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初恋シンドローム  作者: 花乃衣 桃々
◆第1章 再会
1/4

第1話


(ふう)ちゃん」


 優しくて心地いい彼の声が「わたし」の心に春を運ぶ。


「わ……」


 顔を上げると、ふわりと頭に何かが乗せられた。

 シロツメクサでできた花かんむりだ。


「ありがとう」


「うん。おひめさまみたいでかわいい」


 そう言われ、この間ふたりで読んだ絵本を思い出す。

 彼の瞳にはそんなふうに映っているのか、と少し照れくさくなる。


 “お姫さま”と言うには、ドレスと王子さまが足りないけれど。


 そのとき、彼が「わたし」の左手をとって握り締めた。

 花が開くように柔らかく笑う。


「風ちゃん、ぼくのおよめさんになって」


 今度は頭の中に純白のウェディングドレスが浮かんだ。

 彼が王子さまになってくれる、ということだろうか。


 心臓がどきどきした。

 世界の輪郭(りんかく)がきらめいて、あたたかい光で満ちていく。


「おとなになったら、結婚しよう」


 薬指にシロツメクサの指輪がはめられる。

 宝石のついた本物の指輪じゃなくても、ほかの何より輝いて見えた。


「うん、約束……!」




 ────それから色々あって、家の事情で引っ越すことになった彼は、最後に「わたし」のところへ来て言った。


「ぜったい迎えにいくから」


 いつか、きっとまた会える。


 そんなささやかな希望を胸に、差し出された小指に自分のそれを絡めて頷いた。


「待ってる」




     ◇




 目を覚ますと、部屋中に柔らかい朝の空気が漂っていた。

 昨日よりも春のにおいを強く感じる。


 (かたわ)らのスマホがアラーム音を響かせていることに気づいたのは、ベッドの上で身体を起こしてからのことだった。


 まどろんでそれを止めるとあくびする。

 視界に光の粒が散った。


(また、あの夢をみてた……)


 少しも色()せない、幼い頃の儚くて幸せな思い出。

 春になるといつも夢にみる。


 “大人になったら結婚しよう”。


 ────そんな約束を交わしてから、もう10年近くが経った。


 彼と会えない日々は(つの)る一方なのに、わたしは未だに忘れられないでいる。


『ぜったい迎えにいくから』


 その言葉を信じて、再会を願って、待ち続けている。




     ◇




「行ってきまーす」


 とん、とローファーのつま先を打ちつける。

 玄関のドアを開けて庭の小道を歩き出したとき、門の向こう側に人影が見えた。


 鼻先をくすぐるような花香(はなか)をかき分け、首を傾げながら歩を速める。


 門を開けると、その音に気がついたらしい彼がこちらを振り向いた。


「……おはよ」


「おはよう……って」


 反射的に挨拶を返してから、遅れて驚きに包まれる。

 ぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「どうしたの? 悠真(ゆうま)


 門前に立っていた幼なじみの彼は、答える前に鞄を肩にかけ直す。


 いつもながら表情が薄くて眉ひとつ動かない。

 けれど冷たい雰囲気はない、というのが彼だった。


「別に、一緒に学校行きたいなと思っただけ。……やだ?」


「や、嫌とかそういうことじゃないけど」


「じゃあ、よかった」


 言葉通りどこか安心したように、その口元がわずかに和らいだ。


 無口でマイペースなところもいつもと変わらない。

 だけど、今日は何となく素直な気がする。


 隣に並んで歩き出すと、思わず彼の整った横顔を見上げた。


(急にどうしたんだろう?)


 幼なじみという仲もあって、普段からよく話はしていた。

 だけど、こんなふうに迎えにきてくれるなんて初めてのことだ。


 わたしの視線に気づいていないのか、あるいはあえて気に留めないようにしているのか、まるごと無視した悠真はぽつりと口を開く。


「放課後も一緒に帰ろ。どうせ予定とかないでしょ」


「う、うるさいな。そうだけど……」


「じゃあ決まりね」


 淡々と言った彼からその真意は覗けなかった。


 成り行きでそうすることはあっても、あらかじめ約束をとりつけたことはこれまで一度もなくて首を傾げてしまう。


「でも、何で?」


 疑問がそのまま口をついた。

 ためらうような、考えるような、そんな間が空いてから答えが返ってくる。


「……少しでも長く一緒にいたいから」


 あまりに予想外で、とっさに言葉が出てこなかった。

 声すら喉に詰まり、一瞬だけ呼吸を忘れた。


「え?」


 戸惑いが動揺に変わると、ふと鼓動を意識させられる。

 そのことにますます困惑して、少し頬に熱を感じた。


 繰り返して強調される“一緒に”という言葉に冷静さを奪われた挙句(あげく)、感情を(さら)われそうになる。


 ようやくこちらを向いた悠真の眼差しは真剣で、だけど覗き込んでも真意までは見通せない。


 その瞳に捕まっていると、何だか飲み込まれてしまいそうな気がした。


「な、なに言って……っ」


 冗談めかして笑おうと思ったところ、がっ、と石か何かにつまずいた。

 つんのめって息をのむ。


 けれど、覚悟したような痛みはやって来なかった。

 代わりにお腹から腰にかけて別の衝撃が訪れる。


「大丈夫?」


 はっとして顔を上げると、至近距離で彼と目が合った。

 とっさに支えてくれたのだとやっと気がつく。


「だ、大丈夫……! ごめん」


「……なにやってんの、ドジ」


 いまになって照れくさくなったのか、回した腕をほどきながら悠真は毒づいた。


 最後に背中に添えられていた手が離れたけれど、感触はなかなか消えずに残ったままだ。


「あ、ありがとう」


 動揺を拭えずに小さくお礼を告げる。

 心臓が騒がしいのはきっと、転びかけてひやりとしたせいだ。


 彼は顔を背けたまま「ん」とだけ答え、再び歩き出す。


「……ほら、そんなだから見張ってないと不安になる」


「悪かったね、ドジで!」


 むっとして言い返すものの、それから思わずほんのりと笑ってしまった。


「でも、悠真って優しいよね。昔から」


 そう言おうとしたわけじゃなかったのに、思ったことがこぼれた。

 いまとなっては、誰よりそばにいてくれている存在だ。


 彼の手がしっかりと支えてくれた腰のあたりに触れてみる。

 気のせいだと分かっているけれど、ちょっとだけ熱を感じた。


「誰にでも優しいわけじゃないよ」


 思わぬ言葉だった。

 彼を見上げても、今度はそれ以上何かを口にする気はないらしく、前を向いたままつぐんでいる。


(ど、どういう意味なの?)


 いっそう速まった心音に戸惑いがかき立てられた。


 口数が少ないのは相変わらずだけれど、だからこそいまはもどかしくさえ感じる。


 確かに悠真はわたしを大事に思ってくれているのかもしれない。

 先ほどの行動や普段の態度からして、勘違いじゃなければそうなのだと思う。


 だけど、それが“幼なじみ”としてではなかったとしたら?


(どうしよう……)


 じんわりと熱を帯びた頬を両手で包み込む。


 何だか急激に彼の存在感が増した。

 心の隙間に滑り込んできて、どうしたって意識してしまう。


 当たり前に歩けていたはずの悠真の隣という居場所に、いつの間にか緊張を覚えつつある自分がいた。




 ────ささやかな変化はあっても、今年の春もまた例年と同じように、よくも悪くもつつがなく流れていくものだと思っていた。


 2年生に進級して一週間と少しが経ち、高校生活そのものにはすっかり慣れた時期。


 本鈴が鳴ると、新学期特有のそわそわと浮ついた教室内に、ひときわにこやかな担任が入ってきた。


「はい、みんな席着けー。転入生を紹介する」


 一度止んだざわめきが一瞬にして舞い戻る。

 誰かの「この時期に?」という声が聞こえた。


 親の仕事の都合で、という理由だとすると、確かにちょっと遅いような気もする。

 4月なら春休み明けに合わせるイメージだった。


(どんな人だろう?)


