-2-
空になった寝袋を、頭のどこかがいまだ回らぬまま、野兎は不機嫌に睨みつけた。
時刻は、明け切らぬ太陽が空を白ませ始めた頃合い。冷たくなり、とうに体温の残らない寝床の名残は、夜明けよりも早く寝ていた少女が起き出したことを示していた。
ぐい、と眉間に皺がよる。
ここは、森の中。
程よく木々がまばらに生え、見通しが効くためにいたずらに人を惑わすことは少ない。複数の国をまたがって広がっているため、何度かクリサンセマムを連れて行き来していた、慣れた場所だ。
だが……森は、変わる。
人の棲み処にはならない場所だ。たった一瞬の不注意で、安全だった足場を失い崖から転落することだって珍しくない。
ため息をつき……舌打ちを二度ほど繰り返してから、野兎はまず、周囲を片付け始めた。焚火の跡を消し、寝袋をまとめる。クリサンセマムを探す間に持ち歩くのは手間だ。よって、印をつけた木の下に生えた藪に適当に押し込んだ。ざっと土を均せば、そこはほとんど、周囲と変わらない。
はっ、と短く息をつく。
クリサンセマムを追うことは、さほど難しくはない。
雪が解け、川の水もゆるみ始めたこの時期は、あちこちにぬかるみが残っている。うっかり足を取られれば、靴だけでなく上着までもひどいことになる、厄介な泥だ。
少女は上手く避けているようではあるが、時々足先を突っ込んでいた。分かりやすい、目印だ。
加えて、目につく場所よりもやや低い位置に、手折られたばかりの若木や枝葉、さらには掘り返された場所がある。まだ真新しいそれらもまた、クリサンセマムが通って行った証拠だ。
食べられる果実や、薬となる草木、野草。野兎が知る範囲で教えたそれらを少女は正確に覚えた上、さらには見つけるのが上手かった。
以前はさほど携帯や売買をしなかったが、クリサンセマムがこまめに採取するため、今では立派な稼ぎの一部になっていた。
木の芽やこの時期にのみ花を咲かせる薬草もある。
しかし春がもたらすのは……そんな好ましい変化だけでは、ない。
ひらひらと鼻先を掠めて飛んで行ったのは、白く薄い、四枚の翅をもつ蝶。美しさに見惚れるうちに、陽射しに紛れて消えていった。
次に足元を横切ったのは、大地と同じ色をしたトカゲのようだった。目にもとまらぬ速さで去って行ってしまい、残念ながら観察できずに下草に紛れてしまう。
鳥の声は賑やかだった。お互いに呼び合い、誰かを待ち続けている。どうしてこんなに響き、まじりあう鳴き声が、しかと届くのかがクリサンセマムには不思議だった。
人の多い街に行けば行くほど、クリサンセマムの声は、野兎に届かなくなるのに。
右の袋には、今日の朝食になる果実が入っている。左の袋は、土を落とした薬草だ。太陽が顔を出す、その直前に目が覚めた。登り始めた日の光と共に起きたのが嬉しくて、つい足取り軽く森の中に入ってきた。けれど。
陽射しが、背に当たれば少し温い。爽やかな風と共に、どこか心が安らぐ、そんな春の気配が満ちている。誘われるように分け入ってしまった。
雪解けに、川も土も緩んでいる。凍り付かせる冬を越えて、目覚め始めたばかりの生き物たちが、どこでも活発に動いていた。
そうやって、気を散らされながら歩き続けて、どれほど経ったのか。
ふと振り返れば、とうに一晩を過ごした場所は無く。
前ばかりで、ちっとも帰りを気にしていなかったことに、今更気づいた。
「……」
――戻れる、はずだ。
印はあちこちについている。もちろん、足跡だって残っている。
ただ、漠然と不安が残るのは。
帰り着いたその場所に……彼が――野兎が、待っているだろうか、という点。
クリサンセマムには、想像がつかなかった。野兎が、あの不機嫌な顔のまま、寝袋を椅子の代わりに座っている、などという場面は。
待つ、というのは、自分の仕事だ。
野兎はよく、「いろ」と命じる。
ここにいろ。部屋にいろ。じっとしていろ。黙っていろ。
待つのは……待たされるのは、クリサンセマム。動くのが、野兎。それはまるで不文律だった。取り決めたわけでもないのに、必ずそうなっている。
ふう、とクリサンセマムはしゃがみこんだ。
楽しく、気分が軽かった時は感じなかったけれど、足は随分と疲れていた。きゅ、と両手の袋を握りしめる。折角摘んだのだから、持って帰りたかった。
と、視界の隅に、今度は黒いものが掠めた。途端に好奇心が刺激され、くるっと顔を横に向ける。
木の枝のように細長い蛇が、体をしならせてクリサンセマムに近づいてきた。緑の両目がじっと見つめると、やがて動かなくなる。
怪訝に思って、身を乗り出す。と、くうっと蛇もまた、鎌首をもたげた。
真っ黒い爬虫類の目――それを覆い隠して……ぐわっと開いた口の中は、どこか白っぽかった。
息を、呑む。
「――このっ、阿呆が!」
強い力が、肩と腕とを掴んで後ろへ引き寄せた。体が浮き、地面が遠ざかる。視界がぐるりと反転した。目を瞬いて、首をひねって後ろを見る。
そこには、広い背中がある。
野兎が、クリサンセマムを担ぎ上げたと同時に、飛び退ったのだ。
固い肩の上で、少女はようやく何が起こったのかを理解した。
見下ろした蛇は小さくなり、三歩ほど先の地面にとぐろを巻いていた。そのすぐ横に、手にしていたはずの袋が二つ、落ちている。
腰を掴んで引き下ろされる。眉間に皺、灰色の目には冷たい怒りがあった。
「この、阿呆が」
繰り返す。クリサンセマムはただ俯いた。あれは毒蛇だった。知っていたのだ。知っていたのに……警戒を怠ったのは、自分自身だ。蛇はとうに草むらに潜り込み、姿はない。
「手のかかる……まったくの、阿呆め」
「あの……ごめんなさ」
「黙っていろ」
「……」
鋭くはねつければ、少女は肩を落として俯いた。項垂れる首筋は、白くて細い。骨さえ浮いて、今にも折れそうだった。
手がかかる、弱い生き物のくせに――ちっとも、大人しくはない。
手を掛けてきた。故に――
たかが、ヤマカガシ風情に。
「誰が、くれてやるか」
渡す気は、ない。
「……え?」
クリサンセマムの、顔が上がる。目が合った。どこまでも深い、濃い緑。森よりもなお見透かせぬ、それでいて、一層に陽を享けて輝く。
腕を取った。
「来い」
命じて、担ぎ上げる。大した抵抗もせず、少女は野兎に体を預けた。歩き出そうとすれば、あの、と指が小さな袋を差す。拾い上げて渡せば、しっかりと両腕に抱え込んだ。
手のかかる、ちっとも言うことを聞きはしない、小さな命。
独りではもうないと、ささやかな温もりが告げていた。
帰り着いた場所に、街で別れたはずの男が鎮座していたのは、また別の話だ。
***
ずっと独りだった。
なぜか、二人になった。
三人目が押し掛けて来た。
それ以上は、数えるのが馬鹿らしくなってやめた。
ただ、これだけは変わらない。
どいつもこいつも、人の言うことなんざ聞きやしない――