61 天上の巫女
ムギの故郷、山岳の小さな国は『大陸の狭間アクィラェ』と呼ばれ、新時代に細々生きて来た目立たない国だった。
高い山脈に囲まれるアジアラインの中ではそこまで高い場所ではないが、高原と森、岩場が程よく広がったその山は、天の地に素朴な人々を迎え入れたような地だった。
そこには元々日々の生活と自然に感謝を捧げる土着信仰しかなく、7歳の女の子を巫女として立てていた。
そして14歳になったら新しい巫女を立て、これまでの巫女は16歳の嫁げる歳になるまで姉巫女となって新巫女を指導をするのが習わしだった。人口が減ってその習わし自体が成り行かなくなり形は変えたが、精神的なものは形骸化することなく、北メンカル侵攻前の最後はムギが担っていた。
また、正道教が入ってくるまでは旧教も新教も入ることもなかった。ただ北上し東に渡った通りすがりの僧により密教が混ざっている。
そして、その下方に位置する南北メンカルももともとは昔の僧たちの通過地点の一つであった。
「リン、やめるんだ。ここでは危険だ。」
「体温を奪われる寒帯地域よりは安全だ。」
「そういう問題じゃない。ここはリンには慣れない環境だし、元々痩せすぎている。」
断食3日目に入っているムギを止めようとアリオトたちが説得に掛かるが、朝昼夜の1時間ずつ瞑想に入り普通に生活をして、ここ最近は町の人々と同じように生きている。
アリオトたちも身動きできなくなり、中高生世代に数学をなど教えたり医療の指導などできることをしながら過ごしていた。思想以外は許可されているので、ムギも簡単な算数を教える。そして、逆に簡単な内職など教えてもらい手伝っていた。
「断食は健康な人間が健康な精神で、牧者の保護下でするものだ。それに子供がするものではない。」
「そうだぞ。変な精神状態ですると、霊性ごと持っていかれる。」
怨みや焦りを動機としてすると、後で人の話を聞かなくなるような者もいる。何か修道をしたつもりで、逆に憑りつかれ霊性が塞がってしまうのだ。
「もう何度も聞いた。」
「正道教を破門になるぞ。」
ムギは柔らかい目で兄姉貴分を見つめる。
「いい。なら私はアクィラェの魂に戻るだけだ。」
「……。」
「ここにいる人たちはもう信仰に訴える方法をしても、何も通じない。断食をしたところでおかしくなったと思われるだけだ。」
「………それでいい。」
ガーナイト側もムギが断食を始めたことを知っている者が数人いるが、怪奇な目で見ているだけだ。食糧源がいつ絶たれるかも分からないガーナイトにとっては嫌悪さえあるだろう。
そこで、他の同志が言う。
「そうじゃない。リン。分かっているだろ。私たちは心配しているんだ。たった一人の妹を………リンだけはどんなことがあってもきちんと親元に返さないといけない。未成年だ。」
「誰がそんなことを決めたんだ。私が残ると言ったんだ。私だけ残ってもいい。なんだかんだ言って、ここは全て中途半端だ。南に逃げることもできるだろ。」
「でも、ユラスともそういう約束で、リンを預かっている。」
「………たくさん死んだんだ。アクィラェの小娘一人死んだところで今更なんなんだ。」
これでみんな悟る。
断食なんかではない。この土になる覚悟でいるのだ。
「一人くらい、この地の人々が捨てていくものに捧げた身があってもいいだろう。」
「…。」
「私は巫女だ。アジアラインの。それでいい。」
誰も何も言わない。
「リン。」
初めてずっと護衛として後ろにいたテニアが口を開いた。
「……いったん帰ろう。」
「…それは無理だ。このアジアンライン共同体は無力だと思われているが、北メンカルが直ぐに協約を結ばないのは、ユラスや東アジアが私たちの後ろにいることを知っているからだ。『朱』は蛍惑とも繋がっているから、いるだけで意味がある。」
一見ただの地方都市の蛍惑は、その存在そのものが結界であった。オミクロンがユラス侵略の防波堤であり結界であったように。
そこでテニアはムギの前に来てしゃがむ。
「…………分かっている。でも約束だ。鳩とも約束をした。友達だろ?兄か?」
「鳩?」
「ああ、えっとファクトだ。」
「…。」
ムギは少し驚いている。
「絶対に連れて帰る。でも健康にって言うのはちょっと守れなかったけれどな。少しだけ額と首の後ろを触ってもいいか?」
「…?…はい。」
テニアは大きな手でそっとムギの額とそして首を触る。痩せてはいるが体は冷えていないし、霊性や生体の反応は正常だ。
立ち上がってテニアは言う。
「今日のところは私は見守る。ひとまず今日を越そう。」
テニアのすることを、キョトンとして見ていたムギは、気を引き締め直す。
そして、立ち上がって私服の上に巻いていたアクィラェの簡易装束の帯を締め直し部屋を出た。
***
その頃ユラスは、族長総会議の前準備に入っていた。
実質ユラスという国は保っていなくても、近隣国と同化してしまったタルフ族族長も来る予定だ。会議期間前に首相陣も加わり中央で話を詰めていくが、その前にナオス族を中心に身内の晩餐が設けられた。
「は~。本当にバカバカしい。なんで身内ばかりなのに、こんな服で参加するんだ。首相が来るのも明日午後だろ。」