 仲良くなれるといいな、なんて期待が膨らんで無意識のうちに姿勢を正していた。


「じゃあ入って、三枝(さえぐさ)くん」


 先生の言葉で、男の子なんだ、と思い至る。

 それと同時に扉が開いた。


(わ……)


 彼が教室に足を踏み入れた途端、時間が止まったかのような錯覚(さっかく)を覚えた。


 すらりと背が高くて、整った綺麗な顔立ちをしている。

 たたえた柔和(にゅうわ)な微笑みは甘やかで、女の子たちだけでなく男の子たちまで、しばらく釘づけになっていたように思う。


「三枝大和(やまと)くんだ。みんな仲良くするように」


 美形な転入生に圧倒され、そんな先生の言葉はたぶんほとんどが聞いていなかったんじゃないだろうか。


 しん、と()いでいた空気がややあって揺らぎ、黄色い声混じりのざわめきが広がる。


「こら、静かに。三枝、何かひとこと頼む」


 先生に振られた彼は、おもむろに教室内を見回した。

 クラスメートたちを確かめるように。


 その視線がなぜか突然、わたしで止まる。


「……?」


 思い違いかとも思ったけれど、その瞳の焦点(しょうてん)は間違いなくわたしに定まっていた。

 何となく身じろぎできないまま、彼を見つめ返す。


「…………」


 彼の顔から微笑みが消え、驚きの表情が浮かんだ。

 息を吸ったものの声にはならず、そのまま口を引き結んだかと思うと、噛み締めるように笑う。


 その意味を測りかねているうちに、彼は足を踏み出した。

 迷うことなく一直線にわたしの元へ歩み寄ってくる。


(え? えっ?)


 状況が飲み込めずにおろおろと困惑していると、真横まで来た彼に笑いかけられた。


「やっと見つけた」


 驚いたり戸惑ったりする間もなく、そっととられた左手が包み込まれる。

 とろけるほど幸せそうな笑顔で、彼は言った。


「ずっと会いたかったよ、風ちゃん」




 真隣から感じる熱烈(ねつれつ)な視線から顔を背けつつ、困り果てたわたしはため息をついた。


 いったい、どうしてこんなことになったんだろう。


『あ、先生。俺の席、ここがいいです』


 ────今朝のホームルームで転入生として紹介された三枝くんはあのあと、わたしや周囲の混乱に構うことなく、わたしの隣の席を悠々(ゆうゆう)と希望した。


 ちょうど1番後ろ、そしてちょうど隣が空いていて、たまたま重なった“ちょうど”のお陰で隣同士になったのだ。


 ほどなくして授業が始まったはいいものの、まだ教科書がないから、とぴったり机をくっつけていまに至る。


 三枝くんは頬杖をついたまま、嬉しそうにずっとこちらを見つめていた。

 広げたノートにはひと文字も書いていないし、シャーペンを握る気すらないみたい。


(本当に、どうしてこんなことに……?)


 誰もが見惚れるような美形の転入生に、いきなり見初(みそ)められる自信はないのに。

 隣が眩しくてたまらない。


『やっと見つけた』


 ふと最初にこぼされたひとことを思い出し、あれ、と思う。


『ずっと会いたかったよ、風ちゃん』


 はたと顔を上げ、彼の方を向いた。


(わたしのこと、知ってる……?)


 怒涛(どとう)ともいえる展開が相次いで、彼の言葉をまともに受け取ることができていなかったみたいだ。


 やっとの思いで迎えた休み時間、号令を終えるなり座るより先に彼を窺った。


「あの、三枝く────」


「三枝くん!」


 呼びかけた声に別のそれが重なった。

 どたどたと雪崩(なだれ)のように押し寄せた女の子たちが、あっという間に彼を囲む。


 その強烈な勢いで体当たりを食らい、たたらを踏んだ足が床を捉え損ねた。

 バランスを崩したわたしはその場に倒れ込む。


(痛た)


 したたかに打ちつけたてのひらから、電流が流れるような痛みが伝う。


 彼女たちのものすごい積極性と三枝くんのカリスマ性に圧倒されながら、その人だかりを見上げた。

 恐るべしといったところだ。


「ねぇ、三枝くんって彼女いるの?」


「てか、鈴森(すずもり)さんとどういう関係? あんなふうに手握ったりとかしちゃって」


「いいなぁ、わたしも隣がよかった!」


 次から次へと質問攻めにされた彼は、だけどひとつとして答えようとしない。


「悪いけど」


 椅子を引いて立ち上がると、彼女たちの弾んだような声が止む。

 三枝くんはわたしの(かたわ)らまで歩み寄ってきた。


「俺、この子以外に興味ないから」


 驚いて見上げると、彼は最初と同じ甘い微笑みを浮かべて彼女たちに向き直っていた。


 だけど、優しさは感じられない。

 何となく冷ややかで突き放すような表情だ。

 案の定、女の子たちの顔が引きつった。


「……大丈夫? 風ちゃん」


 くるりとこちらを向いた彼に手を差し伸べられる。


「あ……うん」


 戸惑いながらその手を掴んで立ち上がった。


「ありがとう」


 初めて間近でまともに彼を見た、ような気がする。

 先ほどとはまた一転して、穏やかな笑みがたたえられる。


 彼を囲んでいた女の子たちは、一様に不満そうではあったけれど、切り上げて退散していった。

 羨望(せんぼう)と嫉妬の眼差しが突き刺さって萎縮(いしゅく)する。


 あらぬ誤解を招いたり、敵と見なされたりしたらどうしよう、という不安は拭えなかったものの、ひとまず三枝くんと話す機会を得られてよかった。


 わたしはつい眉をひそめてしまいつつ、彼を見据える。


「ね、ねぇ、三枝くん。わたしたちって知り合い……だった?」


「え?」


 目を見張ったあと、今度は彼が眉を寄せた。


「……俺のこと覚えてない? 吉岡(よしおか)大和だよ」


 どきりとした。

 そのまま心臓が止まったかと思った。


 記憶の底にしまっていた思い出が、きらめいてあたたかい光を放つ。


「えっ!? ()()大和くんなの!? 本当に……?」


「そう、きみの許嫁(いいなずけ)。思い出してくれた? 約束通り迎えにきたよ」


 瞬きすら忘れたわたしは固まってしまった。

 10年近い日々、ずっと夢みてきた瞬間が本当に訪れたのだ。


 何度も()がれては切なくなって、でもそれ以上に幸せで愛しい記憶────。

 それが、ただの遠い思い出ではなくなった。


 大和くんは「はは」とおかしそうに笑い、それから眉を下げた。


「……なんて、言えたらよかったんだけど」


「えっ?」


「ごめん、再会は偶然なんだ。両親が離婚して、俺は母親に引き取られて、たまたまこの学校通うことになってさ」


 目を伏せた彼の長い睫毛が揺れる。

 消え入りそうなほど儚げで、きゅ、と胸が痛んだ。


 苗字が変わっていた時点で、その事情を察するべきだった。

 そうしたら、そんな顔をさせないで済んだかもしれないのに。


「……でもね、だからこそ運命だって思った」


 ふと視線を上げた大和くんの顔からは、暗い(かげ)りが消えていた。

 晴れやかに(ほころ)んでいる。


 優しげながら確かな熱を帯びる眼差しに捉えられた。


「風ちゃん。あの約束は忘れてないよね」


 春の陽だまり。

 シロツメクサの花かんむりと指輪。

 頬を染めて幸せそうに笑い合う姿。


『おとなになったら、結婚しよう』


『うん、約束……!』


 切り取ったようにその場面が鮮明に蘇り、気づいたら頬に熱が宿っていた。


(いまも……有効、なの?)


 瞳が揺らぐのを自覚しながら彼を見返したとき、ふっと横に気配を感じた。


「近い」


 びくりと肩が跳ねる。

 いつの間にかそばに立っていた悠真が、普段通りの淡々とした口調で言う。


「悠真」


「……いつまでそうしてんの」


「え? わっ、本当だ」


 指摘されて初めて、大和くんに手を握られたままだということに気がついた。


 驚くほど体温や感触が馴染んでいたせいか、それ以上に衝撃的なことがあったからか、完全に意識の外側にあった。


 慌てて手を引こうとしたけれど、なぜだか逆に力を込めて阻まれた。


 大和くんはあの表面的な微笑を浮かべたかと思うと、まじまじと悠真を眺めて首を傾げる。


「悠真……って、もしかして越智(おち)悠真?」


「だったらなに。早く離して」


「え? やだ。風ちゃんは俺のだし、何できみの言うこと聞かなきゃなんないの?」


 ふたりが静かな火花を散らしているように感じられて、わたしは唖然としてしまいながら何も言えないでいた。


(な、なにこの状況……)


