鉄血女帝アナスタシア 第三十七話
つらい。本当につらい。レーニナって呼ばれることがこんなにも私にダメージを与えるなんて。私はあまりのショックでただ唇を噛んで涙を流すことしか出来ない。でもそれを見ている労働者達はその涙でさらにヒートアップしているわ。私が感動して涙を流していると勘違いしているのね。
「「「レーニナ!レーニナ!レーニナ!レーニナ!レーニナ!レーニナ!」」」
ああ、何てビッグウェーブなの?ここに集まっている数千人の労働者達が口を揃えてシュプレヒコールを上げてる。前世で見た超人気アイドルのコンサートみたい。アイドルってもともと“偶像”って意味よね。今まさに私は彼らのアイドルになってるんだわ。叫んでる名前は非道いけど、労働者達が高揚してるのがわかる。あっちでは氷点下にもかかわらず上半身裸になってレスリングを始めてしまったわ。こっちの連中はコサックダンスで喜びを表しているのね。なんて愛すべきバカな連中なの。
周りの労働者達が雄叫びをあげてるから、ついつい私も調子に乗って足下に落ちていた血のついた帽子を右手で掴んで振り回した。労働者達の興奮は絶頂だわ。
「これは私からの褒美だ!!!」
そう言ってその帽子を労働者の中に投げ入れた。
「「「うおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」」」
ピラニアの群れのように帽子に向かって労働者達が押し寄せてきた。最初に掴んだ男も誰かに殴られて奪い取られちゃったわ。なんだかカオスな状況になってきたけど、これだけ騒いでいたら憲兵隊への敵意も霧散しちゃうわよね。
「アナスタシア!!」
私が労働者達に手を振っていると、声変わりをする前の少年の声が聞こえてきた。勝巳の声だ。
「アナスタシア!!こんなに血が・・・・」
「勝巳、心配してくれたの?」
「当たり前じゃないか!こんな・・・こんな危険なことをしないで欲しい・・・・」
「ありがとう、勝巳。心配かけちゃったわね。でも、これは覚悟なの。私は一億人のロシア国民の上に立たなきゃいけないのよ。だからね、これくらいの・・・・・・」
「アナスタシア!アナスタシア!」
◇
「・・・・・ここは?」
「姫様!姫様!良かった・・・姫様・・・・」
「意識を失っていたのね。あなたが運んでくれたの?」
どうやら私は意識を失って管理棟へ運ばれていたようだ。ルスランに聞くと20分ほど意識がなかったらしい。
「じゃあ憲兵隊と労働者との流血事態は無かったのね」
「はい、姫様。憲兵隊は街のすぐ外に撤収を始めました。そこに野営地を作るようです」
「労働者達は?」
「はい、広場で姫様のご無事を願って祈祷をしています」
「そうなのね。じゃあもう少し祈祷をしておいてもらおうかしら。その方が静かで良いわ」
私はルスランに温かいお湯をもらって喉を潤した。ダルマストーブが置いてあるこの部屋には、私とルスラン以外の人は居ない。カーテンは閉められていて、部屋の周りは私兵達が警備しているらしい。そして私の額には包帯が巻かれていて、もう出血は止まっているようだ。かなりズキズキ痛むけど。
「失礼しますよ、アナスタシア」
そこへ蒼龍が手カバンを持って入室してきた。
「医者の所に行っていたのですが、ここの医者のレベルがあまりにも低いので治療道具だけ奪ってきました。俺が治療しますね」
蒼龍は私の寝ているベッドに近づいてくる。ルスランが場所を譲るために席を立ったのだけれど、ルスランの蒼龍を見る目が険しいわ。
蒼龍はそんなルスランの事を全く気にしないで私の傍らに座った。そして包帯をゆっくりと外すと、傷口を丁寧に洗ってから消毒をしてくれた。
「テーピングがあって助かりました。化膿さえしなければ一週間くらいで傷はふさがりますよ。ちょっと痕が残りそうですが」
蒼龍って本当に何でも出来るのね。前世も軍人だったって言ってたから、応急手当の方法とか勉強していたのかしら。でも、ここの医者のレベルってそんなに低いの?
