82 永遠の森
ファクトは顔が見えないムギの後ろ姿をずっと見ていた。
この林を出たいのに、永遠に樹の回廊が襲ってくるように見える。
いつの間にか男の死体はなくなっているが、するとまた小さなムギは渓谷を、森を、山を走りだす。
延々と、延々と。
止まってとファクトが叫ぶと…また、その針葉樹の隙間でその男の死体に出会う。
もうそれを何年も何年も繰り返している。
自分もすっかり全てを忘れかける。
あの子は誰だっけ?
記憶が遠のく。
「………。」
『ムギ…………』
「…?」
『あの子はムギ!!』
「っ?!」
そう聴こえて来てファクトは我に返った。
「ムギ!来るんだ!今いる場所はこっちだ!!」
ファクトは我を忘れて叫ぶ。聴こえているのかも、発しているのかも分からない声で。
小さな子供の中に抉るような痛みが見付かり、全てがあふれてきた。
痛み、憎しみ。ショック、どうしようもなさ。後悔、懺悔、やるせなさや…
チコが思い浮かぶ。
『どうしてチコはユラスを怨まないの?!あいつら全員手の平返して!!』
『…………。』
困ったように笑うチコ。
『チコ!』
『ムギ…。いつか分かるよ。ムギがちゃんと天を向いて、天を抱きかかえて、誰もが愛されるべきだって知っていれば。
みんな…みんな好きで今の位置に生まれたわけじゃない…。』
『そんなチンケな空論聞きたくない!!!』
また、バジバジバジ…………!と世界が変わり、何千何万年もの全てが一瞬で流れ自分はその中に消えていく。
大人たちに囲まれ、キャンプ用のランタンを中心に何かを話している。
『相手はアクィラェの移動を先導したのは大人だと思っている。』
『このまま身を隠そう。名前は『朱』だ。朱の赤。出来るか?ムギ?』
ムギは頷く。
このまま、また何かを話している。
「子供?」
また世界が変わる。
どこかの基地の様な工場のような場所で、反応し辛く少女を眺めるチコがいる。
「…………。」
「子供だったのか?」
「そうみたいです。」
連れてきたカウスが優しく微笑むと、あの人に似た瞳に、ただたじろく少女。
目に涙が溜まっている。
「大丈夫。大丈夫ですよ。泣かないでください。」
カウスはその少女を撫でて柔らかいタオルを渡す。少女は泣いていないと言いたいが、言ったら涙がこぼれそうで強く自分を律する。
でも、少女は思う。私が殺したんだ。私が見捨てたんだ。
「大丈夫。大丈夫です。」
この優しい人たちも、真実を言ったらどう思うのだろう。
まだ少女は知らない。
ここにいる人たちの『大丈夫…』は、
ずっとずっと達観して、深く、どこまでもどこまでも、深いことを。
そして…
ベガスミラの藤湾学校の社会科クラスの講堂にいた。
パーカのフードを被っているファクト。
もう1人、フードを被ってコソコソしている誰かが入ってくる。明らかに女の子だ。
これはムギの記憶?自分の記憶?そんな疑問すら――消えていく。
ソイドやソラもいる。
「ムギちゃん、中学は卒業しようね!」
ソイドが心配そうに言うと、恥ずかしそうに俯いた。
「シジミ君!必要科目の日は教えてあげてね。」
ソラもAIシジミ君に頼んでいる。
「いいよ。頼って。」
ファクトは思わずそう言う。
「勉強も教えてあげるし…辛い時は頼ってよ。」
ムギはファクトの背中をグーと引っ張る。
でも、あの時のようにドンと頭はぶつからないけれど、それを期待してファクトは言う。
「いいよ、頼って。」
守るから……。
小さな手をずっと支えてあげたい。
ふとオレンジの香りがして…全てがまた弾けていく。
突然ムギが強くまた背中を引いた。
「ファクト、大丈夫。」
それまで錯覚のようだったのに突然はっきりした声が聴こえ、思わず振り向くと屈託なく笑った今のムギがいた。
「…大丈夫。
たくさんの大切なものもあったから。」
「――?ムギ?!」
「もう少し走り続けるけれど………抱えていく痛みは残るけれど…………
一気に全部は超えられないけれど、きっと頼ることもあるけれど、
それでも―――」
その時パ―――と全てが光り、朝日がカーテンからあふれるような感覚になり、
ファクトは目を覚ました。
***
家に帰ってバタンとベッドに倒れる響。
「シェダルに誘発してもらえば、サイコスが戻ったりするかもと思った」とSR社には話をして帰って来た。ファクトはともかく、ムギの名は出さない方がいい。
前より大きな3LDKにクローゼット。
今はベガス新地区に購入したマンションに住んでいる。
寂しい。
1人でも平気だったのに、1人の方が楽だったのに。隣の家にロディアがいない。
歩いて行ける距離にファイやライたちがいない。
外に出て歩いていても、ファクトもラムダも、リゲルたちもいないし、コンビニに行ってもジェイたちもいない。
そして、もうふらふら歩いてもタラゼドにも会わない。
会わないために南海を離れたのに、離れてみるととっても寂しい。
シェダルにあれだけあからさまに接触されると、もうSR社にも行けない。自分が周りにいる唯一の同年代の異性というのもあるだろうが、シェダルの今の傾向を分かって、またSR社に行くなんて本末転倒だろう。
「…………。」
でも、まずは医師免許を取って、東医免許を取って、残っているものはそれだけだから、それだけは成し遂げねばと、気持ちを切り替えた。
明日午後は手術に立ち会いする。
気を引き締めなくてはならない。




