白夜の国から愛を込めて
「こんにちは、ジェントル。ちょっと匿って頂戴!」
扉を開けた瞬間、美しい娘がそう言いながら私を押しのけ、部屋の中に入り込んできた。止める間もなく入り込まれ、キョトンとしていれば、半開きになった扉を叩く音がする。
「はい……」
「どうも、こちら、こういうものですが」
扉を開けてみれば、そこには灰色の髭を生やした、恰幅の良い男が立っていた。その手には警察手帳が開かれており、思わず背筋が伸びる。
「警察が、何か……?」
「こちらに若い女性はいらっしゃらないかな?」
「若い女性?」
「ええ。ボンボンの……失敬、裕福な家のお嬢様でしてね、家出してこの船に乗り込んだんだとかで」
「……知らないですね。それにしても、壮大な家出だ」
「えぇ、まぁ、よくある、親に決められた結婚相手が気に食わなくて、ってやつですよ。あんたもそういう年頃ですかな。相手に逃げられないようにしなくては。女は意外に行動力がありますよ」
「肝に銘じましょう」
「あぁ、それとねぇ、」男は薄くなりつつある髪を掻き上げた。「ちょっとした泥棒も乗り込んでるっていう噂もあるんでね、若い女だったり、怪しい男だったりを見かけたら、どうか出航する前に教えてください。じゃ……」
「出航する前に、ということは、警察はついてこないんですか? 家出娘も、泥棒もいるのに……」
「ええ、まぁ、そうですな」
男は髭を撫でつけ、じろりと湿りけのある目で私を見た。
「あなたのような坊ちゃんしか乗船が許されないようで」
「……ご苦労様です」
眼鏡を押し上げ、視線を逸らしながらそう言えば、八つ当たりに気付いたのか、男は悲しげな溜息交じりに頭を下げると、疲れた様子で去って行った。
私はそっと扉を閉めた後、振り返る。部屋には一見、誰も居ないように見えた。
「……警察、行きましたよ」
そっ、と声をかければ、畳んでおかれていた布団の下から、娘がぴょこっと顔を出した。彼女は確かに誰もいないのを確認すると、きらきらと輝く笑みを浮か出てベットから飛び降りた。
「ありがとう! 助かるわ、あの警部とは顔見知りだから、出来るだけ会いたくなかったのよ」
にこ、と笑う表情は花のようである。
胸下まで伸びる、絹糸のような金の髪に、雪のような白い肌。すっと通った鼻筋は高さよりも繊細なラインが印象的だ。頬は少女らしく柔らかそうで、薄桃色に染まっている。瞳は大きく爛々と輝いていて、長い睫毛が細い影を落としていた。
彼女はひらりと蝶が舞うように、軽やかな足取りで私に近付いてくると、私の両手を取った。
その灰色の目が瞬き、私を真っ直ぐに見る。
「……あなた、恋人と来たの?」
「いいや、一人で」
「そうなの」
彼女はにこりともう一度微笑み、そして腰を折ると、私の指の甲にそっと唇を落とした。かと思えばもう手を離しており、おどけたように笑っている娘はウインクをする。
「あなた、お名前は?」
「……ミハイル。君は?」
「あたしはニーナ。また会いましょ」
カッカッ、とヒールの音を立てながら、少女――ニーナは扉を開け、ひらりと手を振ってから、その向こうに消えていった。
まぁ、何とも、嵐のような人だ。
他の人、特に私の母なら、「面倒ごとに巻き込むな」と思うところかもしれない。が、私は暇である方がよっぽど憎らしい。暇を持て余すくらいなら、面倒ごとの一つや二つ、巻き込んで欲しいものだ。
私はそんなことを思いながら、口を開けたまま足元に転がっているトランクを蹴飛ばすようにして閉じ、ベットに腰掛ける。窓の外にはつまらないほど穏やかな海が広がっていた。
*
――結局、面倒ごとに巻き込まれることになった。
豪華客船・ローリエが港を出る頃、私はデッキの縁に立ち、船に出入りする人を眺めていた。とはいえ、船から降りて行ったのは警察だけだった。無駄骨だったらしい。ご苦労様だ。
ローリエは穏やかに動き出し、大海をアメリカに向けて泳ぎ出す。湿っぽい風が頬を撫でるのを感じながら、私は海を見つめ、ぼんやりと過ごしていた。
デッキを徘徊したり、海を眺めるのにも飽きてきた頃――
「ミハイル!」
聞き覚えのある声に呼び止められた。
振り返れば、こちらを見て手を振っているのは美しい娘――ニーナだ。
そのすぐそばに、昼間からワインを飲んで出来上がってしまっているらしい男の姿がある。彼はデッキに固定された丸テーブルの近くに座っていて、その真っ白なテーブルにはトランプが広げられていた。ニーナは彼の相手をしていたらしいが、何故だか困ったように柳眉を下げて私を見ている。
「どうかしたの?」
知らない男に会釈しながら近寄れば、ニーナは肩を竦め、不満げに赤い唇を歪めた。
「この人が離してくれないのよ」
「まさか、このナヨナヨした坊ちゃんが、あんたみたいな別嬪の相手なのかい?」
私をじろじろと眺めて、男は不躾なことを言い、大仰に両手を広げた。その分厚い手のひらがニーナの肩に乗せられる。
「いやぁ、俺の方がまだ釣り合ってると思うね」
いや、少なくとも私の方がまだましだ。
内心ではそう思いつつ、口には出さなかった。酔っ払いに喧嘩を売るほど馬鹿ではない。