「蒼龍、ちょっと話があるんだが隣の部屋でいいか?」
ルスランが蒼龍を隣の部屋に連れて行こうとしている。平静を装っているけど、明らかに怒気を含んでいるわね。
「ルスラン、蒼龍に話があるんだったらここでしなさい」
「えっ?しかし、姫様・・・・」
「ここで話をしなさい。これは命令よ」
「・・・・・・・」
ルスランは少し俯いて逡巡した後、その顔を上げて蒼龍を睨む。明らかに怒っているわね。
「蒼龍、君は姫様が襲われたときに何処にいたんだい?」
「・・・・・・・」
蒼龍はちょっと困ったような顔をしてルスランを見ている。蒼龍って人間同士の機微については結構鈍感で苦手なのよね。本人はコミュ障って言っていたけど、あながち間違いじゃないかも。
「ルスラン、それについては私から説明するわ。私が蒼龍にお願いして、スリングショットで私を撃ってもらったの」
※スリングショット ゴムバンドで玉を飛ばす道具。パチンコ
「えっ?姫様が?」
「そうよ。だから蒼龍を責めないで。蒼龍は“天使の智恵”で一度見たり経験したものは絶対に忘れないの。だから、スリングショットを経験したらまったく同じ事を再現できる。同じ的に何回でも正確に当てることができるからお願いしたの」
「そんな・・・しかし姫様!万が一と言うこともあります!顔の真ん中に当たってしまったら取り返しのつかないことになったんですよ!姫様のお願いだとしても、蒼龍、なぜ止めてくれなかったんだ!それに・・・姫様・・・なぜ私に言わなかったのですか・・・・」
そうよね。蒼龍には言ってルスランに言わなかったことは事実だわ。ルスランにとっては受け入れがたいことだろう。蒼龍なら信頼できてルスランは信頼できないと言われたようなものだ。
「ルスラン、勘違いしないで。この話を蒼龍にしたときに、蒼龍は二つ返事で了承してくれたわ。でもあなたに言ったら反対したんじゃ無いの?」
「当たり前です!姫様のお体を傷つけるようなことを許せるはずはありません!」
「ありがとう、ルスラン。あなたが私のことを思ってくれる気持ちは嬉しいわ。だからなのよ。例えケガをしてでも衝突を防がなくちゃいけなかったの。だから、ルスランには内緒にしていたの。ごめんなさい。あなたにはつらい思いをさせてしまったわ」
「姫様・・・そんな・・・・」
「私たちが歩もうとしている道はね、たぶんルスランが想像しているより遥かに険しい道なの。でも歩かなきゃいけない。その途上で蒼龍には内緒にしてルスランにだけお願いすることもあるわ。もちろん、今回のようにその逆もあるの。それを理解した上で私に絶対の忠誠を捧げて欲しい。例え世界の全てが敵になったとしても、あなただけは私の味方でいてくれる。私はそう信じているわ」
「姫様・・・もったいなきお言葉です。私のこの命、姫様の為だけに捧げます」
「ありがとう、ルスラン」
◇
私を狙撃したのは労働者に紛れ込んでいた共産主義者だったということにした。実際あの騒ぎの後、レオンチーと何人かの委員が姿を消した。おそらくレーニンの息のかかった工作員だったのね。そしてやっとお父様からの連絡が届いた。どうやら東ヨーロッパへ外遊に出ていたらしく、手紙を読むのが遅くなったって。マリアお婆さまは判断をお父様に一任されていて、こっちも肩すかしだったわ。お婆さまは生まれてからずっと貴族として生活してきて、平民の苦しみになんか興味は無いのよね。こういったロマノフ朝の澱みがあと数年で爆発してしまう。何としても防がないとね。
「イワン、後の事は任せたわよ。ちゃんとラジオ体操も欠かさずするのよ」
「へい!聖女レーニナ様!俺らに任せて下さい!」
イワンに労働組合の委員長を引き継いだ後、鉱山は全ての鉱区で稼働を開始した。そして鉱山への食料や物資の運搬の一部をヤンコフスキー家の会社が担うことも決定した。これで労働者達の生活も良くなることだろう。
そして私は皇帝の命令でサンクトペテルブルクに帰ることになった。勝巳達の表敬訪問も留学も中止だ。
イルクーツク駅
「蒼龍、この手紙を乃木のお父様とお母様に渡してくれる?お父様の65歳の誕生日までには必ず一度日本に行くから、絶対に健康でいてねって伝えてよね」
蒼龍から乃木のお父様とお母様は今年亡くなられるはずだって聞いてびっくりしてしまった。今の天皇が崩御されたときに殉死をされるそうだ。でも、そんな悲しいことは絶対に認めないわよ。必ず会いに行くから殉死なんてしないでね。
「勝巳、心配かけてごめんなさい。数年のうちには必ず会いに行くからね」
私は勝巳にチークキスをする。ああ、名残惜しいわ。
「アナスタシア、俺にはチークキスしてくれないのか?」
蒼龍が図々しいことを言ってきたわ。何言ってるのかしら。
私とルスランは勝巳達に見送られてサンクトペテルブルク行きの列車に乗った。
そして今、万感の想いを込めて汽笛が鳴る。今、万感の想いを込めて汽車が行く。一つの旅は終わり、また新しい旅立ちが始まる。さよなら勝巳・・・さよなら私の少女の日々・・・
◇
「姫様、こちらをどうぞ」
列車に乗って一息ついたらルスランが新聞を持ってきた。私はそれを受取り広げてみる。
「な、な、な、なによーーーーー!」
その新聞の一面には、聖女レーニナの神がかり的な活躍が特集されていた。




