。

 スマホで時刻を確かめる。少し早かったみたい。


 取り出したついでに、暗転した画面を鏡代わりにして前髪を整えていると、ふいに声をかけられる。


「風ちゃん、お待たせ」


「……あ、ううん!」


 ぱっと弾かれたように顔を上げると、いつにも増してにこやかな大和くんが立っていた。


 爽やかな雰囲気の私服姿は新鮮でありながらも、どこか馴染んだような気配を漂わせている。

 制服じゃないと、いっそうあの頃のわたしたちに近づく気がした。


「今日、かわいいね」


「えっ。そ、そう……かな?」


「うん、いつもかわいいけど今日は格別。俺とのデート、楽しみにしててくれたんだ?」


「それは……うん」


 はにかむように小さく笑って頷く。


 本質がどうあれ、大和くんと過ごす時間がわたしは好きだった。


 楽しくて、快くて、ストレートに“特別”を実感させてくれる夢心地に浸っていると、甘み以外の余計な味を忘れられる。




 バスを降り、大和くんとともに甘い香りで満たされたビニールハウスの中へ足を踏み入れた。

 列をなす緑の葉に赤色が点々と実っている。


「わぁ、すごい! 苺がこんなに……!」


「風ちゃん、いちご狩り初めて?」


 くすりと笑った大和くんに尋ねられ、頷いて答えると彼はいっそう笑みを深めた。


「じゃあついてきて」


 小さな編みかごを片手に、ふたりして葉の列に歩み寄る。

 ()れた真っ赤な苺をひとつ見つけると、彼が足を止めて手招きした。


「これ、持ってみて。優しくね」


「う、うん」


 促されるのに従って、どきどきしながら手を伸ばす。

 おずおずと苺に触れた。


「そのまま上向けて……」


「こう?」


 実の先端部分を持ち上げつつ首を傾げると、大和くんが「うん」と頷く。


「それで、また優しく引っ張るんだよ」


 そう言ったかと思えば、そっと包み込むようにして手を握られた。


(わ……)