ニーナはつんと唇を突き出し、男の手を払う。つれない態度がかえって喜ばしいのか、男はにこにこと笑みを深めた。決して性根の悪い男ではないらしいが、どうやらニーナは飽きてしまったようだ。
「トランプゲーム? 私が代わりに相手しましょうか?」
「男と遊んで何が楽しいってんだい」
ごもっともだ。頷き返せば、ニーナが笑った。彼女は私の肩に手を置き、じゃあ、と艶やかな声で言う。
「ポーカーでもしましょ。ミハイルが勝ったら、あたしを解放してよね。オジサンの相手は飽きちゃったの」
ニーナがそう提案すれば、男も楽しげに笑い、易々と乗ってみせた。
「いいよ」
もちろん、私も頷いた。ちょうど暇だったのだ。
「――あなた、弱いのねぇ……」
三戦目を終え、間でディーラーの真似事をしていたニーナが呆れたように溜息を吐いた。
「あたしがやってた方が、まだ勝率いいわよ」
これで三連敗。負けているのは私の方だ。
ポーカーというゲームは、トランプを用いて、二人から遊ぶことが出来る、シンプルなゲームだ。
まず、プレイヤーそれぞれに五枚ずつカードを配る。プレイヤーは手札を確認し、一度だけ、好きな枚数分カードを交換できる。
その後、手札を見せ合い、一番強い役を持っていたものの勝利となる。『役』とはカードの組み合わせのことで、弱い順に、数字が二枚揃ったワンペア、ワンペアが二組揃ったツーペア、数字が三枚揃ったスリーカード、五枚のカードの数字が続いているストレート、同じ記号が揃ったフラッシュ、ワンペアとスリーカードの組み合わせのフルハウス、数字が四枚揃ったフォア・カード、同じ記号で数字が続いているストレートフラッシュ、ストレートフラッシュの中でも、10・J・Q・K・Aのものをロイヤルストレートフラッシュという。
一戦目は私がツーペア。相手がスリーカード。
二戦目は私がワンペア。相手がストレート。
三戦目は私がまさかの役無しブタ。相手はフルハウス。
私の見事なる三連敗、である。
やればやるほど相手は強い役を生み出し、私は弱くなっていった。最初は意気込んでいた相手も、私が弱いと知り始めると、どんどん詰まらなさそうな顔になっていった。
「あー、もうこれで十分だろう」
三戦目を終え、男はトランプをテーブルに捨てるように投げ、伸びをする。そしてにこにこと微笑みながらニーナを見た。
「どう考えても俺の勝ちだから、もうしばらく俺の相手してよ。ニーナちゃんのが強いし楽しいし、もっとお話したいな。出来れば夜まで」
ニーナは一瞬だけ、ゲッとでも言いたそうな顔をした。けれどもすぐにその表情を消し、可愛らしく肩を竦めてみせる。
「老人介護の為にこの船に乗ったんじゃないのよ」
ぷく、とニーナは頬を膨らませた。もちろん冗談だ。老人というほどこの男は年を取っていない。ニーナの愛らしい冗談に、男は声を上げて満足げに笑っている。
もう、すっかり私は世界の外に放り出されているらしい。とはいえ、ニーナが本心では男を嫌がっているのは、さっき一瞬だけ見せた表情から読み取れる。
さて。
「最後に一戦だけお願いできませんかね」
私がそう言えば、邪魔されて気を悪くしたのか、男が眉をひそめた。
「ええ? あんたはもういいよ、つまらないし……」
「次、私が勝てばニーナを解放する。もし、あなたが勝ったら、これをあげましょう」
私はそう言いながら、胸ポケットから一枚のチケットを取り出した。その青々とした紙を見て、男もニーナも目の色を変えた。
「それは――」
「――白夜の月」
男の言葉を引き継ぐように、ニーナが言った。
白夜の月。白夜の国・ロシアに住む大富豪が持つ、世界有数の美しいダイアモンドの通称である。強欲な彼女はそのダイアモンドを滅多に公開しなかったが、ロシアからアメリカへ至るこの客船・ローリエにおいて、特別公開を企画した。しかも、ローリエの乗客全てがその拝覧権を得るのではなく、乗客の中から抽選で特別チケットが配られたのである。
「いいだろう、もう一戦、受けよう」
男はすっかり鼻息を荒くし、私を睨んでいる。
「いやぁ、あんたと会えてよかったよ」
もう私に勝った気でいるらしい。私は肩を竦め、それには答えなかった。ニーナがトランプを指で弄びながら、困ったように柳眉を押し下げる。
「ミハイル、別にそこまでしてくれなくたっていいのよ?」
「大丈夫だよ。――勝つから」
そう答えれば、男が笑った。
ニーナが呆れたように肩を竦め、手慣れた動作でカードを配る。私と男は同時に自らの手札を見た。また男が笑った。
「運命の女神が大爆笑だよ。いやぁ、まさか、白夜の月を拝めるとはなぁ……」
随分と素敵な手札だったらしい。
私の方は、……またもやブタ。
Aだの4だの9だの脈略がない並びだし、記号もバラバラだ。あちらに運命の女神が大爆笑したとすれば、こちらは何だろう。号泣? あるいは嘲笑か。屁でも吹かれたくらいかも。
――まぁ、運命なんて、どうでもいいけれど。
私は溜息交じりにカードを整え、テーブルの上でコンと叩いて角を揃え、もう一度開き、伏せてみたり、くるくると弄る。もう一度長い溜息を吐く。
「何枚?」
ニーナが尋ねてくる。
私は首を横に振った。