 困惑しながら視線を行き来させていると、ふいに悠真が動いた。


 ぐい、とわたしの腕を引き、大和くんから強引に引き剥がす。

 するりと彼の手が離れると、重なっていた体温が消えた。


「残念」


 くす、と大和くんが笑う。

 冗談にしても本気にしても、随分と余裕そうな態度だった。


「……触んないで」


 対して悠真は珍しく苛立っているのか、不機嫌なのが目に見えて分かる。


 前面に押し出した警戒心を隠そうともしないで、こんなに険しい表情をしているところは初めて見た。


「どうして?」


「どうしても」


「へぇ、きみがそんなこと言うなんて。……きみってさ、一匹狼っていうかひとりぼっちっていうか、誰にも無関心って感じじゃなかったっけ?」


「おまえは誰に対してもいい顔してるぺらぺらな人気者だったよね。俺のこと覚えてるなんて意外」


 ぴくりと大和くんの眉が動いた。

 お互いに遠慮も容赦もないもの言いだ。


 喧嘩はして欲しくないけれど、わたしが口を挟む隙もなく、成り行きを見守ることしかできない。


「……あ、もしかして」


 何かをひらめいたような大和くんが、わざとらしい笑みを浮かべる。


「好きなの? 風ちゃんのこと」


 一瞬、沈黙が落ちた。

 呆気(あっけ)にとられたのは、悠真だけでなくわたしも同じだった。


「……は?」


「それとも付き合ってるとか?」


 こてん、と大和くんは首を傾げる。


「な、ない! 付き合ってない」


 慌ててそう否定すると、彼はふわりと柔らかく笑った。

 分かってた、とでも言いたげな反応だ。


「うん、そうだよね。風ちゃんには俺がいるんだし」


 満足そうな顔をしていた。彼にしてみればそうなのかもしれない。

 わたしに歩み寄ると、そっと顎をすくう。


「……ってことで、問題ないよね? 好きなだけ触れるよ。会えなかった分」


 彼はまた、悠真ににっこりと笑いかけた。

 だけどその瞳には挑むような気配があって、まったく笑っていない。


「ち、ちょっと……!」


 あまりにも近い距離感は、わたしにとっても毒だ。

 心臓がもたない。


 大和くんの手をどうにか剥がすと、助けを求めるように悠真を見た。

 彼がまたたしなめてくれないか期待した。


「…………」


 けれど、悠真は何も言わずに顔を背けた。

 そのまま離れると、きびすを返して自分の席へと戻っていってしまう。


「……分かりやす」


 わたしの身長に合わせて身を屈めていた大和くんが体勢を戻しつつ、小さく呟いたような気がした。


 それはほとんど休み時間の喧騒(けんそう)に紛れていたから、もしかすると気のせいかもしれない。


 こちらに視線を戻した大和くんは「そうだ」と思いついたように口を開く。


「風ちゃん、一緒に昼食べていい?」


「あ、うん! もちろん」


「あとさ、できれば校舎の案内とかもして欲しいな」


「わたしでよければ全然するよ」


 何となく戸惑いが抜けきらないで、接し方を決めかねている部分があった。


 けれど、大和くんはそれさえ見透かしたような、余裕のある完璧な微笑みをたたえる。


「ありがとう、風ちゃん」


 ほかの人への笑顔とは、態度とは、明らかにちがっていた。

 うぬぼれでも勘違いでもないことは、彼の眼差しが物語っている。


 彼にとってわたしは特別な存在なのだと、照れくさいけれど自覚するには十分すぎる。


 身に余るほどの想いがあふれて、溺れてしまいそうだ。




     ◇




 昼休み、彼とお昼を食べてからさっそくふたりで教室を出た。

 移動教室で使うところや学食なんかを中心に案内して回る。


 大和くんは機嫌よさげで、終始ずっとにこにこしていた。


 また、彼のことは既に噂になっているみたいだ。

 教室を通り過ぎたり人とすれ違ったりするたび、何となく視線を感じるような気がして、わたしとしては落ち着かない。


 並んで廊下を歩きながら、ちらりと彼を窺った。


「……嬉しそうだね、大和くん」


「嬉しいよ。こうしてまた風ちゃんと会えただけでも嬉しいのに、これからは同じ学校に通えるんだから」


 そう言葉にされても、何だかまだ実感が湧かない。


 もしかしたらこれは夢なのかもしれない。幻かもしれない。

 まだ、ちょっとリアリティが(とぼ)しくて、そう悲観的になってしまう。


「しかも同じクラスで隣の席。約束がなくても会えるって、こんなに幸せなんだね。風ちゃん」


「う、うん」


 (よど)んだ返事になったのは、決して意に反していたからではなかった。

 ただ、いまになってその呼び方に照れくささを感じ始めたのだ。


「どうかした?」


「ううん、その……“風ちゃん”って懐かしくて。いまもそう呼んでくれるんだなぁって」


 そう言うと、くす、と大和くんが笑う。


風花(ふうか)、の方がよかった?」


 ふいに呼ばれ、どき、と心臓が跳ねた。

 呼んでくれる相手が変わるだけで、自分の名前なのに何だか慣れない響きに感じられる。


 そう考えて、そういえば、と思い至った。


(悠真は全然、わたしの名前呼んでくれないな)


 付き合いは長いのに、記憶にある限り、彼がわたしを“風花”と呼んでくれたことは一度もないような気がする。


 そもそも呼ばないことが多いけれど、呼ぶときはたいてい“おまえ”とか、やむを得ないときは苗字とか、それでもそのときはどこか不本意そうな声色だ。


 ふと、寂しく感じた自分自身に困惑した。


(な、なに考えてるんだろう。こんな、まるで付き合ってるみたいな悩み……)


 ひとりでわたわた焦っていると、突然視界に大和くんが現れた。

 一歩前に歩み出て、正面に立つ。


「……考えごとなんて寂しいな」


「そんな────」


「ねぇ、風花」


 とっさに否定しかけたものの、あれこれと誤魔化す気は、たったひとことそう呼ばれただけで()がれた。

 はっとして、ぜんぶの意識が彼に向く。


「あの約束、俺はいまでも本気だよ」


 疑いの余地もないほど、まっすぐな眼差しと重厚感のある声音だった。

 彼はすくうようにわたしの左手を取り、薬指を優しく撫でる。


「さっきも言ったけど、この再会も運命だって本当に信じてる。だから、真剣に考えてみてくれないかな」




 放課後になると、鞄を肩にかけた悠真が歩み寄ってきた。


 色々なことが起こってすっかり頭から抜け落ちていたけれど、一緒に帰ろう、と誘われていたのだった。


「す────」


「ねぇ、風ちゃん。一緒に帰っていい?」


 身を乗り出し、これ見よがしに言ってのけた大和くんを「えっ?」と見つめる。


 鈴森、と苗字ではあるけれど珍しくわたしを呼んでくれようとしたであろう悠真も、さすがに怪訝(けげん)そうな顔をして彼を見ていた。


「だめ?」


 大和くんはただひとり、楽しげに笑みをたたえながら小首を傾げている。


「う、ううん。だめじゃない、けど……」


 転入してきたばかり、越してきたばかりで、慣れていない道には不安もあると思う。


 教科書だったり校内の案内だったりも(しか)り、わたしを頼りにしてくれるのは実際嬉しい。


 もちろん、あの約束を通して特別な絆を感じてくれている、という前提があるからこそなのだろうけれど。


 だから無下にはしたくなかった。

 でも、今日は悠真との先約がある。


 今朝から態度や様子が普段とちがっていることに気づいた以上、彼のことだっておざなりにはできない。


(どうしよう?)


 どちらを優先すべきか分からず、答えられないでいると、はっとふいにひらめいた。


「そうだ! じゃあ3人で帰らない?」


「はあ……?」


 我ながら名案だと思ったのに、悠真が真っ先に、そして露骨(ろこつ)に嫌そうな顔をした。


 淡白(たんぱく)な彼の表情変化を見られるのは新鮮だけれど、思っていた反応とはちがう。


「よ、よくなかった? 仲直りできるかなと思ったんだけど……」


「別にそもそも喧嘩してないし」


「俺はいいよ、風ちゃんがいるなら。ふたりきりの方がもっといいけど」


 積極的な大和くんは相変わらずの調子で、さらりとそんなことを言う。

 けれど、一方の悠真は億劫(おっくう)そうにため息をついた。


「……それなら俺は先に帰る。じゃあね」


「え、ちょっと。待って、悠真────」


 何か言いたげな割に自ら背を向けると、すたすたと振り向くことなく教室を出ていってしまった。


 その姿が見えなくなっても、目を逸らせないで扉の方を見つめていると、机の上に置いていた手に大和くんのてのひらが重ねられる。


 突然伝わってきた温もりに驚いて彼を見ると、柔らかく微笑み返された。


「ちょうどよかった。これでふたりきりだね」




 ────結局、大和くんとふたりで帰路(きろ)につき、家に帰り着いたわたしは早々に自室へ上がった。

 どさ、とベッドに倒れ込むとマットレスが跳ねる。


「ふぅ……」


 一日の出来事があまりに濃くて、まだ頭の中が混乱していた。


 彼との再会という事実をやっと冷静に受け止められたいま、ますます思考や感情が絡みつく。


(本当にまた会えたんだ)