 どき、と心臓が高鳴る。

 距離までいつもより近くて、呼吸の仕方を忘れてしまった。


 直接伝わってくる感触に、体温に、ひたすら動揺しているうちに大和くんが腕を引く。

 ぷち、と茎から苺が離れて手の中に残った。


「分かった?」


 彼が覗き込むようにしてわたしを眺める。

 至近距離でも微塵(みじん)も動じていないようで、浮かべられた微笑みからは普段と変わらない余裕が窺えた。


「……っ」


 一方でそんな余裕なんてないわたしは、速まる心音を自覚しながら、こくこくと頷くのでやっとだった。


 ふ、と息をこぼすように大和くんが笑う。


「……かわいい。風ちゃんのほっぺ、苺より赤いよ」


 言葉にされるとますます熱が上がったような気がした。

 ばっと慌ててうつむくように顔を背ける。


「も、もう。からかわないで」


「からかってないよ? かわいいなぁっていつも本気で思ってる」


 困ったような顔をすることしかできないのに、それでも彼はそんなわたしを嬉しそうに見つめていた。


 そのうち、わたしの手から苺をつまみとる。


「ほら、口開けて。あー……」


 戸惑う隙もなく近づいてきた赤い実を、ぱくんとくわえるように頬張った。

 ヘタの部分だけ指先でちぎっておく。


「ん、美味しい。すっごい甘い!」


「本当? ……どれ、確かめさせて」


 そう言った大和くんがゆっくりと顔を寄せてきた。


 息も思考も止まって、周囲の音が遠のく。

 その分、加速していく自分の心臓の音だけが大きく響いた。


「……なんて」


 間近に迫ってきていた彼の唇は、触れる寸前でぴたりと止まった。

 すっと身を起こしていたずらっぽく笑う。


「冗談だよ」


 そのひとことに深く息をついた。止めていた分がこぼれた。

 だけど、まだ少し苦しいまま。


「びっくりした……。や、やっぱりからかってるでしょ」


 さっき以上に赤く染まっているだろう頬に手の甲を押し当ててみた。

 じんじんと熱が染みてくる。


 思わずむっとしたものの、大和くんは肩をすくめて笑った。


「そんなことないけど、ごめんね。もう意地悪しないから怒らないで?」


 眉を下げて顔を傾ける彼。

 ずるいな、と思った。あざといとも言える態度と表情に。


 分かっていても、そんな大和くんの一面にわたしは弱い。




 存分にいちご狩りを楽しんだあと、またバスに乗り込んだ。

 20分くらい揺られて到着した先は、色とりどりの花が咲き乱れる花畑だった。


「綺麗……」


 あたり一面を春色に染め上げているのはチューリップだ。

 視界を鮮やかに彩ってくれる。


「でしょ。俺ね、風ちゃんとこういうとこ来たかったんだ」


 穏やかに告げた大和くんに、すっと手を差し出された。

 仰向けられたてのひらに自分の右手を重ねる。


 ごく自然な流れで手を繋ぐと、青空のもとに広がる可憐(かれん)な花畑をゆったりと歩き出した。


「どうして……こういうところに?」


「うーん。一番はやっぱり、あの頃を思い出すからかな」


 大和くんは遠くを眺めるような眼差しでそう答えた。

 “あの頃”と幅広く示しはしたけれど、実際に思い浮かべている場面はきっとひとつだけだ。


『おとなになったら、結婚しよう』


 あの日もこんなふうに、清々しく晴れ渡った春日和(びより)だった。


 近所の緑地公園へ出かけた昼下がり。

 シロツメクサが花畑みたいに広がっていて、そこに座り込んだわたしたちは、花かんむりと指輪を作って遊んでいたのだ。


 その折だった。

 大和くんと約束を交わしたのは────。


 なぜか、その思い出だけは鮮明だった。


「……懐かしいよね。花かんむりも指輪も、いまだったらもっと上手く作れるかな」


「十分、上手だったよ。できるならずっと取っておきたかった」


「喜んでくれてたもんね。あのときの風ちゃん、本当にお姫さまみたいでかわいかった」


 何気なく言われて、何気なく答えていて、あとから“実感”というものが追いついてきた。

 顔を上げて、彼の横顔を見つめる。


(……やっぱり大和くんだ)


 あの日のこと────約束のことやシロツメクサのことを知っていた。

 お姫さまみたい、なんてあのときと同じことを口にした。


 一身(いっしん)に注いでくれる変わらないひたむきな想いも、てのひら越しに伝わってくる。


(わたし、本当に何を考えてたんだろう)


 彼はもしかしたら大和くんとは別人なんじゃないか、なんて突拍子(とっぴょうし)もない疑惑を、真剣に吟味(ぎんみ)していたことがそもそも間違いだったのかもしれない。


 そう思うくらいに、彼には疑いの余地なんてない。

 だけど、一度芽生えたその違和感を根こそぎ刈りとるほどの説得力まではなかった。


 理屈じゃなく、感覚の問題だ。

 何かが変だとわたしの直感が言っている。


 言い知れない、そして口にできない、胸の奥のざわめきをどうにか飼い慣らして、平静を保ち続けた。




 帰り際、大和くんは「ちょっと待ってて」とわたしをベンチに座らせて姿を消した。


(どこ行ったんだろう?)