「替えない。このまま勝負だ」
お金を賭けているわけじゃないので、賭け金の話はない。このまま、と言えば、男は笑い、叩きつけるようにしてテーブルにカードを開いた。
「ストレート・フラッシュ」
全てスペードで、9からKの数字が並んでいる。これに勝つには、10・J・Q・K・Aで同記号カード、つまりロイヤルストレートフラッシュしかありえない。
「ニーナちゃん、もしかして俺に強いカードくれた?」
笑って、男が言う。ニーナはありえない、とでも言いたげに舌を出した。
「凄いね。なかなか見ないや」
私も笑いながら、彼の言葉に重ねた。男はにまにまと笑う。
「ストレート・フラッシュか?」
「それもそうだけど……」
と、言いながら、私は自分のカードを広げた。
ハート。10・J・Q・K・A――ロイヤルストレートフラッシュ。
「運命の女神が誰に大爆笑したって?」
私はそう言い、真っ青なチケットをわざとらしくひらひらと振った後、ニーナに微笑みかけた。彼女はきょとんとして手札と私とを見比べてから、ややあって、笑った。
「良い度胸してるわね」
男から離れ、二人で艦内を歩いていれば、ニーナがおもむろに言った。
「あぁ、バレてた?」
「ハートのAは二枚存在しないわ」
その通りだ。私たちは使ったカードを山札に戻さなかったが、ハートのAは初戦で私が出した。
「君たちが世界に入ってる間に、必要なカードだけ引き抜いておいて、こう、袖に隠しておいたんだ」
「すり替えも上手ね。油断してたわ」
「十八番なんだ。これあげる」
私は袖に隠したままだった五枚のカードを引き抜き、彼女の前に差し出した。ニーナはそれを受け取り、噴き出すように笑う。
「五枚全部替えたの? 清々しくてかえって笑えるわね……しかも、何が運命の女神の爆笑よ。ひっどい手札ね」
「どうやら運は悪いらしい」
「そのようね」
ニーナは赤い唇の端を上げ、艶やかに笑う。そして、ふと足を止めた。
「あたしは用事があるの。せっかく勝ってもらって申し訳ないけど、あなたに付き合うのは後でもいい?」
「付き合わなくったって別に構わないよ。あれは暇つぶしだから」
「紳士なのね。ありがとう」
ニーナはそう言ってウインクすると、踵を返し、艦内を逆の方向へ歩いて行く。美女を追いかけて詮索する趣味は私にはない。私は欠伸をすると、自室に戻ることにした。
騒動が起きたのは四日目の朝だった。
何の予定もない日が続くとは言え、 幼い頃からの習慣で、七時にはもう目が覚める。身支度を終えて自室を出て、朝食を摂るためにレストランに向かうところで、何やら様子がおかしいことに気付いたのである。
誰も彼もがひそひそと額を付き合わせ、ぎらぎらと宝石の輝く指や毛皮が広がる扇子で口元を隠し、何やら噂話をしている。本来ならば優雅に動かねばならないはずのクルーたちも、忙しなく動き回っていた。
まさか、タイタニックの再来というわけではあるまい。私はそんなことを思いつつ、空いているテーブルに座って適当に朝食を注文した。
「あたしも同じものを」
すると、そんな声がして、ニーナがやってきた。彼女は一言の断りもなく、私の前の席に腰掛けると、短く溜息をついた。
「おはよう、ミハイル。最悪な朝ね」
「……何やら騒がしいようだけど、どうしたの?」
「知らないの?」
ニーナは昨日よりも細くデザインされた眉を寄せた。彼女とは朝起きるタイミングが被るので、毎朝、朝食を共にしていた。
「知らないね。大きな氷山でも見えたのかい」
何気なく軽口を飛ばしたが、彼女はそれどころではないらしい。ふんと鼻を鳴らすと、ひどく不快そうに言った。
「――白夜の月が奪われたのよ」
「へぇ……誰に?」
「怪盗X、らしいけど。ありえないわ」
怪盗X、とは今、世界を脅かす大泥棒である。必ず予告状を出し、決して殺さず、スマートに盗んでいく。とんでもない色男だという噂も相まって、色んな年代の女性のハートを鷲掴みにしているらしい。
「ありえないって、どうして?」
「白夜の月の持ち主が殴られて気絶していたそうなの」
「盗み方がスマートじゃないと?」
「怪盗Xは女性に暴力を振るったりしないわ。紳士なのよ」
ニーナは心底腹が立っているようで、棘の立った溜息をついている。
「じゃ、他の人が盗んだんじゃない?」
私がそう言えば、彼女は頷いてから、腕を組んだ。
「でも怪盗Xの予告状が見つかったんですって」
「だったら、Xのご乱心だ」
「まさか。――怪盗Xの名前を借りた悪漢の仕業よ。許せないわ。女の人に暴力を振るったのも勿論だけど、怪盗Xの名を汚すなんて最悪」
「……ここは船の上だ。宝石を盗んだところで、隠し場所は限られてる。各自の部屋を調査すれば事実なんてすぐに……」
運ばれてきたパンとミルクを眺めながらそう言えば、ニーナはまた首を横に振る。
「客は根性の悪い奴ばっかりよ。易々と調査に入れるわけない」
根性の悪い奴――とは少し言い過ぎかもしれないが。けれども、品位の良い客ばかりが乗っているのではないのは確かだ。
客船ローリエは、そのチケットが高い為に、貴族や金持ち向けの客船とはいえ、乗客の品位でふるいにかけるようなことはしない(そういう船はもう一層ランクが高くなる)。