 ようやく実感が湧いてきた。

 置き去りになっていた気持ちが追いついてくる。


『あの約束、俺はいまでも本気だよ』


 どくん、と射られたように心臓が高鳴る。

 大和くんの存在が意識を満たしそうになったとき、ふいにスマホが震えた。


「や、大和くん」


 ちょうど彼からのメッセージだった。勢いよく起き上がる。

 アカウントは別れ際、言われるがままに交換したのだ。


【今日は色々とありがとう、風ちゃん】


 通知をタップし、トーク画面を開いた。

 そうしてから、早すぎたかも、とわずかな後悔が押し寄せてきて慌てる。


【まだどこか夢みたいだけど、運命なら当然だよね】


 こうして再会を果たしたことを指しているのだろう。

 “偶然”とは言っていたけれど、運命を信じるならば必然だと言いたいみたい。


【また明日】


 立て続けに届いたメッセージを丁寧に目で追って、何度も読み直す。

 キーボードを開いたはいいものの、なんて返そうか迷って指が彷徨っていた。


【わたしも大和くんとまた会えて嬉しい】


 無難に、でも正直に言葉を紡いで送る。

 ちょっと気恥ずかしくなって「また明日ね」と急いで続けると画面を閉じた。


「…………」


 ぼんやりと目の前の(くう)を眺め、二度目のため息をつく。


 ずっと忘れられなかった初恋。

 彼はいままで、わたしの心の大部分を()めてきた。


(……でも、全然分からなかったな)


 幼少期の記憶しかなくたって、たとえば街中で偶然すれ違っただけでも、すぐに気がつくと思っていた。

 それこそ運命なら、第六感のようなものが働いて。


 だけど、そんなことは決してなかった。

 彼の名前を聞いて、そして彼がわたしの名前を呼んでくれても、まだ気づかなかったのだから。


 大和くんの方はひと目見ただけで分かったみたいだったのに。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


 彼に思いを()せると、決まってあの一場面が蘇っては脳裏(のうり)をちらついた。

 春に包まれながら結婚の約束を交わした、幼いわたしたち。


 だけど────。


(……あれ?)


 いまになって気がついた。

 逆にそれ以外の思い出が曖昧(あいまい)だ。

 というか、そもそも蘇ってこない。


「どうして……」


 肌の上を砂粒が滑ってざらついたような、妙な感覚に包まれた。


 小さかったから忘れているだけ?

 そう考え、ふともうひとりの幼なじみである悠真のことがよぎる。


 彼とも小学校からの付き合いだけれど、その当時の思い出はほとんどない。


 だけど、それは当たり前といえば当たり前だ。

 彼と親しくなったのは中学校に上がってからのことだから。

 それからのことはよく覚えている。


(でも、何で大和くんのことは────)


 ほとんど何も覚えていないのだろう?


 勘違いでもうぬぼれでもなく、彼はいまでもわたしに強い好意を抱いてくれているようだった。


 わたしも大和くんのことは好きだった。大好きだったはずだ。

 この10年近く、片時も忘れられないほど。


 わたしの中で初恋の記憶と大和くんとの思い出は、何より特別なものだった。

 いつかまた会えたら、と切に願ってきた。


 彼がいまも変わっていないのなら、きっとまたしても惹かれてしまうだろうと思っていた。


(それなのに……)


 この言い知れない胸騒ぎは何なのだろう。

 お陰で気持ちが揺らいでも、傾きはしない。


 いまひとつ気持ちが盛り上がらないで戸惑ってしまうばかり。

 それは再会の喜びより、驚愕や衝撃が(まさ)っているからだと思っていた。


 けれど、ちがうのかもしれない。

 現にこうして冷静になると、さらに戸惑いが大きくなった。


(もやもやする)


 煙みたいな(もや)が胸の内を掠めてせめぎ合う。


『俺、この子以外に興味ないから』


 ひたむきな大和くんの想いに応えたいのに────。




     ◇




 翌朝、門の向こう側にまた見慣れた後ろ姿があることに気づいた。

 小道を駆けるようにして歩み寄り、取っ手を引く。


「……悠真」


「おはよ」


 昨日の放課後の雰囲気からして、来てくれないと思ったのに意外だった。

 ここにいるのはいつも通りの彼。


「おはよう」


 正直、少しほっとしながらそう返す。

 悠真の隣という馴染んだ場所は、やっぱり居心地のいいものだった。


「……昨日はごめん」


 歩き出して少しした頃、ぽつりと彼が言う。


「あんな子どもみたいな態度とって」


「すねてたの?」


 思わず小さく笑いつつ、からかうように尋ねた。


「何で俺がすねるの」


「本当は一緒に帰りたかったのかな、って思って」


「三枝と? ……ないよ」


「じゃあ、わたしと?」


 冗談めかしていたずらっぽく笑ってみせたものの、見上げた彼の顔に同じ色がさす気配はない。

 真面目そのものの表情でまっすぐ見返してくる。


「……だから、そう言ってる」


「え」


 どき、と図らずも心臓が跳ねた。


 その声は小さくて、けれど、言葉は足りないほどなのに端的だ。

 顔を背ける仕草までどこか照れくさそうだったから、ついまともに動揺してしまう。


 どうしてしまったのだろう、彼もわたしも。

 これではそのうち本当に勘違いしてしまいそう。


「あ……そ、そういえば悠真は大和くんとの思い出って何かある?」


 焦って別の話題を探り当てると、ひと息で言って尋ねた。


 だけど、まるきり適当な勢い任せというわけでもない。


 大和くんとの思い出────わたしにはほとんどないけれど悠真はどうなのだろう、と昨日思い至ってから気になっていた。


「三枝との思い出?」


「うん、そう」


 唐突(とうとつ)な話の転換に困惑をあらわにする彼。

 こくりと頷くと、悠真は流すように視線を逸らした。


「……特にない。あいつとはほとんど関わりなかったし」


「そっ、か」


 そういえば昨日、ふたりともが当時のお互いのことをわずかに振り返っていたような気がする。

 双方とも、あまりいい印象は持っていなかったのかもしれない。


 いずれにしても、悠真もまた“思い出”と呼べるような記憶は持ち合わせていないようだ。


「……実はわたしもそうなの」


「え?」


「大和くんとのこと、あんまり覚えてなくて」


 結婚の約束はした。

 ……だけど、それだけ。


 そんな約束を交わすということは、そして再会したときの大和くんの反応からして、わたしたちはかなり親しかったはずなのに。

 初恋だったはずなのに。


 よっぽど印象的な出来事だったから覚えているに過ぎないのだろうか。


 いつの間にか、淡い幻想と化していたのかもしれない。


 その過去の追憶(ついおく)にふけるたび、会いたい気持ちばかりが先走って、あの頃のわたしの想いを(かえり)みることがおろそかになっていた。


 気持ちごと蘇ってこないのはそのせい?

 その部分だけ()せて薄まってしまった……?


「……あの頃」


 ふと悠真が口を開き、我に返った。

 ぱちん、と泡が弾けるように思考が割れて霧散(むさん)する。


「事故があったの、覚えてる?」


 どこかためらいがちな口調だったけれど、その声には芯が通っていた。


「事故……」


 そう繰り返すと、耳の奥で花火の音が響いた。

 つん、と消毒液のようなにおいが鼻についた錯覚を覚える。


「……あ、夏祭りの日?」


 ぼんやりとお祭りの光景が頭の中に浮かんだ。

 音はなくて、ただ見たままの景色。


 濃紺(のうこん)の夜空と提灯(ちょうちん)の明かり。

 神社の鳥居、色とりどりの屋台、行き交う人の群れ────。


 その記憶は水に浸したみたいに揺らいで、波立って、はっきりとしない。


 夜なのに暑くて、いや、熱くて熱くてたまらなかった。

 あたり一面、オレンジ色に染まっていて、倒れていたわたしは息ができなかった。


「そういえば……わたし、病院に運ばれたんだ」


 すぐに意識を失ったからあまり覚えていないけれど、搬送(はんそう)された病院で目覚めたあと、両親から事情を聞かされた。


 幼いわたしは完璧に理解することができなかったけれど、火の不始末で起きた火事に巻き込まれた、というような話だったと思う。


 全身に火傷を負ったものの、わたしは九死に一生を得た。


 両親にとってはよほどショックな出来事だったらしく、その事故についてはいまでもあまり語りたがらない。

 わたしも積極的に聞きたいとは思わなかった。


(火傷……)


 気づかないうちに脇腹に触れていた。


 ほとんどの火傷跡は綺麗に消えたけれど、この脇腹のそれだけは未だに残ったままだ。


 わたしにとってはあるのが当たり前で、気に留めもしていなかったものの、いまになって意識された。

 普段は見えない箇所だから、気にするほどでもないけれど。


「!」


 はっと唐突に病院での光景が蘇る。

 ひらめきが降ってくるような感覚に近かった。


「思い出した」


 思わず呟く。


「入院してるとき、大和くんがお見舞いに来てくれてた」


 色も音もない、砂を()いたように不鮮明な記憶だったものの、確かに覚えている。


 わたしは包帯だらけの姿だったけれど、彼は心配こそすれ変わらない笑顔を向けてくれた。

 ほぼ毎日、そうして付き添ってくれていた。


 結局、そのあと不可抗力(ふかこうりょく)的に離れ離れになったものの、心の中には絶えず彼の存在があった。


「……そう」


 悠真は一見興味なさげに、でも実際には何らかの感情を押し込めているような声で言って頷く。


 もしかして大和くんとの思い出は、わたしが忘れてしまっているだけなのだろうか。


 悠真は思い出すきっかけをくれた?