 きょろきょろとあたりを見回すものの、まだ彼は見えない。


 だけど、ベンチの脇にも色とりどりの花が咲き誇っていて、それを眺めていれば待つのも苦にならなかった。


 ────のどかな春風を浴びながら目を閉じる。


 数分が経った頃、ふいに靴裏が細かな砂利(じゃり)を弾くような音がして、誰かが目の前で立ち止まった気配があった。


「風花」


 目を開けて見上げると、大和くんの優しげな瞳に捉えられる。


「ごめんね、お待たせ」


「ううん。……どうかしたの?」


 少し姿勢を正しながら尋ねると、彼は後ろ手に隠していたものをそっと差し出してきた。

 ふわっと視界が明るくなる。


 薔薇やガーベラ、かすみ草で彩られた、かわいらしい花束だった。

 柔らかい風にリボンが揺れる。


「これ、って……」


「風ちゃんにプレゼント。受け取ってくれる?」


 ……嬉しい、と率直に感じた。

 だけど、含みのある言い方のように思えて、ついすぐには頷けなかった。


 花束を眺めてから、窺うように彼の顔を見つめてしまう。

 もしかしたら、これも指輪の代わりのつもりかもしれない。


「嬉しい、けど……婚約の証とかなら受け取れない」


 自信なさげな弱々しい声になってしまったけれど、濁さないではっきりと告げた。


 大和くんからの告白を受け入れるかどうか、わたしはまだ決めきれないでいる。

 いくら罪悪感があっても、流されるべきじゃない。


「そういうわけじゃないよ。単に今日のお礼として。……だから、ね?」


「じゃあ────」


 手を伸ばし、抱き締めるようにして花束を抱えた。

 思っていたより重たくはなくて、わたしの腕にすっぽりおさまった。


「ありがとう」


 そう言うと、ほっとしたような、それでいて満足そうな微笑をたたえた大和くんがわたしの隣に腰を下ろす。

 ふと表情を引き締めると、真剣な眼差しをこちらに向けた。


「……ねぇ、いまの俺たちって何なのかな」


 ただの友だちとも幼なじみとも言えない、曖昧な関係だった。

 約束があっても、想いがあっても、恋人とまでもいかない。


「風ちゃんはなにを迷ってるの?」


「…………」


「もしかして、越智のせい?」


「それは……でも、それだけじゃないよ」


 自分でも手に負えない疑惑と違和感が、純粋な喜びやときめきを上回っている。

 それらを無視できるほど、いっそ盲目的になれたら楽だろうけれど────。


「じゃあ、いまの俺をよく知らないから……なんてまだ本気で思ってる?」


 以前、口にした言葉を思い出す。

 今日をふたりで過ごして、確かにあのときより彼のことを深く知れたような気がする。


 だけど、それとはまた別のところで“大和くん”という人物像を見失いかけている。


 さすがにそうとは言えなくて、また口をつぐんだ。

 途切れることのない眼差しを受けて身じろぎできないでいると、彼が身体ごとこちらに向き直る。


「……いいよ。なら、教えてあげる」


 包み込むようにして頬に手が添えられた。

 大和くんの綺麗な顔が間近に迫ってくる────。




     ◇




 花を()けた花瓶を部屋に飾ると、思わず深々と息をついてしまった。


 帰り際のことが何度も何度も脳裏(のうり)をよぎって、心をつついてくる。


『……いいよ。なら、教えてあげる』


 彼がなにをしようとしたのか、そのとき意図に気がついた。

 けれど、気持ちの部分は重ならなくて。


『……っ』


 とっさに身を縮めるようにして顔を背け、思わず拒んでしまったのだ。


 その瞬間、夢から覚めて金縛りが解けた。

 はっと我に返った大和くんの重たげな表情が頭から離れない。


(あれでよかったのかな……?)


 衝動的な反応だったとはいえ、彼を傷つけてしまったように思えてならない。


 苺を食べたときと同じように、冗談だって撤回してくれることもなかった。

 わたしがわたしのために目を背けていただけで、大和くんはやっぱりいつでも本気だったんだ。


 自分の身勝手さが嫌になる。

 あんなふうにまっすぐ想ってもらえる資格なんてないんじゃないだろうか。


(謝らなきゃ……)


 息苦しいほど申し訳なくなってくるけれど、次にどんな顔をして会えばいいのか分からない。


 再びため息をついたとき、スマホが震えた。

 メッセージアプリの通知だ。


【ごめん】


 たったひとこと、大和くんから送られてきた。

 きゅ、と胸が締めつけられる。


(……何で拒んじゃったんだろう?)


 自分の気持ちが分からない。

 迷子になって錯綜(さくそう)していた。


 相手は大和くんなのに。

 あんなに大好きだった彼なのに、どうしてこんなに複雑なんだろう。


『風ちゃんはなにを迷ってるの?』


 本当にその通りだ。

 わたしはいったい、なにを迷っているのだろう。


 あんなに大事にしていた初恋の思い出。焦がれていたはずの相手。

 なのに、喜びより先に不安や違和感ばかりが大きくなるのはどうして?


「あんなに会いたかったはずなのに……」


 彼に会えば、あのときの記憶から想いが蘇って、あふれて止まなくなると思っていた。

 幸せでいっぱいになる、と。


 だけど、再会の衝撃が落ち着いて、大和くんがそばにいる日常に慣れ始めても、未だにそんな気配はない。


 彼の気持ちはあの頃から変わっていないと分かったのに、素直に喜べないままだ。


 大和くんは大和くんだ。

 今日、一緒に過ごしてそう実感できたはずだった。


 けれど、結局はいとも簡単に揺らいだ。

 完璧な確信を持ってそうだと言いきれないから、疑惑はずっと根づいたままで。


 何もかも曖昧(あいまい)なのは、それが引っかかっているせいなのだとしたら────。


(確かめてみよう、かな)