さらに、今回は『白夜の月』目当てで様々な客層が集まっている。宝石に群がるようなことを嫌う――言い変えれば、わざわざ公開された時にこぞって行かなくても、主である大富豪と直接連絡を取り、警戒されることなく白夜の月を拝むことが出来るような、ご立派な名を持つ品位の方々は、今回の船旅には乗り合わせていないのである。
と、言うことは、だ。つまるところ、大富豪と個人的に繋がることが出来ず、なおかつローリエに乗ることができるほどの金持ち、という人が客の中の大多数なのである。
そういう方々の中に、根性の悪い奴がどれくらい占めるか? さぁ、それはわからないけれども、私自身としても、ま少なくはないだろうとは思う。
まぁ、中には私みたいに特殊なものもいるかもしれないけれど。
「そう。……じゃあ、他の手段でXへの濡れ衣を剥ぐしかないね」
するとニーナはパッと顔を上げた。
「手伝ってくれるの?」
「別に構わないけど……」
そう答えれば、彼女はにんまりと微笑んだ。元より、私に手伝わせるつもりだったらしい。まんまと乗ってしまったようだ。とはいえ、暇だから、断る理由はなかった。
「……スリルは好きだしね。暇潰しならいくらでも付き合うよ」
「暇潰し……」彼女は柳眉を押し寄せてから、頷いた。「まぁ、いいわ。じゃあ、スリルを楽しんでもらいましょ。……――こんな話をして何だけど、もう真犯人の予想は付いてるの」
ぐっと顔を近づけ、声のトーンを落とし、ニーナは言う。スリルへの興奮に私の心臓が跳ねた。
「へぇ、どうやったの?」
「何の為に美人やってると思ってるの」
ニーナは自らの頬に手を当て、赤い唇を歪めて笑う。艶やかな笑みだった。
「白夜の月のガードマンにちょーっと聞いたら、いくらで買収されたか教えてくれたわ」
「ガードマンを買収して、持ち主を殴って盗んだの? それは野蛮だな」
「でしょう? あれよ」
ニーナは頬に当てている右手の指を伸ばす。ボルドーに塗られた爪の先が、遠方に座る男をさしていた。何気なく、という風を装って目線を投げる。
男はいかにも成金といった出で立ちで、高級ブランドのジャケットやシャツ、ズボンに靴を身に纏い、ゴテゴテの宝石が付いた指輪をたくさん嵌め、髪の毛を固そうなワックスで後ろに撫でつけている。金持ちなのはよくわかるが、ブランドの取り合わせに統一感もなければ、ほぼ全ての指に嵌められた宝石も強欲さを見せつけているようで、つまるところ、生まれながらの金持ちには嫌われるタイプの男だった。生まれながらの金持ちじゃなくても嫌いかもしれない。センスが悪すぎる。
私はその成金男に見覚えがあった。
「ゴードンか」
「知ってるの?」
「いけすかない成金だ」
「あたしもそう思う」
「で、どう暴露する?」
「みんなの前で、あいつから宝石を奪い返せたら一番ね。人が集まるところってどこがいいかしら」
「カジノは? 噂話や厭らしい話が大好きな男女の巣窟だ」
そう言えば、彼女は考えるように視線を斜め下に落とした。細い顎を撫でるその顔がやけに真剣に見える。ややあって、その大きな瞳が私を見た。
「あなたが賭け事したいだけじゃなくって?」
「さぁ? どうかな」
笑ってそう言えば、彼女も笑った。
「でも、良い案ね。カジノにおびき寄せて、観客の前で白夜の月を見せびらかしてもらうとしましょうか。……誘い出すのはあたしがするわ、あなたはカジノで注目を集めておいてくれる? 連戦連勝してるあなたのところに、私がゴードンを連れて行くから、世紀の大対決でもやって頂戴よ。カジノの視線、丸ごと奪ってしまって」
さらりと、連戦連勝を要求されている。
そう上手くいくかな、と思ったのが顔に出たのか、私の表情を見て、彼女は軽やかにウインクをした。
「もちろん、運なんかに頼らないわよ。あなたの十八番、見せて頂戴ね」
「……私がどれだけ頑張ったって、ゴードンが白夜の月を持ってカジノに来てくれなかったら骨折り損になるけど」
「単純なことよ」ニーナは肩を竦めた。「あの人の部屋に、怪盗Xからの予告状に見せかけたものを置いておけばいいの。今夜、白夜の月を頂戴しに参りますってね。彼はきっと警戒して白夜の月を手放さないはずよ。本来なら鍵のかかった部屋で白夜の月を抱きしめていたいでしょうけど……あたしが誘い出すわ。こんな美女に誘われたら、断るわけにはいかないでしょ? 白夜の月を置いてくるわけにもいかないし、きっと、白夜の月を隠し持ったまま、カジノに来るはずよ」
――一体、どこからそんな自信が湧いてくるのか。けれども、そう言って笑うニーナは蝶のように可憐で可愛らしく、確かに、誘いを断るのは勿体なく思える。ゴードンは女好きでもあるから、ほぼ、間違いなく釣られるだろう。
「予告状がニセモノだってバレたら?」
「そんなヘマしないわ。怪盗Xのことは、よーく知ってるの」
「どこへ行っても、彼は大人気だな」
「あなたは嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
私は笑い、ミルクを口にした。
*