 何であれ、いまのは彼のお陰で思い出せた。


 ただ、どうしてわたしは火事に巻き込まれたのだろう。

 どうして倒れていたのかまるで分からない。


(あれはどこだったんだろう……?)


 境内(けいだい)へと続く階段の脇だったか、木々が茂っていてあまり人目につかないところだったと思う。


 倒れて意識を失う寸前の光景が、頭の中を掠めた。

 また水中のように揺らいではいたものの、わたしの目が捉えたものが何かは分かった。


 血の染み込んだ浴衣(ゆかた)と、投げ出された下駄。


 どくん、と心臓を鷲掴みにされたような錯覚を覚える。

 思わず呼吸が止まり、指先が強張った。


(わたしのほかに、もうひとり倒れてた……?)


 思い至った可能性に動揺してしまうと、それを知ってか知らずか、悠真が足を止めた。

 身体ごとこちらに向き直る。


「あのとき、おまえと────」


「風ちゃん」


 ふいに声をかけられ、ふたりしてそちらを向いた。

 そこに立っていた大和くんは、目が合うといっそう笑みを深め、こちらに歩み寄ってくる。


 いつの間にか学校のそばまで来ていたようだ。

 まったくと言っていいほど周りが見えていなかった。


「おはよう」


「あ、お、おはよう」


「ふたりで登校? ()けちゃうなぁ」


 にこやかだけれど、言葉通り嫉妬しているのか苛立っているのか、悠真の方を見ようともしない露骨ぶりだ。


 だけどいまは悠真を、というか紡がれかけた言葉を、無視して流してはいけないような気がする。


「ねぇ、悠真……」


 わたしは先ほど彼がそうしたように、身体ごと向けて切り出した。


「さっき────」


「そうそう、なに話してたの?」


 わたしより先に大和くんが首を傾げた。


 結果的に聞きたいことは同じだったため、そのまま悠真の反応を窺う。

 けれど、彼は開きかけていた口を閉じてしまった。


「……何でもない」


 どこか硬い表情で首を左右に振る。


「え、でも」


「いいから忘れて。……あんなこと言うつもりじゃなかった」


 ふい、と顔ごと背けた彼の瞳を見た。

 ゆらゆらと揺れていて、自身でも戸惑っているのが分かる。


 大和くんがいるから話しづらい、というわけでもなさそうだった。

 逆に彼が来たことで我に返ったという具合だ。


 あんなこと、の中にはあの火事についてのことも含まれているのだろうか。


 いずれにしても、何だかやっぱり様子が変だ。


 そんなことを考えていると、彼はわたしたちの方を見ないまま歩き出した。


 思わず追いかけようと一歩踏み出したとき、大和くんがこちらを覗き込むようにして微笑む。


「行こう、風ちゃん」


「あ……うん」


 頷きはしたものの、何度も悠真の背を窺ってしまった。

 気にしないで切り替えるには、鈍感さが足りなくて。


「ねぇ、今日も一緒にお昼食べよう」


「あ、じゃあ悠真も────」


 そう言ったのはほとんど思いつきで、深く考えていたわけではなかった。

 ぴた、と足を止めた悠真が半分だけ振り向く。


「……いい。そういうの、もう誘わないで」


 昨日の帰りのことも含めて指しているのだろう、とすぐに思い至った。


「せっかく再会できたんだから、俺に構わずふたりで仲良くやればいいじゃん」


 いつも以上に色のない顔で、突き放すように言う。


 言葉を見つけられず、反応すら返せないうちに、再び前を向いた彼が遠ざかっていく。

 先ほどより歩が速くて、引き止める余地もなかった。


(どうしてなんだろう……)


 あれこれと色々な“どうして”が、胸の内に湧いて滞空(たいくう)する。


 どうして悠真が気にかかるのだろう?

 様子がおかしいのも、何を言いかけたのかも、引っかかっていた。


 そして、どうして大和くんが真っ先に“一番”にならないのだろう。


 わたしの中で彼の存在は確かに大きいけれど、一番とは言えなかった。


 彼の想いを悟っても、何より優先することができなくて、そう気がついてしまった。


 悠真の言う通り、もう何も遠慮したり躊躇(ちゅうちょ)したりする必要なんてないのに。


「……何でそんな表情(かお)してるの?」


 普段より静かなトーンで、大和くんに尋ねられる。


「え……」


「何か不安そう。それとも、越智に突き放されたことがショック?」


 自分が実際にどんな顔をしているのか分からないけれど、完全に無意識だった。


 戸惑いながら思わず頬に手を当てると、大和くんも表情を(かげ)らせる。

 図らずも鏡になって、わたしの浮かべていた表情を自覚した。


「……好きなの?」


「えっ? そ、そういうわけじゃないよ!」


 悠真のことを、だろうと文脈的に察すると、慌てて否定する。


 付き合いが長いからお互いに気心が知れていて、言わば親友に近い関係だと思っている。


 そもそもわたしが好きなのは、あの頃からずっと大和くんただひとりだ。


「そっか、そうだよね。よかった」


 安堵したように柔らかく笑う彼は、余裕を取り戻したようだった。


(あ……)


 ふいに気づく。

 大和くんもまた、わたしの気持ちを期待して、当たり前に信じているんだ。




 ────ふたりで歩き出してからは、彼は昨日案内をしたときと同じように純真な笑みをたたえていた。


 幼少期のあのひと幕と変わらない、嬉しそうな笑顔。

 悠真やほかの誰かに対して見せる牽制(けんせい)のような気配はない。


 それが勘違いじゃないのなら、本当にわたしのことしか見ていない。


 意図的にそうしているのが分かるほど、わたしにしか心を開いていなくて、強い親愛の情を抱いてくれているみたいだ。


(そんなに、わたしのこと……)


 じっと見つめていると、ふと大和くんがこちらを向いた。

 愛おしげに瞳が和らぎ、どきりとする。


 照れくささに耐えられなくてつい視線を逸らすと、くす、と優しい笑いが降ってきた。

 何だか耳が熱くなってくる。


 それから一拍置いて、大和くんが言った。


「……ごめんね」


 急に何のことだろう、と再び見上げると、今度は彼の方がうつむきがちに目を外す。


「俺ね、やきもち焼いてた」


「やきもち?」


「越智が……羨ましくて」


 微笑みを崩しはしなかったけれど、やわくて切なげな色が広がっていた。


「俺がきみに会いたくても会えなかった間、あいつはずっとそばにいたんでしょ」


 彼の瞳に、再びわたしがおさまった。

 わたしもまた、視界の真ん中に彼を捉えていた。


「俺より長いこと一緒にいて、俺の知らないふたりの時間があって……。お互いしか知らない一面とかもあるんだろうなって見てて思うし、風ちゃんに大事に思われてる。そんなの、羨ましくて仕方ないよ」


 悠真に対する挑戦的な言動や露骨(ろこつ)な当てつけは、そんな思いが隠されていたからこそだったようだ。


 3人で仲良くできないかな、なんて気楽に考えていたのを恥じ入る。


 きっと、悠真にもまた想像の及ばない真意があるのだろう。

 様子がおかしいのはそのせいかもしれない。


 そんなことを考えながら口を開く。


「……でも、一日も忘れたことなかったよ」


 はっとした彼に、小さく笑いかけてみせる。


「わたしも大和くんにずっと会いたかったから」


「風ちゃん……」


 儚げに揺れていた大和くんの双眸(そうぼう)が、わずかにきらめいた。


 心地いいような感覚を覚える。

 彼との距離感を思い出しつつあるのかもしれない。


 ふと大和くんが眉を下げ、ふらりと前を向く。


「……ごめん」


「えっ、また? 今度はどうしたの?」


「俺、嫌なやつだ」


 まったく予想外のひとことに、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 聞き返すより先に、自信なさげな声で言葉が紡がれる。


「越智に遠慮させてるのは自分だって分かってるのに、風ちゃんとふたりになれて嬉しいとか、邪魔者がいなくなってくれたとか、いまそんなこと思ってる……」


 率直で正直な心情が吐露(とろ)され、すぐには何も言えなかった。

 大和くんは困ったように笑って肩をすくめる。


幻滅(げんめつ)した? こんな、俺の黒い部分」


「そんなこと……」


 打ち明けたことは意外ではあったけれど、幻滅なんてするはずがない。

 わたしも彼の立場なら、きっと同じくらい欲張りになると思うから。


「風ちゃんには嘘つきたくなかった。ちゃんと分かってて欲しいから」


「なに、を?」


 半分は何となく想像がついているくせに、それでも尋ねてしまった。


 間が持てないから?

