太陽系の最果てで
アメリカ人は冥王星が大好きだ。1930年にアメリカ人が発見したので、七百年経った今もアメリカ人は冥王星が大好きだ。だが一週間もあれば到着するこのご時世でも、実際に足を運ぶ人間はアメリカ人を含めて殆どいない。
木星まで一日で行き、ガニメデの宇宙港で一泊して乗り心地と機内食のチキンステーキが最悪の天王星行きに二日も乗ってさらに乗り換え待ちで一泊からのボロ宇宙船で二日。いくら冥王星が好きでテラフォーミングで水と酸素があるとしても、ここにわざわざ足を運ぶ人間は殆どいない。
――だから冥王星の上にある、最果てのバープルートは今日も閑古鳥が無いている。
ここは太陽系の果ての酒場、立ち寄る物は殆どいない。それでも未だに店としての体面を保っているのは果たしてどういう絡繰か。
「いらっしゃいませ」
店主のジョニーはもうノスタルジー映画でも見なくなったカウベルの音に反応して、反射的にそう答えた。客の顔は見ていない。実に七割の確率で調査隊、二割の確率で冥王星の惨状に落胆した物好きの観光客なので特に顔を見る必要はないのだ。どちらにせよグラスに注ぐのは、このろくでもない星の現状が少しでもマシに見える程視界を揺らしてくれる安酒で十分だからだ。
「……驚いた、こんな所にバーがあるんだな」
カウンターに腰を下ろすその男の嬉しそうな声で、ようやくジョニーは残りの一割の客だと気付いた。砂漠でオアシスを見つけたような、希望に満ち溢れた声をしている。もっともジョニーもその男も、砂漠に行ったことなどないのだが。
「水曜日で良かったですね。明日は定休日なものですから」
カシューナッツの乗った皿をカウンターの下から取り出し、男の目の前に置いた。
「それは幸先が良いな……だがもっと幸運なのは、その棚にマッカランがあることだ。ロックで頼む」
「高いですよ?」
「だから好きなんだよ」
ジョニーは諦めたように微笑むと、水割りのグラスに氷を入れ上から十二年物の高級ウィスキーを注いだ。軽くステアし、そっと男の前に置く。
客の風貌はその正体を明確に表していた。伸びた髪に無精髭、指先は汚れ上着も実用性重視のジャケット型宇宙服だ。これでカウボーイハットもあれば映画に出てくるトレジャー・ハンターと言い張れなくもない。ジョニーにしてみれば客も映画の登場人物もロマンを追い求めていることだけは確かなのだが。
男は乱暴にグラスを掴み、浴びるように飲み干した。ボトルを持ち上げ軽く触れば、にこやかに頷いた。
「太陽系で飲む最後の一杯になりそうですか?」
「ああ、やっぱりわかるのか」
「多いですから。自家用宇宙船で宇宙の果てまで」
このバーを訪れる一割の客は、そういう人種だった。一般的な火星に住む勤め人の生涯賃金の約三倍もする自家用宇宙船を書い、何を血迷ったのか宇宙の果てに魅入られたトレジャーハンター。何かあるのかは知らないが、少なくとも太陽系には無いものがあると信じて旅立つ金持ちの自殺志願者達。彼らは皆金持ちで、ここに来る九割の客の何倍も目を輝かせている。
「……マスター、名前はなんて言うんだ?」
「ジョニー・ウォーカーです」
「いい偽名だ。なら俺はミスターマッカランにしておこうか」
「ということは、宇宙船はロールスロイスですか?」
「残念、名前はカティサークストームだ。マッカランが中に入っているからな」
空になったグラスを傾けるミスターマッカランに背を向け、ジョニーは棚からご所望のウィスキーを探す。刻印の通り1923年から緑色の瓶を見せると、嬉しそうに彼は笑った。
「そいつは、ボトルごと貰おうかな」
「キープしますか?」
「冗談だろ」
ジョニーはカティサークストームをカウンターの上に置き、空いたグラスにマッカランを注ぐ。今度は舐めるように飲み始めたミスターマッカランが、呟くように語りかけた。
「あんた、何でこんな所でバーなんてやってるんだ?」
「……生活のためですかね」
「偽名だしな……悪かったよ」
「構いませんよ」
ジョニーが微笑むと、自然と男も微笑んだ。指先で軽く氷を回し、徐々に酒に溶かしていく。
「俺はさ……飽きたんだ」
「と、言いますと?」
「若い時分に一山当ててな、小金持ちの仲間入りだ。面白く無いぞ? パーティーやら政治やら、自由って物がありはしない」
男は自嘲気味に笑い、偽名と同じ酒を飲み干す。
「気付いたんだよ。俺は金持ちになりたかったんじゃない、夢を追いかけたかったってな」
ジョニーは笑う。そうやって頷く事が、バーテンダーとしての彼の一番の仕事だった。
「ごちそうさま。ここにバーがあって良かったよ」
「お会計は……」
「ああ、いい。金はもう要らないからな」
そう言うと男はポケットから札束を取り出し、そのままジョニーの前に置いた。
「またのご来店をお待ちしています」
「そうだな、その時は」
カティーサークの瓶を握りしめながら、振り返らずにマッカランが手を振った。
「美人の宇宙人でも連れてくるよ」
軽い冗談を言い残して、彼はバーを後にする。揺れるカウベルの音だけが、静かな店内に響いた。
アメリカ人は冥王星が大好きだ。特に金持ちのアメリカ人は、最後の一杯をひっかけに必ず冥王星に立ち寄る。もう使わない札束を置き、フロンティア・スピリットを胸に果てのない星の海を目指す。
そういうわけでジョニー・ウォーカー氏の金庫では、今日も大金が唸っている。