     ◇




「……おはよ」


「あ、おはよう。悠真」


 昇降口で顔を合わせた彼と挨拶を交わし、ふたりで階段を上っていく。


「ねぇ、聞いていい?」


 ふと、悠真が口を開いた。


「ん?」


「……三枝には返事したの?」


 どき、と図らずも心臓が跳ねる。


 デートだったりキスを避けたことだったり、より鮮烈(せんれつ)な出来事に押し流されて、それどころじゃなくなっていた。


「えっと……まだ、かな」


「そっか」


 悠真の返答は短く、その先に言葉を続けるか迷っているような気配があった。

 わたしは視線を落としたまま言葉を繋ぐ。


「どう思う?」


「……どう、って」


「わたし、どうしたらいいかな」


 つい(すが)るような眼差しを向けた。

 彼はどう受け止めただろう。


 しばらく推し(はか)るようにこちらを見つめ返していた悠真が、ややあって口を開く。


「そんなこと、何で俺に聞くの?」


 まったくもってその通りだった。

 慌てて前を向き、力なく笑う。


「そうだよね。……ごめん」


 わたしは悠真に何を求めていたのだろう。

 なんて言って欲しかったんだろう。


 自分で選ぶことから逃げようとした浅はかさを見透かされ、突きつけられた気がして、目を合わせられなくなった。


 廊下を歩き出して教室の方を見やったとき、ふと気がつく。

 扉の前に立っている大和くんの姿に。


 ぱち、と目が合った瞬間、かぁ、と頬が一気に熱を帯び始めた。


 体温が上がった自覚もあったし、きっと傍目(はため)にも分かるくらい上気(じょうき)していたと思う。


 案の定、(いぶか)しむように悠真が眉を寄せた。


「……何したの?」


 悠真はわたしではなく大和くんに問いかけた。

 歩み寄ってきた彼が口を開くより先に。


 大和くんはそんな悠真を一瞥(いちべつ)したものの、答えることなくわたしに向き直る。


「ごめんね、風ちゃん」


 改めて謝られた。

 何に対する“ごめん”なのかは、わざわざ尋ねなくても分かる。


「謝らなきゃいけないようなことしたの?」


 声を低めた悠真が臆せず追及すると、大和くんは「……はぁ」とうんざりしたようにため息をついた。


「黙っててくれる? きみには関係ないから」


「そんなわけにいかない。どう見たって困ってるし」


 しゃくるようにしてわたしを示した悠真は、毅然(きぜん)とした態度を崩さない。


 どきりとした。

 そんなことない、なんて中途半端に大和くんを庇うこともできず、口をつぐんだまま立ち尽くす。


「だから謝ってるんでしょ」


「……何したか知らないけど、謝るくらいなら最初からするなよ」


 悠真のその言葉は、実のところ大和くんに向けたわけではなかったんじゃないかと直感的に思った。


『ごめん』


 わたしと出かけた日、彼もまたそう繰り返していたから。


『自分のことしか考えてなかった。今日のぜんぶ、俺のわがままだ』


 もしかしたら過去の自分に向けての非難(ひなん)だったのかもしれない。

 何となくそのときのことがよぎって、重なって、余計にむきになってしまったんじゃないだろうか。


 面食らったように一瞬ほうけていた大和くんは、ややあって立ち直るなり悠真の肩を突いた。

 どん、という鈍い音に慌てる。


「大和くん! 悠真、大丈夫?」


「……うん」


 さすがに予想外の行動で、つい(とが)めるように大和くんを見た。


 彼は唇を噛み締めたまま顔を背ける。

 冷静さを欠いているのは一目瞭然(いちもくりょうぜん)だったけれど、これでもどうにか理性を保った結果なのだろう。


「……本当、いちいちむかつく。邪魔しないで」


「俺は自分の気持ちに嘘つきたくないだけ」


「なにそれ、身勝手すぎない?」


「認めなよ。……もう、あの頃とはちがう」


 大人しい印象の強かった悠真だけれど、意外にも怯むことなく淡々と(げん)を返していた。


 押されているように見えた大和くんは、だけど言い返すのをやめて、怪訝(けげん)そうな表情を浮かべる。


「どういう意味?」


「……そのままの意味」


 そう答えた悠真は目を伏せ、切り上げるべく足を進めた。

 さっさと教室の中へ入っていってしまう。