カジノが開くのは午後八時からだ。とはいえ、あまり早くに行っても閑散としていて、つまらない。私はゆっくりと夕食を食べ、午後九時を過ぎたあたりで重い腰を上げた。
カジノはレストランよりもずっと海面に近い階層にある。階段を降り、固いマットの上を歩いて行けば、金色の扉が待っていて、すぐにそれと分かった。金色に縁どられた硝子扉越しに、中の賑わいがよく見える。なかなかに盛況そうだ。少し来るのが遅れたかもしれない。
扉を開けて中に踏み込めば、むわりとした熱い空気が漂ってくるのがわかった。あと、ちょっと酒臭い。一瞬だけ顔をしかめてから、私はあたりを見渡した。ニーナはゴードンを誘い出せたのだろうか。
とにもかくにもカジノには人がたくさんいた。ぎらぎらと輝く照明の下、汗を光らせ、脂を光らせながら、あちこちで笑い声が上がる。所詮、金持ちの道楽だ。多額の金が飛び交うが、嘆きの声は聞こえない。ボロ負けしても楽しければそれでいいのだ。
愉悦の笑い声にこちらまで興奮してきた時、ドン、と勢いよく誰かにぶつかられた。
「あ、すみませ……」
振り返れば、ぶつかってきたのはニーナだった。言いかけた言葉を引っ込めたが、しかし、彼女の方は他人行儀に軽く頭を下げる。
「あら、こちらこそごめんなさい」
にこ、と笑い、彼女はすぐ後ろにいた男の腕に自らの腕を絡ませた――その男こそ、ゴードンだった。彼はにたにたと嬉しげに笑ってニーナを見ている。下心がミエミエで気味が悪かったが、ニーナは気にした様子もなく、それどころか彼の頬に軽くキスまでして見せた。
「さ、ゴードンさん、お得意のギャンブルを見せてよ」
楽しげにそう言いながら、ニーナの灰色の目が素早く私の方に向いた。鋭い視線が私のジャケットのポケットに向けられる。違和感を覚えて服の上から撫でてみれば、何やら四角い塊が入っていた。そ、と覗いてみれば――それはトランプだった。このカジノで使用されているものらしい。
ニーナはウインクし、ゴードンを連れてカジノの喧騒の中に紛れていく。
どうやら、このトランプを使って、十八番を見せろ、と、そういうわけらしい。
――運なんかに頼らないわよ、という彼女の声が蘇った。それにしても、一体、どこから入手したのだろう。……考えるだけ、無駄な気がするが。
「はい、フルハウス」
ぽん、と手札を場に投げれば、流石に相手も悔しそうな顔をした。周りで見ていた観客が嬉しそうにやんややんやと騒ぎ立てる。もしかしたらカードのすり替えに気付いている者もいるかもしれないが、わざわざ咎めてくるほど正義感のある者はいなかった。金持ちのギャンブルなんてそんなものだ。楽しければそれでいい。誰かがボロ勝ちし、誰かがボロ負けするのを、安全地帯から笑って眺めるのは楽しい。
「も、もう一戦……」
これで五人目になる挑戦相手は、眼鏡の奥の瞳をギラギラと輝かせながら、チップに手を伸ばす。隣に座っている、彼のツレらしい美女は、もう飽きたようで欠伸をしていた。
「何度やっても、結果は同じだけど」
私は微笑みながら、また勝負を受ける。
観客の数が少しずつ増えていることに私は気付いていた。他のどのテーブルよりも注目を集めているだろう。もう一押し、観客を沸かせられたら、ゴードンの悪行晴らしにはちょうどいいセッティングになる。
ポケットに潜ませているトランプは、手札とのすり替えを続けているから、もうバラバラだ。ハートのAなんて二枚も入っている。対ゴードン戦の為に、強い役やジョーカーはすでに確保していた。――ここで、大役を出しても十二分に足りる。
「……いやぁ、運命の女神は相変わらず大爆笑してくれてるみたいだ」
にこ、と笑って手札を開ける。ロイヤルストレートフラッシュ。視界の端で、見覚えのある男が笑った。観客はきゃーきゃーと悲鳴を上げ、次は是非に自分が挑戦したい、と意気込んでくる。
その時だった。
「ふぅん、随分と女神様に愛された坊やがいるんだな」
低い声がして、人混みを掻き分け、ついに獲物――ゴードンがやってきた。
「うちにも別嬪な女神がいるんだが、」
と、言われ、その隣に立つニーナがくすぐったそうに笑う。ゴードンはさらに気をよくしたように笑い、私の前に座っていた挑戦者を押しのけるようにして、その空いた椅子に座った。
「次は俺の相手をしてもらおうか。どっちの女神さんが強いか、勝負だぜ」
「あら、あたしは運命の女神と勝負するの?」
「ニーナなら楽勝だな」
まぁ、どうにもお色気のある雰囲気を二人で醸し出してらっしゃることだ。私はニーナの演技力に舌を巻く思いだった。二人が世界に入っていることをいいことに、ポケットの中で使いたいカードを選んでいると――
「あぁ、待て、カードを変えよう」
場のカードを整えようとしたディーラーに、ゴードンが言った。
「このカジノには、金色の、特別なカードがあるだろ。あれを使ってくれ」
「ですけど、あれは明日のポーカー・イベント用で……」
「あれを使え」
ゴードンにぎろりと睨まれ、ディーラーはすっと首を竦めた。そこまで凄まれて拒否するほどではないらしく、彼は頷くと、マイクで誰かに呼びかける。
――カードを変える、だって?
