6 あの日の黒板
テニアがもう少し滞在できると思った矢先、傭兵仲間から連絡がありユラスに戻ることになった。
「え?おじさん仲間いたの?」
「なんだ?うらやましいか?」
「そうでなくて、一匹狼っぽかったから。狼って言うか、知って見たら飼い犬みたいだけど。」
「何言っている。こういうのはけっこう横々の繋がりがないと仕事にならんからな。自分が稼ぎ頭になるなら。」
「…まだチコと食事もできてないのに…。今日こそはって時間とってたよ。」
「仕方ない。また来るさ。娘がいて、幸せにしている事を知れただけでも今は満足だ。」
チコやカウスたちも来る。
「あ、あの…昨日のプレゼントありがとうございます…。」
「こっちこそ服サンキュー。育ての親にご挨拶ができなくてすまんな。」
「い、いえ。それにあちらでお会いされたカストル総師長も、私の最初の後見人で親や祖父母と同じです。」
「…そうだったのか?!しまったな。お礼しておかないと。」
ファクトとしては、うちの父たちは育ててないし、母に至っては避けに避けてビンタまでしているとは言いにくい。それどころか、自宅に入れたことさえないのだ。自分たちもほとんど帰らないけれど。
「旦那にも会えなかったな。まあ、ナオス族長なら調べれば分かるか。拉致されてから戻って来たんだっけ?…あー!ナオスってそういえば……大変だったな?!」
今更知ったのか。
テニアは、この期間は目の前にいる人との時間を大切にしようと、チコの細かい事まで調べていないらしい。今の仕事の前は違う大陸にいたので、セイガ大陸の事は大まかに知っているだけのようだった。いろいろ調べれば、チコがどういう生き方をしていたなんて、多少分かってしまうだろう。
チコがあそこまで邪険にされたことに拍車を掛けたのは、後ろ盾もなく、外部人で身内がいなかったからだ。既にアジアがバックに付いていたが、所詮ユラス内政には入れない。
この期間、ずっと心苦しかったユラスの皆さんである。過去の行いが身に染みる。
「……これ。お返しします。」
チコが小さな箱から、さらに小さく色褪せた袋を出す。
「…!」
テニアが目を見開いた。
「まさか…」
受け取って手を震わす。
そこから出てきたのはホワイトゴールドの小さな指輪だった。驚きのあまり声も揺れそうだ。
はじめてテニアが、凛とした瞳を見せる。
紫の目が紫の目を見つめる。
どちらがどちらか分からなくなった。
「レグルスの指輪だ…。」
やっぱり……と、チコが安心する。
テニアはその指輪を両手で包み込むと祈るように額に寄せた。
「………」
ファクトにはその手と額から、白いモヤのような光が放たれるのが見えていた。柔らかく、温かい光。
それから見覚えのある…指輪。
「レグルス……」
誰もしばらく何も言わない。
「この指輪は?チコが持っていたのか?」
「いえ。夫がタイナオスで捕虜になっていた時に現地で預かったそうです。…これ以上はここでは話せません」
「その指輪……」
ファクトは何となく思い出す。
「もう片方もあるの?」
「結婚指輪だからな。」
「…それは………
片方は、女の人が持ってるよ。ひばり結びで通して腕にはめたから、俺。薬指のない人。」
「薬指?」
その場で結び方を調べて説明する。
「?」
ファクトの言葉にみんなが押し黙る。
「…生きてる人か分かんないけれど。みんな勉強してる……。けど、その人はもっと下の、もっと狭いどこかにいる人………」
テニアは思い出す。
「知っているのか?」
「?」
ドグン。
この心臓の音は誰のもの?
荒野の、寂れた建物で…
たくさんの男たちがライフルや機関銃を構え、誰も外に出ることはできない。
私語もできない。
そして、ただ。
ただ勉強をしている。
長く大きなルバを頭から掛けたドレスの女たち。
一人は髪は全て隠しチョークを握る。
一人は美しいブロンドヘアを少しだけ出して赤ちゃんを抱いている。
でも女はみんな、着ている物は古い色褪せた足首までの服。
最新の物は………武装兵たちのデバイスと煙草だけ。
その煙草さえ古いのかもしれない。
ドグン。
ドグン!
チコの胸が高鳴る。
私は知っている?
あの大人たちが誰なのかは知らない。
でも、ここは知っている―
『さあ、黒板を見て。』
透き通るような、でも、深い声。
『3時限目を始めます―――』
知っている?私はその黒板を…。
っパキンーー!
