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――――ずっと独りだった。
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川面にきらめくのは、光を反射する魚の鱗だ。
浅瀬に無造作に手を入れ、「ひゃあっ」とクリサンセマムは水の冷たさに身体をちぢこませた。
パシャン、と水滴が跳ねる。
魚は逃げた。
「野兎、見て……」
良く晴れた日だった。気候は穏やかで、風は静かに吹き、心地よく髪や服を揺らす。北の大地から北風を避けるように南下してきた今、この地は春の訪れを歓迎していた。
森を抜け、牧草地が近いためか、そこは川辺の周りにも緑が広がっていた。整備されているとは言えないが、一度人手が入ったのは明らかだった。
そこで初めて……クリサンセマムは、「魚」に出会った。
悠々と小川を泳ぐ生き物に、歩きながら見惚れることしばし。
当然、前も下も見ずに進んでいたせいで、見事に足をつっかけ、盛大に転んだ。
そのせいで、野兎はクリサンセマムの挫いた足を、靴の脱がせた上でさらに川の水に浸した布で、冷やす羽目になっていた。
常なら、大人しく手当され、決まる悪くなると肩をちぢこませるクリサンセマムだが、この時ばかりは好奇心に勝てず、出来るだけ川辺に寄り……何度も何度も、懲りずに手を伸ばしていた。
が、当然逃げられる。これを繰り返す。
それでも、笑った。
「きれいね、野兎。きらきらしてる」
「鱗に反射してるだけだ」
心底つまらない。澄みきった空の下、憮然と野兎はただ少女を見下ろす。暇つぶしにさえなりもしない。
クリサンセマムが、また手を伸ばす。
指をすり抜けて、魚は逃げた。今度は……手の中に、川底の丸くなった小石を拾った。
「見て、野兎。これも……きれい」
振り返って笑う。爪よりも小さな、白い石。
「濡れて光っているだけだ、阿呆」
「そう?」
首をかしげる。ため息がこぼれた。こんなバカなことをし続けるために、わざわざ足を止めているのではない。
時間は、有効に使うべきだ。
魚を追いかけるクリサンセマムの横に立ち、音もなく野兎は腰の短剣を抜いた。
「――」
一瞬の間。
飛沫が上がった。クリサンセマムが、凍りつく。
短剣が川から引き上げられる。少女の呆然と追いかける目線は、張り付いたまま離れない。
びちびちと、最後のあがきをしているのは、ついさっきまで鱗をきらめかせていた、あの魚だ。
真ん丸になったまま、閉じない瞳が、野兎に向く。
「……なんだ?」
嫌そうに顰められた。機嫌が悪くなったのを察して、クリサンセマムは首を振った。
「なんでも……ない」
「そうか。邪魔するなよ」
出来るはずのないことをいいながら、野兎は靴を脱ぎ始めた。裾をまくり、本格的に漁猟を始めた。
川面が揺れる。水が跳ねるたびに、クリサンセマムの脇には血を流した魚が放られた。赤い色はやがて筋となり、透明だった川の流れに交じる。ゆっくりと広がり、それでもすぐに飲まれて色は無くなった。
狙う。構える――捕える。
野兎の動きに、無駄は一切ない。必要な力と、必要な速さ、そして適切なタイミング。一突きののちに魚たちは野兎の餌食になった。
しばらくは、ただただ愕然としていたクリサンセマムが、流れるような動きを見つめ続ける。
衝撃が薄れると、少女の眼差しは……少しずつ変わっていった。
称賛と、憧憬――湛えながら、双眸が陶然と見惚れる。
輝く銀鱗の生きる様に、手を伸ばした時と同じ視線。
やがて漁を終えた野兎は、次に同じ短剣を使い、得物を捌きはじめた。
腹を裂き、内臓を掻き出す。川の水で血を流し、必要であれば頭を落とす。今日の夕方に着くであろう、次の街で売るか、塩漬けにして食料とするか。旅慣れた野兎にしてみれば、何度となく繰り返してきた、ただの作業だ。
片手間に、火を熾して拾った木の枝に塩をまぶした魚を刺し、炙って昼食にする。
焼きあがった物をクリサンセマムに差し出せば、受け取ったまま……まじまじと観察する。まさか、食い物と知らぬのか、とあらぬ考えがよぎり、先にかじりつけば、その様さえもじっと見続けるばかり。
「……」
「……食えぬ、とでも抜かすつもりか?」
焦れて問えば、真顔のまま首を振られた。小さな口が、焼きあがった背中をかじり……「あちっ」とすぐに離れた。少し息を吹きかけて、もう一度。
咀嚼した口の後に、喉が動く。
「……おいしい」
目を丸くして、小さな声が感嘆した。
やがて……四匹と半尾が野兎の、一匹と半分が、クリサンセマムの糧となった。