そんなことをされたら、ポケットの中のカードが使えなくなる。つまり、イカサマが無理になる。
思わず、ニーナと目が合った。ニーナは目を丸くした後、ハッとしたように艶やかな笑みを浮かべると、ゴードンに絡みつくように腕を伸ばして言った。
「ね、どうしてカードを変える必要があるの? 面倒じゃない?」
「猛者は猛者にふさわしいカードを使うのさ」
ゴードンはふんと鼻を鳴らしている。ニーナは思わず眉を跳ね上げたが、すぐに微笑みに変えると、「素敵!」と言ってその腕を抱きかかえるようにして身体をすり寄せる。その灰色の目が私を見て、眉が八の字になった。ゴードンにはバレないように、両肩がちょっと竦められる。
――打つ手なし。
本物の運命の女神が微笑んでくれるのを待つしかない、らしい。
――また役無し。
どうやら、運命の女神はご機嫌斜めらしい。大爆笑、だなんて品のないことを言ったから、気に障ったのかも。いつだって女神は微笑むものだから。
ゴードンの方はツキが回ってきているらしく、イカサマを疑いたくなるほど強い役を出してくる。ちらり、とニーナを見たが、何かを指摘する様子はないので、イカサマではないのだろう。
また、私のチップがごっそりとゴードンの方に動き、瞬く間の盛者必衰の様子に観客が沸き立つ。もうこれで六戦目を終えた。私の残りのチップがかなり心細くなってきている。
運の悪すぎることに、ゴードンの方も、私から一方的にチップを搾取することに飽いてきたらしい。初めはギラギラと私を睨んでいた目が、今ではニーナばかりに向けられている。太く脂ぎった腕で細い美女を引き寄せ、抱き寄せている様子は野獣だ。それでもニーナは嫌な顔一つせず、それどころかその胸板に頬をすり寄せている。
――まさか、私を騙して、こうやって搾取するのが目的だったりして。
ニーナの様子にそんなことすら思った時、その灰色の目がさっとこちらを見た。疑ったのがバレたかと思って思わず身が固くなったが、しかし、ニーナはすぐに目線を逸らすと、ゴードンの胸ポケットを睨んだ。
胸ポケット?
もう一度、灰色の目が私を見る。そして、愛らしくウインクが飛んできた。
「さてと……そろそろ行くか」
その時、ゴードンはニーナの頭を撫で、席を立とうとした。――まずい。
「待って」
思わず強い声が飛んだ。場違いなほど真剣な声になってしまい、ゴードンだけでなく、観客も怪訝そうな顔をして私を見た。
「もう一戦だけ……お願いできないか」
負け続けているのに、さらに一戦を乞う様子はあまりにも滑稽すぎて、逆に警戒心を呼んだらしい。ゴードンは腑抜けていた表情を引き締めると、ギッと私を睨んだ。怪しまれている。
ふと、とニーナと目が合った。
これだ。
私はゴードンの目を見た後、もう一度ニーナを見た。それからゴードンに目を合わせ直し、自らのチップ置き場を叩いて言った。
「次、私は残りのチップを全て賭けましょう」
――流石のゴードンも目を丸くした。
「は? 何の為に……」
「チップが欲しいわけじゃない……ただ、私が勝ったら、一つだけ、お願いを聞いていただけないかな」
そう言いながら、もう一度、視線はニーナの方へ――ニーナも気が付いた。彼女はゴードンの腕に巻き付きながら、うふ、と色っぽい笑みで私を見る。ゴードンは私とニーナを見比べ、あぁ、と合点がいったように笑った。
「なるほど。俺の女神を奪おうってんだな。いいだろう、女神を賭けて、もう一戦だ」
その言葉に、観客も色めきだった。盛者があっという間に転がり落ちたところを拝めたかと思えば、次は美女を巡って、野獣と若い男との勝負が見られるのだ。楽しくて仕方がないだろう。中には私を応援するような声さえ聞こえてきた。ありがたいことだ。
こっそりと、ニーナが灰色の目を細め、「大丈夫なの?」という色を滲ませる。私は安心させるように微笑んでみせた。
ディーラーが金色のカードを閃かせ、五枚ずつ私たちに配る。手札をちらりと拝んだゴードンは、その途端に豪快な笑い声を上げた。
「可哀想なお坊ちゃんだ。女神に触れられないどころか、無一文になっちまうんだから。カード交換なし、このまま勝負する」
随分と素敵な手札だったらしい。手札を覗き込んだニーナが、柳眉を寄せ、もはや隠すこともなく心配そうな表情を私に向けてくる。
私の方は、……またもや、ブタ。
脈略がない並びだし、記号もバラバラだ。運命の女神様はご機嫌斜め、どころかカンカンにブチ切れているのかもしれない。次からはもっと丁重に扱ってさしあげることとしよう。
――とはいえ、運命なんて、どうでもいいのだ。少なくとも、今は。
与えられたものに縛られるなど、つまらなくってたまらない。
私は溜息交じりにカードを伏せた。
「何枚ですか?」
ディーラーが尋ねてくる。
私は首を横に振った。
「替えない。このまま勝負だ」
観客が息をつめたのが分かった。ゴードンの眼も一瞬細くなり、ギラリとした獣の眼が垣間見える。そんな眼をするということは、少なくとも、彼は無敵のロイヤルストレートフラッシュではないらしい。よかった。どうやら、運命の女神は私にブチ切れらしいけど、かと言ってゴードンに大爆笑しているわけではないようだ。
「……俺が交換しないからって、仲良しこよしする必要はないんだぜ」ゴードンが厚い唇を歪めて笑う。「同じ負けるにしても、流されて負けるより、足掻いて負けた方が、後悔が軽くなるってものさ」
私は薄く笑ってそれに返した。
ゴードンは詰まらなさそうに鼻を鳴らすと、それからにやりともう一度笑う。
「じゃあ、お前への死刑宣告だ。さよなら坊ちゃん。若気の至りもほどほどにな」