 返す言葉を探す時間を稼ぎたいから?


 そうじゃなくて、きっと、ただ聞きたかっただけだ。

 わたしはわたしで欲張りだった。


「そのくらい、本気で欲しいと思ってるってことを」


 そっと頬に添えられた手から体温が溶け出す。


 逸らされることのない眼差しと、甘く微笑む口元が、わたしから平常心を奪っていく。


 だけど一途すぎるほどのひたむきさは、同時に熱までもを奪おうとしていた。


 どうしたって不安になる。

 彼の心に釣り合うような想いを、わたしは持っているのだろうか。


 分からない。自信がない。

 昨日から今朝にかけて覚えた、違和感に近い胸騒ぎは、未だにはびこったままだ。


 川べりに引っかかった小枝みたい。

 浮かんで押し流されそうなのに、水の勢いが足りなくてその場に留まり続けている。




     ◇




 放課後になると、悠真はさっさと教室から出ていった。


 視線すら一度も返ってこなかったけれど、ついその姿を目で追ってしまう。


『せっかく再会できたんだから、俺に構わずふたりで仲良くやればいいじゃん』


 今朝の言葉が自然と蘇ってきて、心苦しい気持ちになる。


 確かに大和くんとの再会は夢にまで見たことだ。

 けれど、それで悠真と疎遠(そえん)になるのは、わたしだって本意じゃない。


 そう考えたとき、いまになってふいに気がついた。

 あれ、と思う。


(その、初恋の話……悠真にしたっけ?)


 大和くんのこと、あの約束のこと────その存在と思い出が特別であることを、いままでに話した覚えがなかった。


(どうして知ってるんだろう?)


 首を傾げたとき「風ちゃん」と横から大和くんに声をかけられる。

 はたと意識が現実へ引き戻った。


「帰ろう」


「……うん」


 笑い返して頷き、思考を追い出す。


 いまは大和くんとの時間に目を向けて身を委ねよう。

 彼のことまで中途半端にするべきじゃない。




 校門を潜り、並んで歩き出す。

 悠真の隣とはちがって見える景色には、まだ慣れなくて新鮮だ。


「昔みたいに手繋いで帰る?」


 笑みを含んで大和くんが言った。

 冗談っぽく聞こえるけれど、きっと半分くらいは本気だと思う。


「昔……。そんなことしてた?」


 戸惑いを隠しきれそうもなくて、思わず正直に聞き返してしまった。


「覚えてない?」


 案の定、大和くんは驚きをあらわにする。

 否定を待っているような気配があって、とっさにそうしようとしたけれど、言葉が喉で詰まった。


 わたしに嘘をつきたくない、と言ってくれた彼の言葉がよぎったからだ。


 誠意で応えるべきだと思った。

 実のところ記憶が曖昧(あいまい)だということを、正直に打ち明けるべきなんじゃないだろうか。


「えっと……。うん、実は」


 そう頷いたところまではよかった。

 だけど、またすぐに声が詰まってしまった。


 大和くんの表情が衝撃と落胆に染まったのを見て、それ以上何も言えなくなってしまう。


「……ごめんね」


 絞り出すようにそれだけ小さく告げてうつむく。

 落とした視線の先で揺れる影をただ見つめた。


 やっぱりわたしは、大和くんに見合うほどの気持ちを持つことができていないのではないか。


 こんなわたしが彼に想われる資格があるのか。


 いっそう自信がなくなって、あまりに申し訳なくて、顔を上げられなくなる。


「そっか……」


 大和くんの悲しそうな声が落ちて転がる。

 ぎゅう、と締めつけられた胸が痛んで苦しくなった。


「気にしないで。大丈夫だよ、覚えてなくても」


「ごめん……」


「ううん、思い出なんてこれから作っていけばいいんだよ。こうしてまた会えたんだから」


 ね、と柔らかく微笑んで顔を傾ける大和くん。

 だから昔のことに(すが)る必要はない、ということだろう。


 そうは言ってもショックや寂しさを隠しきれていないのが見て取れた。

 だけど、わたしはこくりと頷く。


「……ありがとう」


 大和くんの優しさと気遣いに甘えさせてもらうことにする。


 過去に固執(こしつ)する必要はもうないのだから、いまを大事にすればいい。

 いま目の前にある、大和くんとの時間を。

 これ以上、悲しませたりしないように。


 それに、悠真と話してそうだったみたいに、接していくうちに思い出すことだってあるかもしれない。


「ねぇ、ちょっとだけ寄り道しない? 最初の思い出作り」


 思い立ったように大和くんが言う。

 その瞬間、ふっと心が軽くなって余計な力が抜けた。

 自然と頬が(ほころ)んでいく。


「うん、行きたい」


「どこがいい? 何でも言って、風ちゃんの行きたいところ」


 そう言われると悩ましい。

 考えるように思考を巡らせたとき、図らずもあることを思い出した。


(あ、そういえば────)




     ◇




 バスに乗って移動し、たどり着いた先は雑貨屋さんだった。


 アンティークな雰囲気で統一された、まるで童話の世界に迷い込んだかのような空間。

 以前に一度訪れて以来、お気に入りのお店だった。


「かわいいところだね、風ちゃんらしい」


 目元を和らげ、大和くんがぽつりと呟く。


 それを受けて、はっとする。

 いまさら慌てた。


「あ、ごめんね。たぶん、大和くんには退屈だと思うけど……」


「そんなことないよ? 風ちゃんの好きなものは俺も好きだし、一緒にいて退屈なんて感じるはずないでしょ」


 心の中で陽だまりが広がるような、不思議な感覚がした。


 大和くんはわたしの望むところを最初からぜんぶ分かっているみたいだ。


 無意識に求める言葉、態度、そのすべてを、わたし自身が自覚するより先にくれる。


 しかも、その場しのぎの甘美(かんび)なセリフでもない。

 紛れもなく彼の本心だと分かるからこそ、一緒にいてとても心地よかった。


「なにか欲しいものでもあるの?」


「うん、お気に入りのマグカップが割れちゃって……。新しいのを探してるんだ」


 苦笑混じりにそう答えながら、商品の並んだ棚を見て回る。


「あ、これとか風ちゃんっぽい」


「わ……かわいい」


 白地に淡いピンクの花の装飾が可憐な感じ。

 これも、これも、なんて次から次へと彼はカップを指していき、思わず笑ってしまう。


 ふたりでそんなふうに選んでいる間、彼は本当にわたしより楽しそうに見えた。


 普段は見られない無邪気な笑顔が、かわいらしくさえ感じてちょっと頬が熱くなる。

 あの一場面しかほとんど覚えていないくせに、あの頃のままだ、なんて思うほど。




 ────結局、大和くんが最初に選んでくれたマグカップに決めて会計を済ませた。

 レジから戻ってくると、店内の一角に立っている彼の元へ歩み寄る。


「大和くん?」


 どうやらアクセサリーを眺めているようだ。

 隣に立ったとき、瞳の先に何があるのか分かった。


(指輪……)


