36 SR社と失われたサイコスターとの交渉
響に面談を申し込んだSR社社長シャプレーは、スピカと共に天井の高い広い応接室で対面した。
「久しぶりだな。ポラリスとは会っていたようだが。」
「ええ、お食事をいただいて、簡単に仕事のお話など。」
「不躾だが、大学も病院にも行っていないというのは長期休暇で?」
「………そうです。でも、論文は進めています。」
「題目を聞いても?」
「現代漢方の生態と、東洋学における健康寿命引き上げに関してです。」
新時代は旧時代より基本的に寿命が長くなっている。成長期以後の安定期が長く、50代前後までは初期更年期が始まらないことが多い。生活の切り替えと、精神性の向上と、霊性と肉体のバランスが整ってきたためと言われている。
基本的にというのは、前時代のままの環境や生活、血統のままだと伸びがあまりないからだ。
そもそも、人間がこれほどまでに早く寿命が来るようになったのは、聖典で言えば「堕落」が原因だ。
勝手に善悪を知ることのできる木の実を食べ、一対の夫婦は信頼と愛し合う本質を失い、妬みの中、兄弟殺しで始まった人類。
そのたった二文字の出来事には「堕落」はあらゆる比喩が隠れているが、結局いつまでも目に見える世界で、同じことしか繰り返さない人類の生き様そのものだったのだろう。
「堕落」は、この見える世界ではいくらでも黙っていることも、隠せることもできる。
実を食べると死ぬと言われたのに、食べて堕落した2人とその子孫は死ぬこともなく、非常に大きな世界をこの地球に展開して行ったのだから。
旧、前時代が、何でも隠匿できたように。
でも、「改善」できるという猶予期間を過ぎてまでも己を立ち返ることができず、本格的に霊性や神性を失っていったのだ。どんな病気でもそうだが、なんの蓄積もなく、前触れもなく突然結果で出ることはほとんどない。
長寿であれば善人も長く生きる。
が、悪人も長く生きる。
世界は不条理だ。なぜかピラミッドのほんの上辺だけが贅をむさぼり、目を覆う虐待や姦淫に耽られるのだろうか。かといって、貧しければ貧しいで、どこまでも低落してしまう。
死ぬほどの努力や苦労をする人がいる一方、何もしなくても生きていける人、生きていこうとする人もいる。ただこれは、どこの層に限定された話ではないが。
成功者と同じを努力しても、報われないことも多い。生まれた場所、時代ひとつで幸せにもなれない。
そうしていくうちに霊性の回路や肉体のバランスまで失ってしまったのか。
そんな人生の不条理と矛盾に、憤りや不満、恐れ、嫉妬、不安…様々なもうのが渦巻き、それがさらに人間の心身を不均衡にしていく。そのバランスを失った中で起こる病気も多い。
また、歴史上に現れた多くの病気の起源や拡大は、思った以上に何かしら人類による故意や過失、または故意から来た過失の関わるものが多い。
進化の摂理は、いつまでも強奪戦争をしている人間たちを長く生かしても世界は変わらないと悟ったのか。
数万、数千年も変わらない不条理な人類歴史を速く次の世代に回転させようとしたのか。聖典のどこまでが象徴的な数字なのかは分からないが、旧約で人類は寿命を短くしていく。
しかし過ぎた道は戻れない。今度は過去をまずそのまま受け入れ、変えれるものを変えていく。すぐに変えられないものは、ゆっくり解いていくのだ。
例えば、始めは鉱山の鉱山の廃棄物、放射能物質、工場や作業現場の粉塵などが危険だとも思われていなかった。すぐに人体に出ないことを指摘しても人は分からないし、利益を出す現生活に密着している以上、簡単には引けない。逆にすぐ人体に関連がないと認識すれば改善もままならない。そしてゲージがいっぱいになって被害が出て来て、やっと人は悟るのだ。それでも認めない者もいるが。
それは人の霊性も同じである。
黒く凝り固まったりヘドロが溜まれば、相応の努力と期間がなければそれは取り除けない。
取り返しのつかない事態もあるので悠長にはできないが、そんな風に何十年何百年回り道をしても、人は今の不自然さに気が付いて世界をあるべき姿に変えていかないといけないのだ。
不安定な環境で、前時代の姿に落ち着いた人間たちは、成長期が終わってすぐに老化が始まる。
やっと出産、子育てが終わって、やっと世の中を少し分かり初めた青年期…そんな時に既に更年期に足を入れる。『知』と『創造』を持って創造された人間が、それで人生が終わっていくというのも、神の「喜び」における創造性の観点から矛盾を感じる。
それを今、未来の人間たちがどうにか紐解き、様々な角度から健康寿命の伸長をしようとしているのだ。
シャプレーは、響に飲み物を進め、自分もコーヒーを一口飲んだ。
「SR社でも同じ研究をしているよ。
…植物生態なんかは実地の資料も多いだろうから、1人では大変ではないのか?誰か助手でも?」
「今は、助手はいません。なので、デバイスで出来る作業からしています。」
「サイコスの論文は?」
「DPは先人が少ない世界なので、こん詰まってそれっきりです。」
そう言って響は、初めて少しだけ笑う。
「…今…。力を閉じているのか?」