ゴードンはぱっ、と手札を場に広げる。――スペード、9からKのストレートフラッシュ。これに勝つにはロイヤルストレートフラッシュしか存在しない、強い役。おお、と観客がどよめいた。そして、ゴードンのぎらぎらした目と、観客の目とが、私の手札へと一斉に注がれる。いろんな意味での期待が入り混じった視線だ。この役が強かろうが、弱かろうが、どちらにせよ、観客は楽しいのだから。
私は伏せたカードの背に指を這わせる。私の指先を幾つもの目が追いかけている。私はカードの角に触れて指を止め、そこで言った。
「そういえば、まだお願いの内容を言ってませんでした」
――ゴードンが私の顔を見た。
私は微笑んで、言った。
「私が勝ったら、ここで、あなたの胸ポケットの中身を見せてもらってもいいですか?」
――しん、と場が静まり返った。
観客は眉をひそめる。負けて無様な目を見るのが嫌だから、意味の分からないことを言い出したのだろう、と勘繰る様な声もひそひそと聞こえ始める。鼻白んだように溜息を吐く人もいる。
けれども、ゴードンは違った。彼は目を丸くし、しばらく言葉を発さなかった。私はもう一層微笑んで、カードに置いていた指を離し、自らの胸ポケットに伸ばす。そして、そこから真っ青なチケットを抜き出した。
「ちなみに、私の胸ポケットには白夜の月のチケットが入ってるんですけれど……」
ひらひら、とチケットを振れば、観客の目がそれに釘付けになった。
「あなたの胸ポケットには、何が入っているんでしょうね?」
観客がハッとした。緊張と興奮とを帯びた目が一斉にゴードンを見る。ゴードンは真っ青な顔をして、私を睨んでいた。私は微笑んだまま、ゆっくりとカードに手を伸ばす。カードの背に触れた途端、ゴードンが叫んだ。
「待て! 降りる。勝負を降りる! こんな馬鹿げた勝負やってられるか。この女が欲しいと言ったから、それで俺は勝負に乗ったんだ。いきなり訳の分からないことを言い出すな!」
「誰も、彼女が欲しいなんて言っていませんよ。お願いを一つ聞いてくれと言っただけです」
「いいや、駄目だ、降りる。チップならくれてやる。もういい。ニーナ、行こう」
ゴードンは慌てたように席を立とうとする。しかし、それを女神が腕に絡みつくようにして引き止めた。
「あなたの胸ポッケ、何が入っているの?」
その声は相変わらず妖艶な色をしている。けれども、鋭利な薔薇の棘を確かに潜ませていた。ひゅるりと伸びたニーナの手が、ゴードンの胸ポケットに入り込む。止めようとするゴードンの手を掻い潜り、ニーナは胸ポケットから、それを引き出し、観客にも見えるよう、高く掲げた。
――カジノの俗的な照明に照らしあげられ、虹色の輝きを放つ、ダイアモンド。
白夜の月。
しん、と場が静まり返ったのは一瞬だけだった。真っ先に気が付いた女性から、甲高い悲鳴が上がり、それが火蓋を切る役目となって、あちこちで驚きの爆発が起きる。咄嗟に逃げようとしたゴードンを、ディーラーを始めとした男たちがあっという間に捕まえてしまった。混乱はこのテーブルから周囲へと広がり、カジノ全体がどよめきに包まれる。
ニーナが席を立ち、私の方に駆けてきた。彼女の花のような笑顔が輝いている。ニーナはダイアモンドを大事そうに持ったまま、私の傍に立つと、ふと気が付いたように、伏せられたままのカードをめくった。
開かれたカードは――Aだの4だの9だの脈略がない並びで、記号もバラバラ。つまるとこ、役無しブタ。
「良い度胸してるな」
どこからか、低い男の声が聞こえてきた気がした。
*
ゴードンは、船がアメリカに着くなり、すぐにロシアへと引き戻されることとなった。それまでは逮捕が出来ずに同じ船上にいるのだが、とはいえ奴隷が過ごすような汚らしい部屋に突っこまれて監禁されているようなので、彼としては早くロシアに戻って逮捕されたいと思っていることだろう。
捕まったゴードンは白夜の月を盗んだこと、怪盗Xではないことを素直に白状した。名を騙ったわりにあっさりと白状したのは、怪盗Xという名で逮捕されれば、身に覚えのない大量の窃盗罪が肩に圧しかかるからだろう――初めからそんな小細工をしなければ、ニーナと私に暴かれることもなかったのに。
ゴードンが怪盗Xではないということで、カジノに居た女性陣はみんなほっと胸を撫で下ろしたらしい。憧れの怪盗Xが、本当にあんなみみっちい男だったら、ショックで立ち直れなくなっていたところだろう。
怪盗Xではないことを証明出来て、ニーナもすこぶる嬉しそうだった。
デッキの柵に肘をつき、ニーナは嬉しそうに海を眺めている。まだ朝の七時前で、風がかなり冷たい。体温をみるみる奪っていく風が、ニーナの絹糸のような金髪を弄んでいる。こんな時刻からデッキに出ているもの好きは私たちしかいなかった。
「どうなることかと思ったけど、上手くいってよかったわ」
隣に並ぶようにして立てば、ニーナはにこりと微笑んでこちらを見上げる。私は微笑み返した。
「想像以上に運が悪くて驚いたよ」
「そうね。……まさか、役無しの状態であそこまで強気にいくとは思わなかったわ。ついに女神さまがほんとに大爆笑して、良い手札がきたんだとばかり思ったのに。スリル好きは手に負えないわね」
「いやぁ、カンカンに怒ってらっしゃるみたいだからね。この船の上にいるうちは、ギャンブルはやめておいた方が良さそうだ」
「そうね」
くすくす、という彼女の笑い声が風に乗る。
私も笑い返してから、言った。
「それで、本物の白夜の月はどこにあるの?」
風に弄ばれ、ニーナの金髪が私の肩に触れる。灰色の目がこちらを見る。ニーナはまだ笑っていた。