 かわいらしいものから大人っぽいものまで、華奢(きゃしゃ)なデザインながらどれも輝いて見えた。

 視界の中できらきらと光が弾ける。


「ちゃんとしたものはまだ買えないけど」


 ゆったりと紡いだ大和くんを見上げる。

 一拍置いてからこちらを向いた彼と目が合った。


「それでも、いまここで風花に贈りたいって言ったら……受け取ってくれる?」


 どき、と心臓が跳ねた。

 その意図も、指輪が持つ意味も、分かってしまったからなおさらときめきが加速する。


 だけど、すぐには頷けなかった。


 それを受け取るということは、彼の想いを全面的に受け入れるに等しい。


 あの約束を果たすために、改めて誓い合うということなのだ。

 大げさでも何でもなく、紛れもない婚約の証になる。


「嬉しいけど……いまはまだ、ちょっと心の準備ができてなくて」


 言葉を探して慎重に選んだ。

 すべてはわたし次第で、その意ひとつで振り回してしまうと自覚していたから。

 大和くんを傷つけたくはなかった。


「……そっか、分かった」


 わたしにはまだ、覚悟が全然足りていない。

 彼の想いに向き合う覚悟も、応える覚悟も、愛される覚悟も。


 ワンシーンの思い出しか持ち合わせていないこんな状態では、隣に並ぶ資格すらないんじゃないかと怖くなる。


 何度目か分からない“ごめんね”がまたこぼれ落ちそうになったとき、大和くんが動いた。


「じゃあ────」


 アクセサリーの横に並んでいた、白色のリボンを手に取る。

 存在感のある、割と大ぶりなバレッタだった。


「代わりにこれ贈らせて」


「えっ?」


「深く考えないで、受け取って欲しいな」


 ()とも(いな)とも瞬時にははっきりと答えられなかったけれど、やがて小さく頷いていた。


 満足そうに微笑んだ大和くんが頷き返し、レジの方へ向かっていく。

 その背中を目で追いかけて見つめた。


「…………」


 指輪を断ったという負い目が、正直どこかにはあったのだと思う。

 このままでは彼の気持ちごと拒んでいるのと同義な気がして。


 だけど、実際のところは大和くんの言葉に従った部分が大きかった。

 深く考えることをやめて、彼の望みに応じただけ。

 彼を笑顔にする選択肢をとっただけ。


 結果として正解だったのだと思う。

 そうしたら、(つた)のように絡みついてきていた罪悪感がほどけた気がしたから。




「お待たせ、風ちゃん」


 先に外で待っていたわたしに笑いかけてくれる大和くん。

 何だかほっとするような笑顔だった。


「はい、これどうぞ」


 差し出された小さな紙袋を受け取る。


「ありがとう」


 思わず頬を綻ばせると、すっと大和くんが近距離に顔を寄せてきた。

 息をのむと呼吸が止まり、そのまま固まってしまう。


「それ、いつもつけててね」


「いつも?」


「そう。……かわいい風花を俺に見せて」


 耳元でささやかれると、心臓が跳ねた。

 加速の一途(いっと)をたどって苦しいのに、心は何だか満たされてもいた。


 照れくさいのに大和くんから目を逸らせない。

 彼はやっぱり、その綺麗な顔に余裕そうな笑みをたたえていた。


 ああ、と思う。

 先ほどまでの不安や自信のなさなんていつの間にか忘れ去っていて。


 これはもう、きっと、時間の問題なんだろう。




     ◇




 鏡の前で何度も自分の姿を確かめる。


 ハーフアップにまとめた髪の結い目につけたリボンが目に入るたび、心が騒ぐような気がした。


 昨日、大和くんと過ごした時間が自然と蘇ってくる。

 頬を撫でる風のようによぎってわたしを包み込む。


(大和くん、どう思うかな)


 彼の想いが添えられたリボンをつけているわたしを見たら。

 気恥ずかしくなって、外そうか何度も迷ってしまったけれど、結局そのままつけて行くことにした。


「行ってきまーす」


 庭を抜けて門の向こうを窺ったものの、さすがに悠真の姿はなかった。

 そのことに少なからず落胆している自分がいて、今度は彼のことが急激に気にかかってくる。


 わたしが大和くんといることで、図らずも悠真のことをないがしろにしているように思えた。


 一緒にいたい、と言ってくれたのに、その言葉を裏切ってしまっている。


 喧嘩をしたいわけでも疎遠(そえん)になりたいわけでもないのに、どうしてか彼とは距離が遠くなってしまったように感じていた。


 大和くんがいたって、わたしにとって悠真が大事な存在であることには変わりないのに。


(……声、かけてみよう)