 その姿を目で追ってから、思わず大和くんと顔を見合わせた。


 そうしてから慌てて逸らしてしまうと、彼もまた慌てたように「風ちゃん」とわたしを呼ぶ。


「本当にごめんね」


「……そんなに謝らないで」


「でも……」


「あのときのことなら気にしてないから。わたしこそごめん」


 大和くんがしようとしたキスは確かに独りよがりだったかもしれない。

 だけど、わたしも同じくらい独りよがりな理由で拒んだ。


 嫌だったわけじゃなくて、ただ受け入れるのに心の準備が足りなかっただけだ。


 気にしてない、なんていうのは嘘だったけれど、そうでも言わないと彼は “ごめん”以外の言葉を忘れてしまうんじゃないかと思った。


 大和くんが力を抜いたのが見て取れる。

 先ほどより強張りのほどけた顔ではあるものの、しおらしく眉を下げたままだ。


「さっきもごめんね。……俺、風ちゃんのことになると本当に余裕ないみたい」


 確かにわたしも驚いた。

 瞬間的とはいえ悠真に手を出しかけた姿が、なかなか頭から離れない。


「わたしは平気だけど、それは悠真に伝えるべきなんじゃ……」


「うん、そうだよね。あとで謝っとく」


 本当かな、大丈夫かな、ととっさに不安が渦巻く。


 また知らない一面を見た。

 大和くんという人物像からは想像もつかないような一面を。


 たった一度でもそういうことがあるだけで増長(ぞうちょう)していくほど、疑惑はわたしの中で無視できないものになっていた。

 不信感、とも呼べるかもしれない。


 10年近く離れ離れで、ただの一度だって会うことがなかった。

 幼少期の記憶しかないとなると、はっきり言って“装う”のは容易だ。成り代われる。


 目的は推し量ることもできないけれど、それは事実として確かに言えることだった。


「ね、ねぇ……大和くん」


「ん?」


「大和くんの好きな食べものって何だっけ?」


 たまらずそんなことを尋ねると、彼は不思議そうに瞬く。


「え、どうしていきなり?」


「ちょっと気になって……」


「えっと、甘いものかなぁ」


 少し迷ってから返ってきた答えにはっとした。


 わたしの知る限りでは、彼は小さい頃からクリームシチューが好きだったはず。

 給食でそれが出る日には絶対に休まなかったし、2杯くらいは平気でたいらげていた。


 “甘いもの”なんて漠然(ばくぜん)としているし、かすりもしていない。


 もしや、とつい疑いを深めてしまったとき「あ」と大和くんが声を上げる。


「でもシチューはいまでも好きかな」


 落胆すればいいのか安心すればいいのか、即座には判断ができなかった。

 お陰で大した反応も返せない。


「……そう、なんだ」


「急にどうしたの?」


「ううん、何でもない」


 そもそも食の好みなんて、月日の流れとともに変わる可能性が大いにある。

 あてにならない。


 かまをかけるにしても、確かめるにしても、もっと核心を突くような内容じゃないと意味がないだろう。


「大和くんは……わたしと再会するまで、どこでどうしてたの?」


 これもまた、どちらかと言えば無意味な質問だと自覚していた。

 聞いたところでわたしは答えを知らないから。


 だけど、気になってはいた。

 真実であれ、虚構(きょこう)であれ、彼がどう過ごしていたのか。


「それは……」


 大和くんの瞳が揺らぐ。

 困ったような笑みをたたえた。


「聞いても退屈だよ」


「それでも知りたい」


 食い下がったわたしを彼は意外そうに見返したけれど、それ以上強く拒むことはしなかった。

 観念(かんねん)したように口を開く。


「……親が離婚した話はしたよね」


 再会して間もない頃、確かに彼はそう言っていた。

 だからこそ踏み込めなくなって、いままでどうしていたのか尋ねることを、無意識のうちに遠慮していた。


 そういう意味では、それは予防線だったかもしれない。

 疑惑をもとにうがった見方をするならば、の話だけれど。


「最初の転校できみと離れ離れになったとき、実はもう両親の仲がよくなくて。俺は祖母の家に預けられることになったんだよね」


 そのための転校だったみたいだ。