「……っ。」
シャプレーの言葉に一瞬凍る。もう言ってもいい。自分としては話してもいいのだが、ユラスや東アジア軍と共同研究をしている立場でどう答えていいのか分からない。
「少し前から自分で心理層に入りにくくなった。入っても安定しない。もしかして、響氏の介在が大きかったのかなと。」
「………。」
「今少しだけ試せるか?」
「………今は……。」
「…………もしかして、力が消えたのか?」
「?!」
そう言えばシェダルに言ってしまった。シェダルが伝えたのだろうか。
悩むように少しだけ膝に置いた親指と人差し指で空間を開いてみるが、やはり以前のように世界が『回転』していくことはない。
「ふぅ…。」
響はゆっくり息を吐く。
「…そうです…。」
「………」
「もう私は…………」
「………。」
「無力です…。」
「…そうか。」
シャプレーはそれ以上何も言わない。
「麒麟にもなれないし………」
響はそう言ってゆっくり上を見る。
「…なので、お力になれることはありません。まだ一部の人しか知らないです。チコにも伝えていません。」
「分かった。心に留めておく。
でも、君がいるだけでシェダルが落ち着いている。それでいいじゃないか。」
「………。」
「講師や病院をやめたのもそれか?」
「講師はサイコスや病院に集中するためにやめました。だけど、その後でこんなことに…」
「数少ないDPの経験者なんだ。知識そのものがなくなったわけではないのなら、いくらでもできることはあるだろう。先の話を聞く限り、君なら他の形に転嫁して何でもできそうだ。」
「…そうでしょうか…。」
「うちで少しの間、雇われてみないか?」
「…まだ、チコたちとの契約は残っているんです…。満期完了や契約解除するにしても、世界は常に変化していくので、機密事項の線引きも再度聞いておかないといけないし…。
…そちらのお役に立てる想像すらできません。」
響が少し笑って答えると、
「……そうか。」
とシャプレーは姿勢を崩した。あまり笑う感じの人ではないが、響はシャプレーがリラックスしたのが分かった。
「でも、彼は大丈夫なんですか?」
「…今のところは何とも。死ぬことはないだろうが、暴れてもらっても困るし、情緒不安定でも困る。時々その動機や要素があるし。」
「…いろいろあっても…チコの弟です…。多分チコも…彼を心の底からは…憎んでいません。よろしくお願いいたします。あの皮膚もできる限り直してあげてください…。」
おもしろいと思うシャプレー。
響は霊体なのか意識体なのか、自分もシェダルに首を絞められたのに、それは忘れてしまったのか。そんなことはないだろう。トラウマになってもいいくらいだ。
「サイコス関係なく、シェダルの施術が落ち着くまで様子を見てくれるというのは?しばらく掛かるが。
空いた時間は論文など好きなことをしてくれていい。通いでもいいし…必要なら部屋も提供する。」
隠れ蓑にもいいと思い、少し考えてしまう。
そして大事なこと。
「あ、あの。彼は年上の上に男性で…。私…今、モテ期なんです!!」
「?」
シャプレーは、「は?」という顔になる。
怒りも表さない、サダル以上に無表情の男が顔を崩す。
「あの!もう、こうか、こうか、こうなのか分からないんですけれど…」
と言いながら、片手で降下線や向上線、水平線をジェスチャーする。今モテ期のどの辺だろうか。結婚運だけ残して終わってほしい。
「そんなわけで…もう、男性とは直接関わりたくないんです!!!」
「…………。」
「彼、やたら頼って、名前も呼ぶんです!!今までの経験からすると危険です!」
イオニアやキファではないか。
シャプレーはそれが助かるのだがと言いたいが、ひとまず聞き役になる。
「…自意識過剰って分かっています。でも、なんだか男性が関わって来やすい時期で、アーツでも叱られて…。シェダルさんの面倒も見れません!またいろいろ言われます!」
「…そうなんだな…。」
シャプレーは、そう言えば最初に会った頃、ポラリスがやたらウチの嫁になってほしい子がいた!と騒いでいたのを思い出す。
「はあ、でも時々来るにしても、ベガスに行ったら…いろいろ言い訳を作らないといけないですね…。それに、シェダルさんは健康が戻ったら逮捕ですか?」
「彼自身が特殊な立ち位置なので、国と話し合うしチコにも後で聞く。今逮捕されているようなものだしな。何かしらの刑や再教育はあるだろうが、そもそも国籍や戸籍があるのかも分からない人間だ。」
「………。」
「施術期間は彼が落ち着いていられるようにしてやりたいんだが。この期間に犯罪を犯しても困る。」
そして今日に向き直る。
「彼の警戒が解けるまででもいい。」
「…なら…。私も少しだけお部屋を借りたいという下心込みなんですが、彼が呼ぶ時に見に来るので…、置いていただいていいでしょうか…。でも、もう呼ばれるかも分からないので、お金も払います。連れてきた責任もありますし…。」
「ならそうしよう。」
家賃は断られたが、第3ラボの本館から少し離れたスタッフの空きの部屋を借りることにした。
自然の多い、樹々であふれた場所だった。