「………。」
サダルたちは、不満しかないチコを無視し、ホテルでの簡単なミーティングと準備が終わるとそのまま車で族長邸に向かう。アセンブルスと護衛のカウスも来ている。
「チコ様、シャキッとして下さい、アーツ寮の男子部屋を叱れませんね。」
「アセン、うるさいぞ。緊張してるんだ。」
「……緊張するんですか?」
「するだろ!」
自分の家なのに管理も他人がするし、晩餐もし人も出入りする全然落ち着かない邸宅に入り、既に待っていた人々の前に顔を出した。
チコはルバを被ることだけは許してもらい、車を降りて待っていた人々に挨拶をし、サダルの半歩後ろを会場入りの為に歩いていく。と、そこで最近見慣れた顔に出会った。
「サダル議長、チコ様、お待ちしておりました。」
ザルニアス家、ジョアである。
「!」
分かっていてもギョッとしてしまったチコは、もう離婚しませんアピールでぎごちなく前横にいたサダルの腕をガっと掴む。
「…っ?」
「?!」
驚くサダル、そしてジョアや周りの人々。
こんなことは初めてだ。少しサダルの影に隠れるように後ろにいるものの、取り敢えず不器用に腕を握って微笑んでいる。初デートかと言いたいが、遠征には行ってもデートなどしたことはない。
が、微笑んだチコなど見たことのないほとんどのユラス人たちは、意外過ぎてビビってしまう。嘘くさい笑みなのに、何なんだと周りがザワザワし出した。
「チコ、挨拶をしなさい。」
なぜ、プロポーズされた相手に挨拶をせねばならんのだと思いながらも、微妙に前に出て挨拶をすると、ジョアたちも膝を付き再度腰を折り頭を下げた。
チコが顔を上げると、ベールの奥の瞳が美しく光った。今日は紺の民族衣装に緑の宝石を付けている。
「…お綺麗ですね。」
それでも姿勢を正して言うことは言うジョア。チコもいつもなら「あんなことをしておいて、お前はバカなのか?夫の前で。」と言ってしまうだろうが、今日は黙って返事代わりに礼をした。
「メレナは役に立っていますか?」
ジョアの妹のことである。
「強烈過ぎるくらいだ。」
何となく想像はできるが、誉め言葉としてジョアは受け取っておく。そしてチコはその弟ジンズにグイグイ迫るので、紫の輝きに引いてしまうジンズ。
「ジンズ!お前の兄に、私は離婚はしないとよく言い利かせておけ。」
と、ぼそりと言っておくが、サダルが口を挟んだ。
「大丈夫だ。夫婦関係をきちんとスタートさせているとジョアに言ってある。」
「…は??」
「…?!」
サラッと言うサダルに、下を向くジョアと、開いた口が塞がらないチコとジンズである。チコは怒り、ジンズは少し赤くなって居所のない顔をするので、離れた所で聴いていたアセンブルスは子供かと呆れてしまった。もう離婚がユラス中枢を賑わせているくらいなので、そのぐらい知ってもらわないと意味がない。
「チコ様、ビジター家やバルーシカ家にもご挨拶を。」
なにせ、後が詰まっているのだ。サダルの側近メイジスが先を急かした。ベガスまで2度もサダルを追いかけて来たディオもいた。ディオはもう何事もないようにチコと目が合うと礼をする。
そして、チコはサダルの横で、愛想笑いをヘコヘコしながら久々の面々と握手をしていく。
「チコ様、あれでは票を取りに行く選挙候補者ですわ…。」
とカーフ母カイファーが心配するが、周りがビビっているので何かの威嚇にはなるだろうとサダルは放っておく。側近たちもおもしろいので取り敢えず見ていることにした。
そして、そこに予定より早く到着した一団がいた。
オミクロン族である。
本心から少し動揺したチコに気が付き、カウスが伯父から庇うように立とうとしたが、サダルが止めた。
「大丈夫だ。私がもう話してある。」
チコは、サダルが議長席に戻ってから初めて会う。チコの指示下で最もチコに忠誠を示し、多くの後継ぎになる男子を亡くしたのはオミクロンだ。
「詫びの言葉も見付かりません………」
チコは、礼をした頭を上げることができなかったが、オミクロン族長がそれを上げさせた。
「一族があなたを責めたことは申し訳なかった。息子たちは覚悟をしていたはずだ。他の部族もたくさん犠牲を出している。このまま、息子たちが遺したものを最後まで築き上げてほしい。息子たちは守るためだけではない、築くためにも戦ったんだ。」
夫人も頷き、チコの手を握るので少し震える声で答える。
「………心します。」
この場で責められなかったことだけでも、大きな変化に思えた。
カウスの伯父夫妻は、議長夫婦に丁寧にあいさつをし、その後ザルニアス家や周りの一群にも軽く礼をし、甥を見る。
「あと、カウス。逃げるなよ。」
チコでなくカウスを睨んでおく伯父である。なにせ、当て付けのようにサダル夫妻への終身誓願を送ったのだ。後で要面談であろう。
「あの……業務が込み入っていまして…。」
「全部が終わったら許す。」
サダルから許可が出る。
「チコ様の護衛は…。」
「こっちにはアセンもいるし、ザックスたちもいるだろ。」
「………。」
サダルが嫌いになりそうなカウスであった。
この場での挨拶が終わると、議長夫婦は姿勢を正してお互いの手を取り、晩餐会場に入って行った。




