『あ』の脅威
僕はついさっき凄い事に気づいてしまった
いつも通りーーつまりは何をする訳でもなく座り込んで猫背になって壁のシミと無言の対話をしていた時に気づいてしまったのだ
言葉に材料がないってことを!!
当たり前のように思えてこれは凄い発見だと思う
言葉を作れる材料はない
ケーキのように小麦粉や卵、佐藤…ちっ、何度変換しても佐藤になりやがる、でできやしないし、コンクリートのようにセメント、砂、水なんかも使えない
言葉には他の物にある形というか、重さというかそう言うものがない(心理的でなく物的な意味でね)
そう、言葉は形を持たないのだ!
勿論、紙の上でのたうち回っている黒い線は僕らにとって言葉と同じ力を持つしそれに近しい存在であることは認めよう
しかし、それは形を持たない彼らの影をピンで留めた標本のような物だ
実際の彼らではない
言ってしまえば、言葉は天使と同じ
彼らと同じで言葉は千も万もその針先の上で足をバタつかせて僕らをあざけるように見下ろしながら観察できるのだ
なんてことだ!
彼らは姿形もない、概念のような物のくせして僕らを支配している
この事実に一体どれぐらいの人は気づいているんだろう
いや、きっと僕程度の路傍の石ころがぼけっと気づいたんだから、もう何百年と前に分かっていた事なのだろうけど
でも、例えばよく日本語の乱れを嘆くナントカおじさん、とかはそれに気づいてるのか?
言葉には姿形もなくて、つまりは材料もなくて、だからレシピもない
そんなものがいつまでも同じような状態を維持できるなんてナンセンスだ
絶対にゆらゆらと東の方に流れていってしまって、帰ってきた時にはもう違う存在へと変化してしまっているんだ
ああ、恐ろしい
質量的要素がない、つまりは保証も何もないものがここまでの力を持っている世界が恐ろしくてしょうがない
簡単に様相を変えていく彼らの不安定さも怖い
姿がないくせに様相を変えられる彼らが怖い
怖い怖い怖い ……D.C.
もしかしたら、僕がこうして部屋の隅でひとしきり怖がってる姿に、大丈夫かこいつ?と疑いを孕んだ目で見てくる人がいるかもしれないが、君?本当にわかっているかい?
僕らはこんなあやふやなもので支配されているんだよ
金は資産として絶対に安心だよっていう人がいるけど、その対極にいるんだよ、言葉ってやつは
例えばだ、例えば何か例を挙げると、ここにA子がいる
超絶美人だ、B男は美人に弱いから一目で恋に落ちた
以下、セリフ
B男「贈り物です、受け取ってくれますか?」
A子「あら、ありがとう」
B男「あの僕実は好きなんです、付き合ってくれませんか?」
A子「あら、私も好きよ(ダイヤが)いいわ、付き合ってあげる(ショッピングに)」
あぁ、恐ろしい
B男君は言葉の犠牲者なのだ、決してA子に何か思惑があった訳じゃない
……違う、違うぞ、僕が気づいたのは言葉の受け取り方、伝え方の難しさではない
事実、言葉には形がないって事を言いたかったんだ
ある国家がある
そのある国家のある機構が隣国のスパイらしき人間を発見した
でも、「らしい」だから絶対ではない
そこで、隣国の外務大臣やらなんやらとにかくそう言った立場の人間にテレビ電話をしてスパイの顔を見せてやる
輪郭の外務大臣は顔を見た途端声を漏らした
「あ」
国家の連中は決まりだ、決まり
戦だ、戦!と盛り上がったがそれは早合点
外務大臣はその瞬間、家の鍵を締め忘れてた事を思い出して、思わず声が漏れてしまったのだ
………なんてね
まあ、なんてセンスのない冗談なんだ、お前は黙って壁のシミと仲良くしてろっていう批判はとりあえず置いといて
この例えから言うと、やっぱり言葉の捉え方って難しいなぁ〜みたいな話に思えるかもしれないけど、そもそも質的要素のない言葉が物的な事象に影響を与えている事実が僕は恐ろしいと思う
彼らはそれで人を殺せるんだ、それも何百人と
恐ろしすぎる
どうすればいいんだ、どうすれば僕らは言葉の呪縛から解き放たれるんだ
例えば、言葉に物的要素を持たせる、とか?
だから、「はい」に対しては石を1個、「いいえ」に対しては石を2個置く、とか?
欲しいものがあれば、それを人差し指で指し示して、くいっと自分の方に第一関節から先を曲げる
………だめだ、それは変化しただけだ
言葉は変わらずそこにいる
言葉は法則なんだ、思考なんだ、音として出なくたってそれは結局言葉なんだ
無理だ、僕らはこの世界に生まれ落ち、意識を持った時点でもう言葉からは逃げられない
虫や魚、鳥だって、彼らの支配から逃れる術はない
恐ろしい、この世の真の支配者は形もない存在なんだ、目に見えなくてそれ自体には破壊も創造も出来ないのに、うぅ
まさに、有神論者の言う神様と異音同義語だ
急いで祭壇を作らなくては、あぁ、けど僕は無神論者だしそれはまた今度にしておこう
どうやら、僕らの運命は決まっているようだ
……いや、待て
まだ諦めるには早い
僕は見つけてしまった、彼らの魔の手から逃れる手段を
つまり、他者と意志を伝え合わなければいいのだ!!
誰かに何かを伝えたり、伝えられたりしなければ、それは言葉による支配を受けていない
つまり、僕らは安定した物的要素だけで生きられる
なんてことだ
山中に籠り獣を狩って暮らしている、人を知らないこの世にいるかどうかもしれないご老人がよもや神を超越した存在だったとは
そのどこまでが髪でどこまでが髭なのか分からない御仁は、他者の存在なんて認知してないし、そこにあるのは純粋なまでの自意識のみーー
………しまった、自意識だ
意識、行動を選択するモノ、それだって物的要素を持たない
でも、僕らはそれがなくては何もできない
意識がなければ、何かをしようという考えが湧かない
欲求は湧かないし、ただ最初にいた地点に最初にあったような形で留まっているしかない
いや、待て待て待て、息をしているぞ!?
意識がなくても僕らは呼吸ができる!
じゃあ、肺と心臓諸々の臓器が勝者なのか?
彼らは言葉の支配も意識の支配からも逃げ延びているというのか?
彼らこそがこの世の覇者であるというのか???
これは、もしや看破したのでは?
彼らに思考はない、、、はずだ
と言うことは彼らはそうあるべくして稼働している
そして、彼らは質的要素のないものでなく、この世にしっかり存在しているものだ
幽霊のようにふらふらと消えていく、不確かさはない
この肉を切り開けばちゃんとそこに豊かな律動を繰り返す温かな塊が確かにある
僕は救われた
ちゃんとこの世には確かなものがあったんだ
形のない言葉の支配を免れた貴重な存在は僕らの体の中にいるんだ
感動で堪らない気持ちになりそうだ
今度からはもっと自分の体を労ろう
深々とした心地を噛み締めていると、真理に辿り着いた僕を讃えるように楽園の香りが白い湯気と共に鼻腔を通り抜けた
次いで、祝福のファンファーレが胃袋から鳴り響く
虚な目を壁から自身の手前へと向ける
「あ」
しまった、とっくに3分は経過していた
僕の思わず溢れた無意味な呟きの為に、肺は空気を声帯へと送る作業を強いられた