何かが弾ける。響の弾け方じゃないとファクトが気が付くが、これを感じたのはファクトとチコだけであった。
少しふらついて、もたつく。
「チコ様!」
「チコ!」
テニアやファクトも動くが、カウスが支えた。
「…?」
「チコ様?!」
「大丈夫だ……」
もしかしてこれはギュグニーの記憶なのか。
テニアに確認したかったが、人が多いので今はやめる。チコにとってこの風景は初めて見る気もしたし、懐かしい気もした。
心配そうに見つめる顔がある。
「何かあったら何でもいい。すぐ出られないこともあるけれど、連絡をくれ。」
「分かりました…。」
「それからこの指輪は持っていてくれ。」
「でも……」
「今の仕事が終わったらまた取りに来るから…。今、家もないからなくしたら困る。」
「…分かりました。待っています。」
テニアがいる時のチコは大人にも、子供にも見えない不思議な表情をしている。
「テニアさん、行きますか?」
「おう。」
ワズンも準備をしてやって来た。
「あ、ワズン、ちょっと来い!」
チコが呼ぶ。
「なんだ?元気に過ごせよ。」
「早く結婚しろ!」
小声で迫る。
「…。」
「ワズンが動く度に周りが警戒する!」
「…放っておいてくれ。」
「紹介しようか?」
楽しそうに言うチコの頭を掴み、軽く振る。
「うわっ!」
「自分がまず夫婦でしっかり立て。」
「……仲いいな。」
「元師匠と弟子だそうです。」
テニアの質問に答えるファクトに、何とも言えない顔でそれを眺めるカウスとアセンブルスたち。
とにかく、サダルチコ夫婦がもう少しどうにかならないと、話にならないのである。
「あーあ。おじさんを空港まで送って行きたいのに。」
ファクトは見送りたいのに、みんなにやめろと言われた。何せいつも騒動の大元。
「本当に、サルの方が反省できるんだな。」
そうではない。ファクトは反省はしているが次のターンが速いだけである。
そうして、数人の私服のユラス兵たちと共に、テニアは空港に向かって行った。
***
デネブが去ってから響はずっと寝転んでいた。
外出したままの格好だったが、いろいろ話した後に、デネブに急かされシャワーをし、部屋着に着替え、どうにか多少の食事をとった。
デバイスを開けると、数十件の着信がある。
アンタレスの総合病院からもたくさん入っていた。先生個々人からも入っている。
ファクト、ファイ、リーブラ、研究室のみんな、兄、それから兄の妻である義姉。
……そしてタラゼド、……ムギ。
ムギ!
まるで引き寄せられるように電話を掛ける。
ずっと、ずっと繋がらなかったのに…ベル音がする。
『響?どうしたの?元気?』
「…ムギ?ムギなの?!どこにいるの?!」
『…どうしたの?アジアラインの親戚の家だよ。』
「だって!ずっと電話に出なかったのに!」
『ごめんねー。しばらく帰れないや。お仕事頼まれて忙しいの。』
「…危ないことしてないの?」
『大丈夫!』
「………」
「嘘…。」
『え?』
「嘘つき!ムギはそう言っていつも何かしてる!」
『もう!なんなの?響。』
「…会いたい。」
『………』
「ムギ、会いたいよ……。」
『どうしたの?』
「顔が見たい…。」
『ごめんね。ここでは画像は出せないの。あんま通話が良くなくって…。』
「会いたい…。私、順番も間違えちゃった…。」
『…順番?』
「うぅ…、うっ…」
『響?泣いてるの?』
「う、う、う、うっ…」
『響…』
「う、う…」
『響。もう少し待ってて。』
「う、う、ううぅ。」
『そうしたら、ギュッとしてあげるから。』
「う、うん…。」
『愛してるよ。響。』
「ううっ…」
響は電話を切ってしばらく泣き続けた。
***
「『ボーティス・ジアライト』の次は響ですか……。」
エリスが執務室で頭を抱える。
「まだ一時的なものか、ずっとそうなのも分からないんですよね?」
「ええ。ただ、このために研究室も閉めたのでショックが大きいようで…。
サイコスターでそういう事例はあるんですか?」
デボラの質問に、もう1人の牧師が答える。
「いろんな事例がありますが、完全になくなるというのはどうなんでしょう…。体質と同じで、サイコスと一生付き合うこともあれば、弱まることもあります。スランプもあるし。突然なくなったという事例ももちろんありますが、響ほどの力ではどうなのか…。」
そもそも事例の絶対数が少ない。
「そこまで力に固執しているようなタイプには見えないのだけれど…。」
サイコスを自分の最高の才能と自負している風でもなかった。
「それでも、ずっと付き合ってきた力だし、総合病院も心理層に入ったのを見初められた感じだと言っていたので…。サイコスも研究室もインターンもダメにしてしまったと。」
「しばらくはチコとサラサにも言わないでほしいと言っていました。」
「…なぜ?2人にはいいだろ?」
それどころか報告した方がいい。
「もう用無しになってしまうと思っているようです…。チコと仲がいいですから。」
「……。」
「それはないでしょう…。」
「なんでそんな発想になるんだ?」
2人の牧師にはちょっと飛び過ぎた考えだ。
「蛍惑があの家族ですからね…。先日来ていたみたいですが、タイプが響と真逆です。薬剤師の資格を取っても大学講師をしても何をしてるんだ?っという感じですからね。
響は力がなくなることが、恥とか人として不足だと思っているかもしれないです。聞く感じだと……。」
「…丁度、研究室も閉めてまだインターンも入っていないなら、しばらく休ませた方がいい。変な気を起こさないようにだけ見守っておこう。デネブ牧師、ありがとうございます。」
忙しいデネブはお付きの女性たちとともに、今度は産婦人科に向かった。