「……白夜の月なら、持ち主のところに返されたはずよ」
「あれは偽物。本物は君が貰ったんでしょう――怪盗X?」
風が止んだ。金色の髪がぱさりと彼女の背中に落ちる。ニーナは眩しそうに灰色の目を瞬かせ、くるりと身体の向きを変えると、柵の上に飛び乗るようにして座った。見事なバランス感覚で身体を支えながら、彼女はぷらぷらと長い足を遊ばせる。
「……綺麗な宝石は綺麗なところにあるべきだよ」
ぱっ、と差し出されていた手には、美しいダイアモンド――白夜の月が握られていた。彼女はそれを太陽に透かすようにして、灰色の目を細める。
「ゴードンはもちろん、強欲な大富豪の元でも駄目だね。しかるべきところに導いてあげなくちゃ。こんなに美しいのに、他の宝石に混じって匿われてるだけじゃ勿体ないだろう?」
彼女の細く高い声が、次第に低くなり、こちらを見て笑う頃には、すっかり男の声へ変貌していた。その声は、カジノで「良い度胸してるな」と私に言ったものと同じだった。
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
「……でも、怪盗Xは予告状を出してから、宝石を奪うんだよね? 今回の盗み方はポリシーに反するんじゃないの」
「言ったじゃないか、予告状は出してたよ。先にゴードンが強奪していったせいでこんな羽目になったけど。逮捕されて事情聴取が始まれば、予告状なんて知らないと彼は証言してくれるはずさ」
くす、と男の声でニーナは笑う。見た目は相変わらず蝶のように美しい娘なので、奇妙な心地がした。
彼女――いや、彼が手を閉じ、また開くと、その掌から白夜の月は消えていた。随分と器用なことだ。
「で、楽しかったか?」
その瞳がきらりと輝く。さっきまで灰色だったそれは、美しいエメラルドの輝きをたたえていた。
「お嬢さんは、スリルを求めて家出してきたんだろ?」
視線が交差する。
私は柵に肘を付き、溜息交じりに言った。
「いつから気付いてたの? 警察にはバレなかったのに……」
男のふりをする為に、長かった髪を切り、似合わない眼鏡をつけ、紳士服まで新調したのだ。そのおかげで、警察も、他の乗客も、ゴードンも、私が女だと気付かなかった。
「最初から」彼は楽しげに笑う。「部屋に置かれてたトランクに、女物の衣服が入ってたからね」
「私のものじゃなかったかも」
「だから聞いただろ、恋人と来たのか? って――それに、手を掴めば、すぐに女だとわかるさ」
彼の手が私の手を掴む。彼は気障ったく指先に唇を落とし、おどけたように両手を離して笑った。
「それで? あんたの方は、どうして俺が怪盗Xだってわかったの。初対面で気付かれたのは初めてだ」
「賭けよ」
あっさりと答えれば、彼は怪訝そうに柳眉を寄せた。
「賭け?」
「そう。……警察から逃げて私の部屋に入ったり、ゴードンの部屋に忍び込んだり、カジノのトランプを渡してきたり……普通の娘がすることじゃないよ」
「でも、それだけじゃ確信には至れない」
「だから、賭け」
私は笑った。
「いきなり人を怪盗X呼ばわりして、間違えてたら大変だからね。役無しの状態だけどカードを伏せたまま飛び込んでみたわけ。良いスリルだった」
「……あんた、なかなかのスリル中毒だな」
「そうじゃなきゃ、家を捨てて、一人でアメリカに渡ろうだなんてしないわ」
――何でも決めつけてくる母親。私の言う通りにしていれば大丈夫よ、というのが忌々しい口癖だった。母親はギャンブルを好まない。スリルなんて大嫌いだ。だからこそ、その世界に身を投じれば、私はどこまでも自由になれた。そのうち、スリルだけが生きる喜びになった。
母親の好みにぴったりと合う男を連れてこられ、「この人と結婚しなさい」と言われた日、私は家を出ることを決めた。家出をするくらいなら国も出てしまおうと思った。それは――とんでもなく、ぞくぞくする、スリルだ。
「なるほどね」彼は首を傾ける。「ところで、アメリカ行ってどうすんの? 行く当てでもあるの?」
「一応、古い友達はいるけど。いつまでもそこにいるわけにはいかないわ」
「ふーん。じゃ、俺とくる?」
あっさりと、彼はそんなことを言った。思わず目を剥いてそちらを見れば、彼は無邪気な笑みを浮かべていた。
「言ったろ? 怪盗Xは女に優しいんだ。あんたが飽きるまで、あんたの大好きなスリルを提供してやることくらい、朝飯前だぜ? ――今回みたいにな」
「……その為に私を誘ったの?」
「あんたが暇すぎて死にそうな顔してたからね」
ぴょん、と彼は柵からデッキに飛び下りた。その手にはまたダイアモンドが握られていて、彼は白夜の月越しに私を見る。
「美しい宝石が匿われてるだけじゃ勿体ないのさ。あるべきところに導いてあげないと――で、どうする? 後はあんたが決めな」
「……アメリカで何するの」
「もう一仕事」
にひひ、といたずらっ子のような笑みが浮かぶ。気が付けば私は頷いていた。
「一緒に行く」
「いいの? そんなに簡単に決めちゃって。万が一捕まったら、ブタ箱行きなのよ?」
突然、彼の声質が、ニーナの可愛らしい声へと早変わりした。顔に浮かぶ表情も艶やかなものに一変している。私は笑い、大仰に肩を竦めた。
「もしも捕まったら、怪盗Xに騙されて弄ばされた、世間知らずのお嬢様を演じるとするよ」
「良い度胸だ」
今度は男の声で、彼は笑う。
彼に歩み寄れば、その腕が伸びてくる。彼は私の手を掴むと、するりと恋人繋ぎへと変えた。肩を寄せ合うようにしながら、手を繋ぎ、私たちは艦内へと戻っていく――あたかも、この事件を通して、青年と娘の間に美しい愛が生まれたかのように。