 思えばあのときも、具体的な理由は教えてくれなかったような気がする。


「それで、まあ……色々あって離婚することになって。俺が“戻りたい”って言ったことで、2回目の転校が決まった感じかな」


 わたしは固く口を閉ざしたまま、何も言えなくなってしまった。


 予防線だなんてとんでもない。

 いまの話を偽りだと疑えるほど、無神経な心臓は持ち合わせていなかった。


「……ほら、言ったでしょ」


 大和くんはまた困ったように笑うと、人差し指でわたしの頬をつついた。


「やっぱりそんな顔させちゃうと思った」


 だから言わなかった、ということだろう。

 いたたまれなくなる。

 ただ辛い過去を掘り返して傷つけただけだ。


「ごめんなさい……」


「ううん、大丈夫だから。おあいこってことで、もう謝り合うのやめよう」


 どう考えても釣り合う出来事ではないのに、そう言ってくれる大和くんの優しさが染みる。


 申し訳なくて苦しい気持ちでいっぱいになる。

 だけど疑いに歯止めをかけるブレーキにはなりえなかった。




「大和くん、これあげる」


 昼休みになり、購買で買ってきたグミとチョコをひと袋ずつ机の上に並べた。


「どっちがいい?」


 大和くんは確かに甘いものも好きだったし、先ほど自分でもそう言っていた。


 だけど、ことチョコに関しては、彼は苦手としていたのだ。

 逆にわたしは大好きで、彼がくれるものをいつももらっていた。


「いいの? じゃあ、こっちもらうね。ありがとう」


 大和くんは何ら迷うことなくグミの方を手に取った。


 これに関してはチョコの方を選んだとしても、それこそ好みが変化したのだと納得していたかもしれない。

 どちらにしても想定の範囲内だ。


「グミって昔はちょっと特別な感じがしたよね」


 わたしは用意していた言葉を口にした。


「お小遣いもらって、ふたりで駄菓子屋に行って、お金出し合っていつも同じグミ買ってたよね。駄菓子じゃなくて」


「そうだね、そういえば……。このグミではなかったけど」


 手にした袋を眺めつつ、大和くんは何てことないように言ってのけた。


 本命としてかけた仕掛け(かま)を、いとも簡単にかいくぐられてしまった。


(それが分かるってことは、本当に大和くんなの?)


 まじまじと見つめてしまうと、ふとこちらを向いた彼と目が合う。


「風ちゃん、もしかして昔のこと思い出したの?」


「えっ。あ、えと……ちょっとだけ」


 誤魔化すように笑みを浮かべた。

 思い出したというのは、実際には正確じゃない。


 とはいえ、わたしも当初はその可能性を考えた。

 悠真がほのめかした“事故”────そのせいで記憶の一部を失ったのではないか、と。


 現に事故のことも曖昧だし、わたしだけが覚えていないというのも、そういうことなら納得がいく。


 だけど、それはきっとちがう。

 事故によって記憶をなくしたわけじゃない。


 なぜなら、思い出はほとんどなくても“情報”はちゃんと持っていたから。


 いまみたいに、大和くんに関することは覚えているのだ。


 いまのところ、彼は完璧だった。

 わたしの中にある大和くんの情報と齟齬(そご)もない。


 でも、だからこそ形のない違和感が拭い去れない。

 彼が大和くんであるほど何かが()せない。


 それで自覚した。

 わたしはやっぱり、目の前の人を疑っている────。


「……あ、の」


 机の上に目を落としていると、無意識のうちに言葉がこぼれ落ちていた。


「昔……わたしの誕生日に駄菓子屋で、両手に抱えきれないくらいのチョコ買ってくれたことあったよね」


 いま口にしたのは完全なでたらめだった。またしてもかまをかけたのだ。

 (よど)みなく言えたことに自分で驚いてしまう。


 大和くんは記憶を手繰(たぐ)るように視線を彷徨わせたあと、小さく笑って頷いた。


「……うん、そんなこともあったね」


 その返答にはっとした。

 手繰ったところで思い当たるはずがないのに、彼はさも思い出したかのような口ぶりだ。


(どういうこと……?)


 もしかして本当にそんなことがあった?

 それにしてはほかのことより反応が鈍かった。


(それなら……わたしの嘘に、とっさに乗っかった?)