 突き放されはしたけれど、嫌われたわけではないと信じて、学校へ着いたらいままで通りに“おはよう”を言いにいこう。


 悠真との関係までもを、大和くんに遠慮する必要はないはずだから。




 昇降口で靴を履き替えていると、ふっと隣が(かげ)った。

 そちらを向いたとき「あ」と無意識のうちに声がこぼれる。


 流れるような動作で、同じように靴を履き替える悠真の姿を認めたからだ。


「おは────」


「それ、なに?」


 少し緊張しながら準備していた“おはよう”を言いかけたものの、彼の言葉が上から被せられた。


 その目線がわたしの頭の方に向いていると気づき、とっさにリボンに触れる。


「あ、これ? えっと……大和くんにもらったの」


 誤魔化す理由もなくて、そう事実を口にした。

 悠真がわずかに眉を寄せ、表情を曇らせる。


「三枝に? ……何で?」


「そ、の……指輪の代わりに」


 そのことまで正直に打ち明けるかどうか迷ったけれど、彼に隠したって仕方がないと判断した。


 悠真は幼少期からのわたしたちの関係を知っていたみたいだし、こと細かに経緯(いきさつ)を話さなくても、指輪もといリボンの持つ意味に察しがつくはずだ。


 案の定、悠真はすぐにはっとした顔になり、また眉をひそめるとわたしをまじまじと眺めた。


「……分かってるの?」


 尋ねているというよりは問い詰めるような鋭い気配があって、つい気圧されてしまう。


「え」


「それ、あいつなりの意思表示だよ」


 どきりとした。

 熱の込もった大和くんの眼差しを思い出す。


 深く考えないで、なんて言っていたけれど、確かにこれだって結局は指輪とさして変わらないかもしれない。


 このリボンそのものが大和くんの気持ちだと言うのなら、つけている限り、これは“(うつわ)”を表しているように思えた。


 つまり、その想いに応える気があるのだと間接的に示す、わたしの心の余地を。


「……分かってるよ」


「受け入れたってこと?」


 間髪(かんはつ)入れずに問われ、うつむきかけた顔を上げた。


 想いを受け入れたわけじゃない。

 だけど、拒む意思があるわけでもない。


 どっちつかずで中途半端な気持ちは曖昧(あいまい)で、答えられなかった。


「────風花」


 ふいに呼ばれたかと思うと、正面玄関の扉の方に大和くんが立っていた。

 歩んできた彼はわたしのすぐそばで立ち止まる。


「思った通り、かわいい」


 結び目につけたリボンを認めるなり、とろけるような微笑みで言われ、熱を帯びた心まで溶かされそうになる。


 彼はそういう甘い言葉を惜しみなく口にするけれど、そのどれもに特別な響きを感じられた。


 それはきっと、大和くんの想いの深さを知ってしまったからだ。


「ね、どう? 俺が選んであげたの」


 珍しく悠真に振った彼を意外に思ったけれど、その表情を見れば何となく腑に落ちた。


 嬉しそうでも満足そうでもあって、優越感というものに浸っているのだろうと想像がつく。


 どうして悠真に対抗心を覚えているのか不思議に感じたものの、以前のやりとりを思い出してまた納得がいった気がした。


『越智が……羨ましくて』


 たぶん、取り戻そうとしているんだ。

 本来、わたしたちがふたりで紡ぐはずだった時間を。


「きみもかわいいと思わない?」


「……別に。ていうか、全然似合ってない」


 あからさまに機嫌を損ねた様子の悠真はそう答えると、わたしに手を伸ばした。


「騙されないでよ? ……単純なんだから」


「わっ」


 くしゃりとかき混ぜるように髪を撫でられる。

 一見ぶっきらぼうなのに、その手つきはちぐはぐなほど優しかった。


「も、もう。せっかく綺麗に結んだのに……」


「いいよ、ほどけば。外してあげる」


 止める間もなく、するりとバレッタが髪を滑る。

 ヘアゴムも一緒にほどけて、こぼれ落ちた髪がふわりと広がった。


「ゆ、悠真……?」


「ねぇ、何してんの? それ返して」


 さすがの大和くんも戸惑いをあらわにリボンを取り返そうとしたけれど、悠真はそれを(かわ)すように避けた。


「これって、おまえの意思表示で……宣戦布告?」


 もったいつけるようにリボンを眺めてから、鋭く大和くんを()めつける。


 当の彼は微塵(みじん)も怯むことなく、ゆったりと笑みを返していた。


「そう思うってことは、きみも同じなんだ」


 挑発でもするかのような反応にも、悠真は表情を変えなかった。

 黙って手元を再び見下ろす。


「……ちがう」


 ややあってから彼は答えた。


「俺はおまえとはちがうから」


 大和くんに対して言いきると、今度はわたしに向き直る。

 リボンとヘアゴムを仰向けたてのひらにそっと載せられる。


 目の前を横切った悠真は、視線を落としたまま歩いていってしまう。


 色々と気にかかったものの、口をつぐんだまま見送るほかなかった。




 中庭へ出たわたしと大和くんは、花壇のふちに腰かけていた。


 結び直してあげる、と言った彼が、ほどかれた髪に丁寧に触れる。

 先ほどのことを思い出し、わたしは眉を下げた。


「大和くんがせっかく選んでくれたものなのに……悠真がごめんね」


「どうして風ちゃんが謝るの」


 小さく笑った大和くんの声が背中越しに聞こえる。

 その手が髪をすくって撫でるたび、くすぐったいようなふわふわとした気分になった。


「付き合ってるわけでもないでしょ」


「それはそうだけど……」


 頷くついでについうつむくと、わずかな沈黙が落ちる。


 彼とふたりだということが唐突(とうとつ)に意識され、何となくどきどきしてきた。

 速い心音を自覚する。


 やわい風が吹いても、一度帯びた熱は一向に冷めない。

 花が揺れ、香りが漂い、どこか夢心地でもあった。


「……でも、興味あるなぁ」


 おもむろに大和くんが口を開く。


「え?」


「何がきっかけで越智と親しくなったの? 俺がいた頃はそんなことなかったのに」


 そう尋ねられ、ふっと浮かび上がった意識が過去へと向いた。


 ほんの数年前、だけど遠い昔のような、悠真と初めて話した日の出来事が蘇ってくる。


「……あの日はね、体育でバレーをやったんだ。そのときにわたし、足首を(ひね)っちゃって」


 大したことはないと思って保健室へ行かずにいたら、帰る頃には悪化していた。


 歩けないほどではないけれど、靴下の上からでも腫れが分かるほどで、響くような痛みを感じた。


「本当は冷やしたりとか親に迎えにきてもらったりとかした方がよかったんだろうけど……早く帰って何とかしなきゃ、って何か焦っちゃって」


 ずきずきと襲いかかってくる痛みや想像以上に腫れた足首を見て、冷静さを欠いたのだと思う。


 ぎこちない足取りで廊下に出たとき、声をかけてくれたのが悠真だった。


『……足、痛い?』


 いまと同じように、言葉数は多くなかった。

 けれど、気にかけてくれたことが何だか嬉しかったし、救われた気になった。


 わたしが“大丈夫”なんて笑って周りに強がったせいなのだけれど、それでも足首を痛めたことに気づいてくれたのは、悠真だけだった。


「それでね、初めて悠真と一緒に帰ったの。荷物持って家まで送ってくれて。意外と近いってことも分かって」


「……へぇ、そうなんだ」


 つい懐かしくなって意気揚々と話していたものの、静かな大和くんの相槌(あいづち)でふと我に返る。


 ゆっくりと振り向いた。

 彼の手が離れても髪はこぼれず、既にヘアゴムで結われているのだと分かる。


 うっすらと浮かべた笑みを保ってはいるものの、彼の表情は冷たい色をしていた。

 言葉を忘れて思わず見つめてしまうと、その視線に気づいた彼が眉を下げる。


「あ……ごめんね。自分から聞いたくせに、俺、また────」


 その先を口にはしなかったけれど、わたしは気がついた。

 悠真が羨ましい、と言っていたときと同じ顔をしていることに。


「そんな、わたしこそ……」


 無神経だった。思慮(しりょ)が浅かった。

 大和くんの気持ちを知っているはずなのに、デリカシーに欠けたもの言いをしてしまった。


「……でも、そっか。あいつの方から近づいたんだ」


 ふいに低められた声に戸惑いが萌芽(ほうが)する。

 いつの間にか彼の綺麗な顔は翳っていて、また温度が抜け落ちていた。


「あーあ、完全にノーマーク。こんなことなら、もっとちゃんと釘刺しておくんだったなぁ」


「や、大和くん……?」


 どういうことだろう。何の話だろう。

 芽生えた戸惑いはみるみる膨張(ぼうちょう)し、胸の内を圧迫してくる。


「ねぇ、風ちゃん。越智ってやっぱりきみのことが好きなんじゃないのかな」


「えっ!?」


 わたしの内心に広がる困惑をまるごと無視する形で、彼はにこやかに言ってのけた。


「小さい頃からずっとそうなんだとしたら、すごい執念だと思わない?」


 ────それでも、わたしの隣には大和くんがいた。

 だから悠真は彼がいなくなるのを待って、近づく機会を狙っていた、とでも言いたいのだろうか。

 実際にそうした、と?


 思わずむっとしてしまう。


 悠真はそんな狡猾(こうかつ)な人物じゃないし、何より不確かな憶測をもとに(けな)すなんてひどい。


「それは、大和くんも同じなんじゃ……」


 反論が口をついた。

 自分で言うのも妙な感じがするけれど、それはその通りのはずだ。


 彼だってあの約束を交わした日から、いや、それよりも前から、いまもずっと変わらない気持ちを抱き続けてくれている。


「やだな、ちがうよ」


 大和くんは普段の余裕を崩すことなく、さも当たり前のように笑った。

 意外な反応だ。


「俺は執着してるわけじゃなくて、あくまで一途なだけ。純愛だよ?」


 顔を傾け、ゆったりと微笑む表情は見惚れるほど甘い。

 それでもいまはどこか隙のなさが感じられる。


「ところでさ、考えてくれた?」


「え……なにを?」


 思わず瞬きを繰り返すと、そのうちに彼から苦みが抜けていくのが見て取れた。


 穏やかな瞳に込められたまっすぐな恋心と愛情を目の当たりにして、(おの)ずと以前の言葉が思い出される。


『あの約束、俺はいまでも本気だよ』


 どくん、と高鳴った鼓動がまた加速していく。


『さっきも言ったけど、この再会も運命だって本当に信じてる。だから、真剣に考えてみてくれないかな』


 そう、確かに言われていた。

 彼の存在がいつだって意識の中心にあったのに、その選択だけは未だ先延ばしにしたままだ。


「風花」


 視線を上げると、真剣な眼差しに捕まった。

 逃げることも逸らすことも許されないと思えるほど。

 目の奥を覗き込むように捉えて離さない。


「俺と付き合って。結婚を前提に」


 ────その言葉はひとひらの花びらのように、ふわりと舞って心に降り落ちた。


 そこから色づいていって、世界が眩いほどの彩りで満ちていく。


 肌では何となく感じ取っていたことだけれど、想いをはっきりと告げられたのは、再会してからは初めてだ。


 わたしにとっては、ずっと待ち望んでいた夢のような言葉。

 なのに、やっぱりすぐには受け止めきれない。


「えっ、と……」


 指の隙間から花びらがこぼれ落ちていく。

 離したくなくても、余すことなく握り締めておくには、わたしの手はあまりにも小さくて。


「…………」


 落ちた沈黙を、ややあって彼が破る。


「……どうして?」


 ぽつりと呟くように尋ねられる。

 即答できないわたしを見つめる双眸(そうぼう)は、悲しげに揺らいでいた。


「なにを迷ってるの? 俺のこと好きじゃないの? あの頃は頷いてくれたのに……」


 (つの)っていた不満が口をついて、あと戻りできなくなったようだった。


 言っているうちに力が入ったのか、だんだん声色から余裕が損なわれていったのが分かる。

 お陰で責められているような気になった。


「わ、わたしは……」


 何か言わなきゃ、と焦った。

 でも、何も言えるわけがなかった。


 自分自身の気持ちにすら、理解が及ばないで戸惑っているのだから。

 どうして頷けないのか、わたしにも分からないのだ。


「……それ、貸して」


 ついうつむいてしまった間に、彼がわずかに普段の調子を取り戻した。

 差し出されたてのひらにおずおずとリボンを載せる。


 髪から再び大和くんの感触が伝わってきた。

 なぜか身を硬くしてしまう。


「昔にもこうやって、俺が風ちゃんの髪を結んだことあるんだよ」


 ぱち、とバレッタの金具がはまる音がした。

 彼が窺うようにこちらを見やり、首を傾げる。


「覚えてる?」


「……ごめん、思い出せない」


 心苦しいけれど、記憶を手繰(たぐ)るまでもなかった。

 その話を聞いても、他人事のように感じられてしまうくらいだったから。


「そう……。越智とのことはそんなにはっきり覚えてるのに」


 ぎゅう、と締めつけられているみたいに胸が痛んだ。

 それと同時に、怒っているのではないか、と怖くなって慌てて身体ごと向き直る。


「ごめん……。本当にごめんね」


 ふたりに優先順位があるわけでも、大和くんをおろそかにしたいわけでも、決してなかった。

 一度、深く呼吸をする。


「あの頃、わたしは確かに大和くんのことが大好きだったよ」


「……本当?」


「でも、いまは正直よく分からないの。会わない期間が長くて、いまの大和くんのことはあまり知らないし……」


 それが現状、まとまりのない感情をかき集めた結果、出せる精一杯の答えだった。


 彼はショックを受けたように「そっか」と小さく頷いたものの、その直後、ひらめいたみたいに顔を上げる。


「じゃあ、デートしよう」


「えっ? で、デート?」


「そう。昨日みたいに放課後に寄り道するのも悪くないけど、今度はもっと長く、ゆっくりふたりで過ごしたい」


 彼の顔に色が戻った。瞳に光が宿った。

 たたえた穏やかな微笑みを、そっとわたしに向ける。


「それで改めて知ってよ、俺のこと」


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