 眉をひそめたまま大和くんを見つめる。


 曖昧な彼の笑顔は奥まで見通せないほど不透明で、わたしの心に暗い影を落としていった。




 今日は日がな一日、()りもしないで大和くんを試すようなことばかりを口にしていた。


 結果として、昼休みのあれ以外に彼が墓穴(ぼけつ)を掘ることはなかった。


 ただ、何にしても“偽物”つまり別人だというのなら、どうして彼が大和くんの情報を持っているのかは謎────。


「ねぇってば」


「……えっ?」


 ひらひらと目の前で手を振られ、意識が現実へと引き戻される。


 いつもの帰り道を、悠真と一緒に歩いているところだった。


「考えごと?」


「あ、うん。ごめん。……実はちょっと気になってることがあって」


 悠真は何も感じていないのだろうか。

 大和くんに対する違和感や疑惑、その片鱗(へんりん)でも。


「なに?」


「小さい頃に離れ離れになって再会した人が、同じ人かどうかなんて……普通に考えて分かりようがない、よね」


 どうしてか悠真には“何でもない”と突き放したり強がったりすることができなかった。


 分かってくれるかも、という期待が気づかないうちに込もっていたかもしれない。


「……それって、あの頃の三枝といま目の前にいる三枝が同一人物かどうか疑ってる、ってこと?」


 果たして彼は端的(たんてき)に核心を突いてきた。

 こく、とわたしは頷く。認めざるを得ない。


「どっちかにしかない思い出なんて、妄想と変わらないもんね」


「そ、そこまでは思ってないけど……」


「じゃあ何でそんなこと考えたの?」


 そう聞かれると、まだうまく言葉にはできない。

 思考と感情が絡み合ってほどけない。


「……何となく違和感があるような気がして。大和くんに、っていうか、わたしたちに、っていうか」


 色々と腑に落ちない部分が積み重なって、不信感に繋がった。

 あの頃のように戻れないのは、時の流れだけが理由じゃないと思う。


 また考えが深みにはまっていきそうになったとき、おもむろに悠真が口を開いた。


「三枝は三枝だよ。本物」


 どうしてそう言いきれるのだろう?

 そんなにはっきりと断言されると、かえって納得がいかない。


 眉を寄せたまま返す言葉を探しているうちに、彼に先を越された。

 いっそうまじめな顔つきになって続ける。


「だけど、あいつのことはあんまり信じない方がいい」


 予想外のひとことに驚いて目を見張る。


「どうして……? どういうこと?」


 たったいま、大和くんは本物だ、と言いきったのは紛れもない悠真だ。

 それなのに“信じるな”なんて。


 戸惑いが膨らんでいくけれど、彼は打ち切るように視線を逸らした。

 そのまま静かに口を開く。


「……今朝、どうしたらいいのかって聞いたよね」


 身に余るほどの大和くんからの想いを、それに伴う不信感を、持て余したわたしは確かにそう不安をぶつけた。


 ゆっくりと歩を緩め、足を止める。


 悠真の横顔はどこか(うれ)いを帯びているように見えて、なぜだかどきりとした。


 いまになって緊張してくる。

 ふたりで歩くのなんて初めてじゃないのに、一緒に出かけた日のことがちらついて、思わず変に意識してしまう。


「俺にしなよ」


 突然のひとことだった。

 一瞬の迷いもなく、彼は告げた。


 だんだん理解が追いついてくると、鼓動が加速の一途(いっと)を辿り始める。


「え……?」


「俺を選べばいい」


 それこそが“どうすればいいのか”というわたしの問いに対する、悠真の答えということだろう。


「簡単でしょ。……俺の方がきみのことよく分かってるし」


 そう言って目を伏せると、こちらへ手を伸ばしてどこかためらいがちに頬に触れた。

 指先から優しい体温が伝わってきて、彼から目を離せなくなる。


 以前、同じことをした大和くんの温もりや感触が、ぜんぶ上書きされていくみたいな気がした。

 感情の振れ幅が、比にならない。


「ゆう、ま……」


「────なんて」


 するりと手が離れていく。


「……これも俺のわがままか」


 そう、悠真は笑った。笑っているのに泣きそうに見えた。

 あまりに儚い表情に思わず息をのむ。


 高鳴ったままおさまらない心音も、胸を締めつける感情も、どうすることもできないで立ち尽くした。


 傾いた日が溶かしてくれるわけもなく、ただ口をつぐんだまま。


「……でも、ひとつだけ覚えてて」


 その声は普段と変わりないけれど、いまはそこにいつも以上の優しさと強さを感じた。


「俺はきみを守りたいだけ。何があっても、それは揺らがない」


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